2012年12月12日水曜日

7月14日(土)童心にかえってパン作り




・・・・・・・・【パンを焼いた電気竈】

さて、基本的な材料(小麦粉・サワークリーム・塩・イースト・水)さえあれば、パンはできる。ライ麦粉には種類が多く、「袋に書かれている数字(480、700、1400など)が高いほど栄養価があります」という解説から、実技開始だ。

トウモロコシ・粟・そば、胡麻・麻の実・ヒマワリの種・カボチャの種や胡桃・葡萄などが次々に台に並ぶ。基本材料に、これらを単独で、あるいは、いろいろ混ぜたり、飾りにしたりして、「どんなパンになるか、楽しめますよ」と、促す。

以前は、材料を捏ねるのは唯一の男性の仕事で、1時間の力仕事だったとか。会社や工場で働く家庭が増え、自家製パンが敬遠されるのも当然だろう。

現在の生地の作り方は、粉にイーストを入れ、サワークリームや水を入れて手で混ぜ、生地がなめらかになるまでこねた後、よく膨らむように1〜2時間休ませる。
それから形を整えて(成形)、200度Cの電気竈で焼く。1kgの材料だと、約30分で大きいパンが焼きあがる。

この成形部分が面白かった。細長いのや、丸いのや、小さいのや、大きいのや・・・。参加者は好みの形を工夫したり、飾りをしたり。紐のようにのばした生地を組み合わせて、芸術的?なものもある。まるで粘土細工をするような感覚で、ワイワイ、ガヤガヤと賑やかだった。



・・・【焼きあがったパンを並べて記念撮影】

焼き上がったパンが並べられたときの歓声。童心にかえったひとときだった。
「パンは焼き立てよりも、水分が抜けて冷めてからが美味しいのです。みなさんはこのパンを全部持って帰って、召し上がってください」。

袋いっぱいのパンをお土産に満足し、1時頃ホテルに帰着。
昼食は、もちろん、お手製のパンに、チーズ、ハム、トマト、レタスを挟んでサンドイッチにした。こんなとき、歩いて1分のスーパーマーケットが冷蔵庫代わりになって、とても便利なのが有難い。

余談だけれど、このパン作り体験には夫婦で参加が多かったが、手作業苦手の夫は「パン作りねえ・・・」と尻込みし、インスブルックの州立博物館へ。(これについては、夫が現地からのツイッターに書いた)。

午後は休息を兼ねて、PCなどをしながら、寛ぐ。

6時半に夕食へ。今夜もホテルのレストランで揃うことになっている。
ところが、第2陣の名古屋グループの姿はなく、開始時刻なので食べ始めた。
半ば過ぎになって、草臥れて憮然とした表情で現れた面々が、ボソボソと呟き、トラブルがあったことがわかった。

彼らは、今日は南の国境を越えて、イタリアのブレッサノーネへ出かけたが、帰りの集合時刻に来ない人がいたので、予定の次の列車に乗って、やっと夕食に間に合ったのだ。次の列車の時刻になっても行方不明者は現れなかったので、添乗員が残ったという。

「その人は、その前の集合時間にも遅れて2度目なのよ。迷惑だった・・・」と、恨めしげな口振りだった。ツアーに参加して時間を守らない人がいると、必要以上に心身の疲れを感じてしまう。「まだまだ先があるのだから・・・」と、自戒した。

7月14日(土) パン工房「ルエッツ」へ




【パン焼きを教えてくれたマネージャーのカール・エラーさん】

熟睡して6時頃目覚め、「こーれは寝過ぎた、しくじった・・・」と、大急ぎで身支度。時間に急かされるのが苦手だから、早起きするはずだったのに。
夫はすでにシャワーを浴び、「いつまで寝ているのかと、待っていたよ」と言うので、「起こしてくれればいいのに・・・」とブツブツ。
6時半に朝食へ行く。

8時15分、中央駅集合。
午前中3時間ほど、日本人向けの地元旅行社(JTC)モラスさん企画のプログラムに参加して、インスブルック郊外のケマーテン村にあるパン工房「ルエッツ」で、パン作りを体験した。

ケマーテン駅から数分。家々の庭に小さなリンゴや杏、ナシなどがたわわに実っているのを眺めながら歩く。遠くにある山並みの前面に平野が続き、パン工房前に広がる麦畑では、青々と穂を伸ばしている。後で「パン作りの材料にするために栽培しています・・・」と、聞いた。

「ルエッツ」では、安全な食を考える11人の若者が、パンの普及を目的に活動している。気軽にできる日常的なパン作りを教え、付設の売店やレストランでは、焼きたてのパンを提供している。
最近のオーストリアでは、生活スタイルの変化に伴って家庭でパンを焼く風習がめっきり減り、特に都市では、ほとんどの家庭はパンを購入している。ルエッツにわざわざ立ち寄って行く車が多く、賑わっている様子を見ると、こうした日常がわかる。

マネージャーのカール・エラーさんが、基礎コースのデモンストレーションをしながら、丁寧にパン作りを説明。ドイツ語から日本語への通訳はモラスさん。

パンにまつわる話が面白い。
例えば、毎年11月2日と3日は、「パンを与えるお祭り」で、幼児や老人などにパンを配るそうな。
10月20日から12月1日の間には、この1年に残った材料(ライ麦)でパンを焼き、家畜にも与える。このパンはいちばんエネルギーがあり、冬を控えた家畜の栄養補給になるという。新しいライ麦を収穫し、古い材料を無駄にしない意味もあるのだろう。
また、イースター(復活祭)には、ウサギの形をしたパンを焼いて、子どもに与える・・・。

「こうしたパンを焼く行為は、人々の暮らしが、火・水・風・土・・・など、たくさんの恵みを受けて営まれていることに感謝して、自然に返す儀式なのです」。

美味しいパン作りに取り組んでいる思想だろうかと思いながら、日本の「おくどさん(竈さん)」信仰と同じだなと感じた。

2012年11月26日月曜日

7月13日(金) 休養日




【休みの日には夫はツイッターを送ったり、ブログを書いたり。iPadで受信したツイッターの画面にツィラタールでハイキングする私の姿】

目覚めると7時。朝寝坊したが、休養日にしているので、気分はノンビリ。

朝食後に洗濯を済ませ、iPadで朝日新聞を読み、メールをチェック。
九州で死者50人を超す大洪水があったとの情報。大分は父の生まれ故郷だし、終戦後の3年間住んだから友人・知人も多く、どうしているだろうかと気懸り。

昼食は、日本から持参したご飯・豆腐味噌汁・昆布の佃煮に、現地調達のチーズ・リンゴ・コーヒーなど。
夫婦してなんでも食べる胃袋だが、最近は日本でも和食中心だし、長期間滞在の旅では和食恋しになるだろうと、たくさんのレトルト和食を持参している。外出しない日には、好都合だ。

6時半から、夕食。
週のうち金曜・土曜の夕食は、ホテルのレストランでツアー仲間と一緒だ。
ホテル滞在中の夕食は9回あったが、毎回、異なったメニューだったし、日本語メニューが用意された。
長期滞在日本人を迎える2度目の今年、レストランでは、日本人向けの味を研究し、量の調節もしている由。去年も滞在した添乗員は「レストランとしては、かなり力をいれていますよ」と言う。
夕食メニューは、原則として、前菜とメインディッシュ、デザート。

今日の夕食は、私たちがツィラタールへ出かけた日に滞在第2陣(同じ旅行社の名古屋支店から16名)が到着し、第1陣との顔合わせで総勢28名。
個人客中心のレストランでは、ちょっと壮観?だった。
初めはおとなしかったけれど、次第に盛り上がって、日本のニュースやインスブルックの情報など、賑やかに話が弾んだ。

今日は洗濯のために外出したが、洗濯は機械がしてくれ、ほとんど動きのない1日だった。読書したり、手紙を書いたり、ゆっくりと休息できた。

7月12日(木)北の国境を越えてドイツのミッテンヴァルトへ




【ミッテンヴァルトは、建物の壁にフレスコ画が描かれている街としても知られている】

朝食のときに、久しぶりにツアー仲間と会い、お互いの体験の情報交換をする。
その後、2日分の朝日新聞を読み、雑用の片付けを少々。

10時38分、インスブルック中央駅発の列車で、南ドイツのミッテンヴァルトヘ出かけた。単線で待ち時間があるので1時間かかるが、距離は20kmと近く、オーストリア国境からはわずか3km。車窓に断崖絶壁が迫り、たくさんのトンネルを抜け、樹木がまばらな山脈を眺めているうちに到着した。

小さな穏やかな村の東西には、スキーやハイキング用のリフトやロープウェイがあるけれど、かつて商業で栄えた面影はほとんどない。
駅から歩いても、市庁舎や教会のある中心部には数分で着いてしまう、小さな、小さな村だった。

「聖ペテロとパウロ教会」前に、村の守護神マティアス・クロッツ(1653〜1745)の記念像がある。繁栄から衰退のどん底に落とされたミッテンヴァルトを再生した人物だ。
時代を切り拓く人物の存在が、どんなに重要か。現在のミッテンヴァルトの村の佇まいを眺めながら、つくづく考えさせられた。



【ミッテンヴァルトをヴァイオリン製造の街として発展させたマティアス・クロッツの記念像】

近世以前のミッテンヴァルトは、北方のアウグスブルク・ニュルンベルクと、南方のヴェネチア・ヴェローナなどの重要な商業圏を結び、人や物資の往来で繁栄していた。それ以前も、ローマ時代からアルプス越えの間道が利用されて、交通の要衝だった。
ところが、大航海時代の幕開けで、帆船による物資流通が主役になった。ヨーロッパ商業の動脈の一翼を担っていたミッテンヴァルトは、新興のネーデルラント(オランダ)に敗れ、急速に衰退していった。

そんな時代に、「なんとかしなくては・・・」と危機感を持ったクロッツが登場する。イタリアで、ヴァイオリンを製作したアマーティ家(注)が活躍しているのを知った彼は、ヴァイオリン製造の技術修業に出かけた。

(注)アンドレア・アマーティ(1500〜1611頃)ヴァイオリン製作者
弟ニコラ・アマーティ(1568〜86頃活躍)ベース・ヴィオラ製作者
長男アントニオ・アマーティ(1550〜1638)
次男ジェロニモ・アマーティ(1556〜1630)
兄弟で父のヴァイオリン製作法の改良に取り組む
孫(次男の子)ニコロ・アマーティ(1596〜1684)製作改良を完成し、ニコロ一門から、グアリネリ、ストラディバリウスの名工を輩出

クロッツは修行を終えてミッテンヴァルトに帰ると、ヴァイオリンばかりでなくチェロやヴィオラなどの弦楽器製造業を確立。ドイツ語圏には、親方を頂点にした職人・徒弟を育てる伝統があったので、クロッツの先見が実り、多くの弦楽器職人が育った。
ミッテンヴァルトは、商業・運送業に代わって、弦楽器の技術を重視する職人が活躍する時代を迎え、19世紀には、村で年間1万点の弦楽器が製造され、ヨーロッパ各地に輸出されるほどに成長していった。
現在、村にはヴァイオリン製造の工房が10軒ある。
以上、ヴァイオリンの村ミッテンヴァルトの歴史的な背景を少々。

クロッツが住んだ家は、「ヴァイオリン博物館」になっている。村を代表する観光名所で、これがなかったら、ミッテンヴァルトは、アルプスの谷あいの村に過ぎないと感じた。



・・・・ 【クロッツがヴァイオリンを造った工房を復元した部屋】

時代によってヴァイオリンの形が微妙に変化している。音色の追求のために、改良の試行錯誤を繰り返した結果がわかって面白い。
どのようにつくられていくのか、製造工程が具体的にわかる部屋がある。木材の乾燥の手順、微妙な曲線を作る道具など、「なるほど、うまく考えられているね」と理解できた。

所々に、展示物を解説するガイドがいて、歴史的な背景を熱心に話す。「ヴァイオリンは、モンゴルの馬頭琴がはじまりです」と聞いて、東西文化の伝達や交流の歴史を感じた。

1934年製造の弦楽器を見つけたとき、わが寿命と同じだと妙に感心した。

小さな博物館だから、30分ほどで見学は終了。

昼食後、クロッツに所縁のある「聖ペテロとパウロ教会」へ。こじんまりとして美しいが、内部に入ると、カビ臭い。

村の通りに面している古い建物の壁に、フレスコ画が描かれている。外に描かれているのだから、聖堂や修道院のフレスコ画と比較するのは問題だが、色彩のゴテゴテとした印象は、ドイツ系の色彩感覚か? 優雅というには遠い。
聖母マリアや天使を優雅に描いた宗教的なもの、風景や村人の生活を描いたものなど、だまし絵のような装飾的なものなどがある。建物の持ち主が依頼したのだろうか。フレスコ画が、どんな背景で描かれたのか興味があったが、わからず仕舞いだった。純朴な、稚拙なものが多かったけれど、村の職人(画家?)の心意気を感じた。

2時半の列車でインスブルックへ戻った。車両の半分を仕切ったこどもコーナーがあり、カラフルな遊具に興ずる子どもの様子が印象に残った。

2012年11月18日日曜日

7月11日(水) マイヤーホーフェンのハイキングを満喫




【ペンケン山のハイキングコース、標高2000mの天空散歩】

5時半、起床。
リュックサックに荷物をまとめ、今日の予定を確認し、早めの朝食を済ませ、8時半にホテル出発。雲が次第に増えて、イヤーな感じだ。

ツム・アム・ツィラー駅から、終点マイヤーホーフェン駅まで15分足らず。
マイヤーホーフェン(標高650m)の街の西側にあるペンケンバーンのゴンドラを乗り継ぎ、頂上駅ペンケン(標高2005m)へ。

最初のゴンドラは動いている最中に、突然、停った。地上までかなりの高さがあるし、目の前に急斜面が迫っている。1分足らずだったが、ヒヤヒヤ、ドキドキの時間は、なんと長かったことか。

一山越えた中継点(標高1789m)からのゴンドラは、金網に包まれて、まるで鳥籠だ。冷たい空気がスースー通り抜けて寒いし、床の隙間から下界が見えて怖い。
乗り込むときに気にもせず、目の前にきたゴンドラに乗ったのに、すれ違うゴンドラを見ていると、ほとんどが透明なアクリル板に囲まれている。鳥籠はたまーにやって来るが、10台に1台もない。「帰りは、絶対に鳥籠には乗らない」と、宣言した。
そのうちにゴンドラは深い霧の中に入って、真っ白い綿菓子に包まれたような感じになった。鳥籠の中にも霧がこもって、向かい側に座っている夫がぼやけて見える。空間の広がりがつかめないので居心地が悪く、緊張した。奇妙な体験だった。

ペンケン台地のハイキングコースは、緩やかな坂道だ。
歩き出すとまもなく、斜面いっぱいにまるで絨毯を広げたように、黄色のお花畑が続く。
脇道を少し入ると、小高い丘になる。夫はカメラを手に登り始めたので、「まだまだ、先があるから・・・」と、リュックサック番をしながら休憩し、しばし待った。

ところどころに置かれているベンチで休むたびに、眼下の眺望に息を飲んだ。
遠くまで幾重にも重なっている山なみ。
谷間にみどり色の湖が横たわって、キラキラと輝いている。その周りの細い道に人が動いている。



【谷を隔てて向こうに3000m級の山が連なる】

垂直に切り立つ崖をロープでよじ登っているグループ・・・。
急斜面を飛び立ったパラグライダーが、風に乗って雲に吸い込まれるように消えて行き、また現れる。
ベンチのそばに牛が群れて、カウベルを響かせている。こんなところに放牧されている牛たち。
視界のすべてを見落とすまいと追いながら、次々に感嘆の声をあげた。

このハイキングコースは、子ども連れの家族が多い。緩やかな坂道だし、休息できる場所に遊具が備えられているからだろう。ハイキングに来て、トランポリンでもあるまいしと、感じたけれど・・・。

標高2095mにあるレストラン「ペンケン・ヨッホ・ハウス」で昼食にした。
夫は唐揚げのハーフ・チキンに大量のポテトフライと地元のツィラタール・ビール。私はたっぷりの具入りのヌードルスープにサラダにラドラー。
ハイキングの楽しみがあるせいか、食欲旺盛で、よく飲み、よく食べた。

いつのまにか雲が湧き上がり、風が強くなっている。そのときを待っていたのだろう。インストラクターの指示で、パラグライダーが次々とスタートして、宙に舞っている。どこまで飛んでいくのだろう。興味深々で眺める見物客が多い。

2時頃、帰途につく。
中継駅で乗り換えたゴンドラには、椅子がない。急勾配の斜面にはケーブルの支柱がほとんどなく、ゆらゆらと揺れて怖い。スピードを感じて、思わず足を踏ん張った。上りでは気にならなかったのだが・・・。

晴れの暑い街中を歩いて、マイヤーホーフェン駅へ。
発車間もなく雨が降りだし、ツェル・アム・ツィラー辺りでは大雨。イェンバッハでOBBに乗り換える頃には篠突く雨で、雷鳴が響いた。
ウイーン発ブリゲンツ行の列車の客席はガラガラで、アッヘンゼーへの遠出とは大違いだった。ゆっくり寛ぎながら、インスブルックに無事に戻った。

「山の天候がよかったし、眺めが素晴らしかったし、満足したなあ。ほんとうにラッキーだったね・・・」と語り合い、このハイキングの感動に触発されて、滞在中にハイキングを重ねるきっかけになった。


この日の記録は夫が旅日記に書いています。画像ともにご覧ください。
7月10(火)-12(水)ツィラータールへの旅、その3

7月10日(火)⑤レストランでチロル民謡を楽しむ




【夕食メニューに選んだウィンナー・シュニッツェルの巨大さに驚いた】

通りを歩いているときに、チロル民謡の生演奏の広告を見つけた。演奏開始は8時で、ガストホフ(ドイツ語圏特有のレストラン付きホテル)「キルヒェンヴィルト」が会場になっている。1度ホテルに戻ってから、ここで夕食を済ませてライブを聴くことにした。

夕食体験は、言葉が通じないもどかしさ、情けなさ、可笑しさを、充分に味わった。その顛末は・・・。
ウエイター&ウエイトレスには、まったく英語が通じない。私たちはドイツ語メニューは読めても、料理の詳細がわからない。
ここもオーストリアだから、「ウインナー・シュニッツェル」と言えばわかるだろうと注文したが、キョトンとして通じない。牛の鳴き声をしながら絵を描き、手振り身振りで注文すると、「おお、ピッグね。OK」と言う。
夫と顔を見合わせ、どんな料理が出てくるかと、興味津々で待った。

大きな大きなウインナー・シュネッツェルの皿が出てきて、見ただけで満腹になった。夫はサンダーという魚のフィレのソテーを注文。これまた驚異!の大皿で供された。

この辺りは、楽器チターの発祥の地だし、クリスマス前後に歌われる「聖しこの夜」を世界的に普及させた人物がいたし、音楽活動が盛んな土地らしい。

演奏は「Zillertaler und Sie Geigerin(”ツィラタール仲間と女性バイオリン弾き”楽団)で、聴いている観客には先刻お馴染みのチロル民謡が次々に演奏される。
合間には、落語的?、漫才風の掛け合い?があり、笑いがドッと起こる。曲に合わせて、次々にダンスに興じる人が増えていく。

奏者と客の陽気なやりとりはドイツ語だから、料理の注文と同じく、内容はさっぱりわからない!。だが、歌詞は知らなくても、中には曲は聴いたことがあるから、ハミングしながら体を揺らせたり、手拍子を打ったり。
賑やかな雰囲気を楽しんだ。
(演奏中の楽団の画像は、④で引用した夫のブログ記事にあります)

日中の悪天候を吹き飛ばすような、二人旅の1日目は、無事に終わった。

7月10日(火) ④ポストホテルにて




【ツム・アム・ツィラーで泊まったポストホテルは、画面左側手前から二つ目の切妻屋根が続いた建物。目の前をツィラータール鉄道が通っていた】

ポストホテルは2年前に開業したばかりで、設備が新しい。プールやサウナ、ジムなどを備え、機能的な台所、家具付きのリビング、ベッドルームなど、ゆったりとした贅沢な空間だ。滞在型のホテルだから、1夜だけではもったいない。

前や隣の数部屋には、サウジアラビアからの大家族が滞在している。扉を開け放しているので室内が丸見えだし、小学生くらいの男の子数人が、廊下でボール蹴りをしたり、走り回ったり、とても煩い。夫が「静かにして欲しい・・・」と抗議すると、しばらく静まったが、やがて男の子たちの取っ組み合いの喧嘩が始まり、複数の女性(母親たち?)が飛び出してきて、大層な剣幕で怒鳴った。全て廊下での出来事で、ホテルの設備はよかったけれど、雰囲気は問題あり!

ベランダの前に、道路を隔てて鉄道線路がある。蒸気機関車の運行時刻を確かめると、間もなくやって来る。デッキチェアに座り、カメラとビールを手に、待ち構えた。

蒸気機関車の煙は豪快なエネルギーを発散している感じで、楽しい。
観光客に人気だと聞いていたが、乗客は少ない。ヨーロッパの近辺諸国からは、車を利用するのが便利だし、運賃はジーゼル列車の倍だから、観光客の利用は少ないのも当然か?

蒸気機関列車の通過を眺め、周辺に目を転じると、線路の向こう側に、寺院の尖塔が聳えている。地図を広げて、「あの辺りが街の中心だろうね。こじんまりして、歩くには好都合だ」と、様子を探りがてら、散歩に出ることにした。

また小雨がちらついているが、傘がなくても気にならないくらいだ。
通りの建物のベランダには、ペチュニアやゼラニュームが競い合うように溢れている。絶妙な色彩の取り合わせが素晴らしい。清澄な空気に育てられた美しい花々!

墓地にもまた、区画ごとに花々が溢れている。写真をはめ込んだ墓石が興味深い。墓前のロウソク型の電灯を点けて、墓石に手を置いている人がいる。家族や知合いだろう。そんな人が次々にやって来るから、暮れ馴染む時刻に亡き人と過ごす習慣なのだろうか。穏やかな共同体の繋がりを想像した。

大地にがっしりと建つ木造家屋が多く、惚れ惚れするような佇まいだ。板壁には茶色の木目や節があり、木材の板を葺いた屋根も目に付く。チロル風の建築やインテリアは、エコロジーを唱えなくても、昔から自然を大事にしている。

この日のことは夫が以下のブログに書いています。そちらの画像も参照してください。
7月10(火)-12(水)ツィラータールへの旅、その2


7月10日(火) ③ 雨のツェル・アム・ツィラー






【ツィラタール初日にツェル・アム・ツィラーから登ったハイキングコースの鳥瞰図。現地で入手したハイキング・マップから転載】

沿線に大きな木材集積地が続く。列車の中までツィルベ(しもふり松)の香りが漂ってくる。チロル地方の木造家屋や家具に欠かせない木材だ。あとで地元旅行社のモラスさんから、「この沿線はチロル地方ばかりではなく、オーストリア全体、国境を超える南ドイツも含めた重要な木材集積地です」と聞き、納得した。

10時20分、ツェル・アム・ツィラー駅(標高580m)で下車。駅からすぐの「ポストホテル」へ行き、とりあえず荷物を預けた。

曇り空の雲の動きが速い。臨機応変に予定が変えられないのが、決まった旅の悲しさで、呪文のように、「雨が降りませんように」「視界が拡がりますように」と、何度も繰り返す。
クロイツヨッホ・バーンのゴンドラで山上駅へ昇る途中、雨がポツポツと降り出したが、麓の方は薄日が差している。そのうちに、一寸先は闇ならぬ真っ白な、茫漠とした雲の中に入ってしまった。

中継点ヴィーゼナルム(標高1309m)で小型のゴンドラに乗り換え、終点のシモンズ・ベルグシュタード駅(標高1744m)に着く頃には、傘が必要な降りになっていた。
「どうしようか。残念だなあ・・・」と言いながらも、上下のレインウエアを着て、しばらく様子を窺がった。小降りになってきたので「行けるところまで行ってみよう」と、歩き始めて間もなく、また驟雨。

クロイツヨッホ・ヒュッテ(標高1904m)まで行く計画は断念して、引き返した。
山上駅近くのレストランで昼食にしたけれど、食べ終わる頃には晴れて、麓まで見事なパノラマが広がった。もう一度、改めて山歩きをする気力はすでになく、連なる山々をゆっくりと眺めながら、周辺を歩いた。

ゴンドラで降りると、陽射しが強く、ホテルへトボトボと歩く道のりの長かったこと。目的が果たせなかったこともあって、下界の暑さが身にこたえた。

この部分は現地滞在中に夫が、旅行記を書いています。以下をご参照ください。
7月10(火)-12(水)ツィラータールへの旅、その1

7月10日(火) ②ツィラタール鉄道の蒸気機関車




【ツィラタール鉄道、蒸気機関車に牽かれる列車。「アルプス・チロルの鉄道」(JTB出版)から転載】

インスブルック8時52分発のOBB(オーストリア連邦鉄道)に乗り、イェンバッハでツィラタール鉄道に乗り換え、アルプスの山あいの谷を南に辿って行く。北へ向かうアッヘンゼー鉄道とちょうど反対方向だ。

7月8日の日記に書いたアッヘンゼー鉄道の蒸気機関の列車は、標高差約440メートルの山岳地帯を走っている。横綱が豪快な押出し相撲を決めるのに似て、蒸気機関車は、進行方向の前に連結した車両を押す力持ちだ。急勾配でもボイラーを水平に保つために、前のめりの傾斜がついていて、蹴躓いたときの「オッ、トッ、ト」の感じだった。乗客を観光地に運ぶだけでなく、蒸気機関車そのものの夢を運ぶ趣があった。

ツィラタール鉄道は、イェンバッハからマイヤーホーフェン間のほぼ平坦な谷あいの32kmを走る。軌道は760mmで、世界でいちばん狭い。創業以来100年を超え、沿線住民の生活に密着した鉄道だ。観光シーズンには、日に2往復蒸気機関車を走らせ、週末には一部の区間で、運転体験のプログラムを組むサービスもある。

乗車ホームの外れにある給水タンクの前で、蒸気機関車への給水が行われている。
”きわめて、まともな小さな蒸気機関車”だが、「また、蒸気機関の列車に乗る」と、子どものように単純に期待した。

列車内の向かい合う椅子席の間の小さなテーブルに、「時刻表」が印刷されている。それを見ると数駅毎に停車駅がある。その間の途中駅はスキップすることになっているのに、実際はほとんどの駅に停車している。
「どうしたのかしら?」と訝ったが、やがて徐々に様子がわかってきた。スキップ駅から、列車の車掌に連絡すると停まる。乗客が降りたい駅があれば、列車内にあるボタンを押せば、停車する。そんな仕組みだった。
それでも決まった停車駅には、ほぼ時刻表どおりに着く。鉄道は単線だから、すれ違う駅で停車し、早く着いてもすれ違う列車が来なければ、前に進めない。
要点をおさえた時刻表は実に合理的で、住民の利便性に配慮しているなあと、感心した。

実に滑稽な話だが、私は蒸気機関の列車に乗ったと思っていた。
帰国後、夫から「あのときは、ディーゼルの普通車に乗ったんだよ。あんたさんには参るなあ・・・」と呆れられ、大笑いになった。
どうやら、イェンバッハでの乗換えホームで給水中の蒸気機関車をみたことが、原因だったらしい。列車は「ピーッ」も「フォーッ」もなく、静かに発車したし、臨機応変に停車したのも、日常的に利用されている沿線住民の足だったからだ。
その段階で気付かなかったことに愕然とし、夫が二人旅の企画をして詳細はすべてお任せだったことが、思い込みを助長したらしい。いや、はや。

7月10日(火) ①ツィラタール二人旅の朝




【これから1泊個人旅行で出かけるツィラタールの鳥瞰図。「チロル・パノラマ展望(新潮社、とんぼの本)から転載】

今朝は4時半頃目が覚めてしまった。もう少し寝ていたかったのに・・・。
仕方がないので、持参したパソコンを開き、録画してきたNHKの朝6時25分から10分間のテレビ体操を見ながら、体を動かす。夜明けのホテルの一室の可笑しな夫婦の姿!。

昨夕刻から荒れ模様の天候になり、夜半には稲妻が走り、雷鳴が轟いて大雨が過ぎた。2度、停電。まだ降っている。
テレビをつけると、どこかの山の上の家が燃え、消防士が長いホースを引っ張って消火する姿が映し出されている。続いて、土砂崩れの線路を点検する鉄道員の姿も。映像を見ながらテロップで流れる地名を地図で確かめて、「近いよ」「離れた場所だ」と判断する。だいぶ被害が出たらしい。

天気予報は、テレビのチャンネルによって著しく違う。インスブルックでも、最高・最低気温はかなり違うし、風向きもまちまちだから、どれも当てにならない。今日・明日の天気予報は、どのチャンネルも、晴、曇、雨のマークが全部揃っている。晴れることを祈るのみ。

到着後の遠出は、旅行社が企画するプログラムを選んで参加してきたから、ツアー仲間の連れがいた。今日からの1泊の山行きは夫と二人旅だ。早く起きてしまったのも、天気が気になるのも、当然か?

旅行社の現地駐在員になる篠原さんが、日本から昨夕到着予定と聞いていた。今朝ロビーで見かけたら、少々お疲れのご様子。昨夜の嵐で4時間もフライトが遅れ、夜半12時過ぎに、やっとホテルにチェックインできた由。

2012年11月4日日曜日

7月9日(月) 午後 インスブルック旧市街へ




【黄金の小屋根前の広場。右端が黄金の小屋根。左端から二つめがロココ調のヘルブリングハウス】

12時近く、昼食がてら旧市街を歩く目的でホテルを出る。
お目当ては、ビヤーホールレストラン「スティフツ・ケラー」。王宮脇にある老舗で、大きな木を囲んでたくさんのテラス席があり、いつも賑わっている。
夫は、大ジョッキのビールと牛肉のパプリカスープ煮込みの「グヤーシュ」。
私は、ラドラーに「ウインナー・シュネッツェル」を注文。
叩いて薄くのばした仔牛肉のカツレツの大きいこと!。大皿を占領している。
夫の皿にも大きな肉の塊がふたつ。
両方とも、サラダやフライドポテトが添えられ、2人でも1皿で充分の感じだ。お互いの料理を味わいながら、乾杯。
ここには、滞在中、昼食や散策途中の足休めに立ち寄って気軽に利用し、馴染みの店になった。

ところで、旅行社は日本語の小冊子「レストランガイド」を用意していた。
担当者が現地視察で食べ歩き、お勧めの各国料理のレストランを15店選び、場所、メニュー(現地のものを翻訳した詳細な内容)をまとめたものだ。
その日の気分によって、食べたい料理を選ぶ参考になったし、異なったレストランを利用したお仲間が、それぞれの評価を披露して情報交換し、出かけるとこともあった。

昼食後、旧市街を歩く。
路地を歩きながらひょいと見上げれば、「黄金の小屋根」前の一角だ。
その斜め前に「ヘルブリングハウス」があるのに、カメラを構える観光客が大勢佇んで、ゆっくりとは眺められないし、歩くこともままならない。
ヘルブリングハウスは、ロココ調の繊細な装飾を壁面いっぱいに刻んで、貴族の邸宅だったとか。建物の淡いピンク色はかつての栄華を偲ばせているが、年月を経て色彩を失っている。

全身を銀色に塗り、ポーズをとって彫刻のように微動だにしない人が、ときどき口に加えたバラの花をかざす。幼い男の児がはにかみながら、籠にコインを入れている。

「市の塔」を見上げ、夫は「あそこには、いずれ登るよ」と言う。元は14世紀に造られた火の見櫓だから、街の展望にはいいのだろう。望楼に大勢の人がいて、アリンコのように動いている。

観光客が多くて、雑踏を抜けるのに苦労するので、「今日は欲張らないで、クラナッハのマリアの絵を観ることに絞ろう」と、「聖ヤコブ大聖堂」へ向かう。ルーカス・クラナッハ(1472〜1553)が描いた聖母画で有名な大聖堂だ。




・・・・・・【聖ヤコブ大聖堂の正面】

クラナッハは当時の熱烈な宗教改革派で、宗教改革者のルター(1483〜1546)やメランヒトン(1497〜1560)などの肖像画なども描いている。ドイツで始まった宗教改革の波がアルプスの地へ広がり、その足跡が、インスブルックの聖ヤコブ大聖堂の聖母画に行きついたのだろう。もっとも聖母マリアの絵は、18世紀になってから捧げられているけれど・・・。

ここでもまた、祭壇中央の聖母画の前に人が群れている。特に車椅子の集団が目立ち、熱心に祈る姿にマリア信仰の一端を感じた。大聖堂は、18世紀初頭にバロック様式に改築されて、煌びやかに輝く内陣はどっしりしているけれど、周囲の窓からの太陽の光が意外に明かるく溢れている。



【聖ヤコブ大聖堂の祭壇。真ん中に小さくあるのがクラナッハの聖母子画】

マリアテレジア通りは、どこに佇んでも周囲の山並みが素晴らしい。
帰路、スーパーマーケットでビールとラドラー、木ノ実数種類、ハム、リンゴなどを買い、街角ウオッチングをしながら、ホテルに戻った。
夕食に再び外出するのは億劫になるだろうと食料を買ったのはご正解で、日本から持参の食べ物にプラスして、部屋で寛ぎながら食べた。

7月9日(月)午前 雑用をする休養日に




・・【ホテルに近いコインランドリーにはお世話になった】

昨夜は天気が崩れ、雷と稲妻を伴う大雨になり、雹が降り、停電もあった。
水戸の自宅を出てから、もう1週間、いや、まだ1週間か。時間の過ぎるのが速い。昨日はアッヘン湖への観光をし、明日はツィラタールへ出かけるので、今日は溜まった雑用をする休養日にした。

まず、ホテルの部屋から見える目の前のコインランドリー「バブル・ポイント」を利用しようと計画。到着後の洗濯は手洗いしてきたが、意外に時間がかかるし、外出が続くとヒマがない。

そのコインランドリーの初体験は・・・。
利用方法が壁に掲示されている。コインを入れてその通りにするのに、動かない。「どうしちゃったの?」と、何度もボタンを押したがビクともせず。仕方がないので、別の洗濯機に変えたが、こちらもダメ。
備え付けの電話で店の連絡先に何度も問い合わせても、お話し中。

途方にくれているところに地元の人がやってきて、いとも簡単に洗濯を始めた。
「これとあの洗濯機は、コインを入れたのに動かないのよ」と言うと、ガチャガチャ試みた挙句、「機械は気まぐれだからねえ」と笑いながら、自分のプリぺイト・カードを使って他の洗濯機を動かしてくれた。
常連は「○番はよく故障する」と心得ているらしい。

小型(7キロ対応)洗濯機は、コインでは4ユーロだが、カードだと2・5ユーロだ。親切に感謝して4ユーロを渡すと、かえって恐縮して「ダンケ、ダンケ・・・」を繰り返す。飲み込まれた8ユーロはコインランドリー利用の授業料と思うことにする。電話までお話中だから、気持ちは納得出来ないけれど・・・。

雑用のもうひとつは、ATMから現金を下ろすこと。
ヨーロッパの多くの都市に共通して、ATMは街の賑やかな通りに多い。インスブルックでも、マリアテレジア通りの商店の軒先にあるし、その他のATMも人通りが多い場所にある。夫が操作している間、ひったくられないように周りを見回した。
今回の旅では、ATMで現金化するたびに、”円高ユーロ安”の恩恵を実感。

2012年10月27日土曜日

7月8日(日) アッヘンゼーの遊覧船




・・・【遊覧船の後尾デッキ、旗はオーストリアの国旗】

アルプスの厳しい山が迫っている湖岸。崖の襞に残雪が点在しているし、崖に刻まれたハイキング用の道に人影が見える。岸辺には樹木が繁っているのに、遠望する山々は、岩が切り立っている。アルプスの景観を身近に眺めながら、アッヘンゼーの自然を楽しむ遊覧だった。

流れる雲の動きにつれて太陽の輝きが変化し、エメラルドグリーンの湖水の色が濃くなったり、淡くなったり。波が高い。輝く航跡と砕け散る波頭。その微妙な変化の美しさ。
たくさんのヨットが群がっている。そこから飛び込んで泳ぐ人たち。パラグライダーに引かれたボートがスピードをあげている。
遊覧船は、湖岸のわずかな平地にできた村に接岸しながら、北上していく。

乗船して半時間あまり、私たちは湖最北にある少し大きな町・ショラスティカで下船した。桟橋近くに、アッヘンゼーを一部取り込んだ巨大なプールのような人工湖があって、公園になっている。人工湖は水温が高いのだろう。たくさんの子どもや若者が賑やかに水に戯れ、そばのベンチでは大人が日光浴をしている。肖像を刻んだモニュメントに、溺れて亡くなった人を偲んだ記録がある。

湖岸の遊歩道を辿ると村の中心部に出た。ホテルやカフェが並び、お土産屋が誘いの声をあげて賑やかだ。
日に焼けたおじさん(経営者)が、湖で漁をして魚料理を提供するレストラン「Fisher WIRD」で昼食。アッヘンゼー育ちの鱒のグリルは日本の焼魚に似ていて、「醤油があればね〜」と言いながら食べた。とても美味しかったが、ボリュームがあり過ぎて持て余した。もったいない。日本人の胃袋は小さい。

食後、再び遊覧船に乗って、ガルスルム、ペルティサウの村にそれぞれ寄港・下船した。湖岸の村は、教会を中心にした広場や建造物から、共同体の歴史の違いがあることを感じた。

陽気な活気に満ちた通りを辿り、歩き疲れてカフェに座りこんだ。アイスクリームをなめながら歩いている観光客。カフェ近くの斜面の草を刈っている男。対象的な姿を眺めながら、アルプス山脈に抱かれ、アッヘンゼーを庭とする人々の暮らしを思った。
雪に閉ざされる村は、冬の生活環境が厳しい。11月から4月末まではアッヘンゼーバーンも運行を休止する。観光客は訪れず、住民だけの暮らしになる。活気に満ちる季節は夏。村人の多くが観光客相手の仕事をし、家畜の餌にする牧草刈りをし、とても忙しい。チロルの人々の勤勉さを感じた。

帰路はハプニングの連続だった。行きはよいよい、帰りはこわい。
「イェンバッハに戻る汽車は指定席ですから、時間に間に合えば大丈夫ですよ」と言われていた。ところが指定席とされた場所に行くと、すでに団体が座って満席だった。予約の連絡がどこかで途絶えて、ダブルブッキングだった。これに乗らないと、乗り換えの列車に間に合わない。結局、連結部分の荷物置き場に詰め込まれて立った。これがハプニングのひとつ。

イェンバッハで乗り換えた列車は、ミュンヘン始発でインスブルック経由のヴェローナ行の長距離列車で、乗り込んだときにはすでに満席だった。うろうろと車両を移動しながら座席を探したが、結局、コンパートメント外側の通路にある簡易椅子を引っ張り出して座った。まさか、座れないほど混雑する特急列車だとは!
インスブルックが近づくとホッとした。これもハプニングだろう。

目の前のコンパートメントには、ミュンヘンに遊びに行ったというイタリア人高校生6人連れが占め、好奇心丸出しで扉を開けっ放しにしていた。目をクリクリした剽軽な男生徒が話しかけてきて、サービス旺盛なイタリア男性だと感心したし、奥に座っている男女が二人の世界に没頭してイチャつき、濃厚なキッスを延々と演じていた。女性の濃いお化粧と開放的な服装は、日本でも見られる姿だ。夏休みを謳歌している若者は万国共通だと思うのは、高齢者の冷めた観察か。

オーストリア・アルプスを楽しんだ1日は、いろんなことがあって、心身共にお疲れさまでした! やれやれ!

7月8日(日) アッヘンゼーバーンの蒸気機関車




【最後尾で押しながら登り終わり、入れ替え線で、列車の先頭に向かう蒸気機関車】

インスブルックからの初めての遠出は、蒸気機関車に乗ってアッヘンゼー(湖)へ。

まず、インスブルックからOBB(オーストリア連邦鉄道)で20分のイエンバッハへ向かい、乗り換えたのがアッヘンゼーバーン(鉄道)。現役で定期運行する世界最古の歯軌条式鉄道(注)で、アッヘンゼー湖畔の終点までおよそ7km、標高差440mを走っている。蒸気機関車の車体に製造年”1889”の数字があり、日本では明治22 年! 123年間も働き続けているのだから、「頑張ってるねえ・・・」と驚いた。
機関車は隅々までよく手入れされ、磨き上げられ、ちっとも古さを感じさせない。車体の赤色と黒色が輝いて可愛いし、小柄ながら存在感がある。世界の鉄道マニアには、憧れの鉄道だと聞く。

(注)歯軌条式鉄道の機関車は、登りでは後ろから客車を押し、下りでは先頭を走る。日本では碓氷峠が有名だったが、別ルートに新幹線が開通し、廃止された。

汽笛が面白い。機関車は無機質なのに、人のお喋りに似ている。汽笛のレバーを押す乗務員の指先加減で、その気持ちがにじみ出るのだろう。

「出かけるよ・・」=「ヒューッ! ポーッ! フォイ!」の汽笛で、静かに動き出した。最後尾の小さな機関車が、 それも後ろ向きで、満員の人間を乗せた大きい客車2輌(帰路は4輌)を押している!
やがてスピードが出、「シュッ、シュッ、ポッ、ポッ」のリズムを響かせて、登り坂を懸命に走る。「それ行け、やれ行け、それ行け、やれ行け」と機関車が自らを励ましているように聞こえる。
線路に沿う家々の前を通過するとき「ピューッ!、フォーッ!」と甲高い汽笛が鳴り響き、家の窓から手を振る人がいる。知人? 家族? だれに挨拶しているのだろう。
「ホーッ! ヒーッ!」と、空気を切り裂くような汽笛。注意を促しながら踏切を通過していく。
急勾配にさしかかると、「シャッ! シャッ! シャッ!」とあえぐように蒸気が立ち昇った。「ドッコイショ、ドッコイショ」と頑張っている!
黒い煙をモクモクたなびかせ、ときおり石炭の燃える匂いが漂ってくる。懐かしい。戦後の日本の鉄道もこんなだった。トンネルに入ると大急ぎで窓を閉めたが、黒煙の汚れはたいへんだったなあ・・・。

最後尾で客車を押していた蒸気機関車が、沿線の最高地点エーベンで、短い複線部分を利用して移動し、先頭に連結した。 帰路、再びエーベンで機関車が後ろから前へと移動して、やっとわかった。狭い山地に鉄道が造られたので、回転するためのレールを敷く地面がない。辛うじて複線を敷き、機関車を移動させているから、向きは同じになるのだと・・・。帰りの蒸気機関車は後ろ向きで客車と対面し、にらめっこしている!

アルプスの視界が拡がる湖への緩やかな坂をくだって、まもなく、終点駅ゼーシュピッツに到着した。

イエンバッハからおよそ1時間、沿線の風景を眺めながら、蒸気機関車の力強さに感動し、40数年前、息子たちに繰り返し読み聞かせた本「いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう」(バージニア・リー・バートン 文と画、むらおかはなこ訳、1961年、福音館書店発行)の場面を、思いがけず鮮やかに思い出した。

そうそう、車掌のパーフォーマンスも忘れ難い。「ハイホー、ハイホー・・・」と高らかに歌いながら、窓の外から客車内を覗き込んで、切符の改札をしたのだ。車体の外側にある板をヒョイヒョイと伝い歩きする姿は、身軽に枝から枝へと移動する猿を連想した。時速7キロ程度で走っているけれど、「足を踏みはずすことはないのだろうか」と、ヒヤヒヤした。諺に「猿も木から落ちる」とあるのだから。

2012年10月19日金曜日

7月7日(土)ホテル生活のあれこれ




【28日間滞在したホテル・オイローパ。左面が正面で、駅前広場に面している。右面は旧市街に向かう道路に面している。】
・・・このブログに載せた写真は画面をクリックすると拡大して見ることができます。終わったらブラウザーの「戻る」ボタンをクリックしてこの画面に戻ってください。・・・

インスブルック到着後、高揚した気分に誘われて好奇心もあったし、2日間有効のインスブルック・カードを最大限利用しようと連日出かけ、いささか草臥れた。まだまだ先は長いと、今日は休養日にした。

ホテルの部屋の窓からは、近くに聳えるノルトケッテ連峰が見える。目覚めると真っ先に眺め、ノルテケッテが霧に包まれて隠れていると、挨拶ができないからがっかりする。樹々の茂みの緑の濃淡や岩肌の荒々しい亀裂がくっきりと見える朝は、それだけで1日の始まりが楽しくなる。
夕べには、いつまでもほの暗く輪郭をあらわしている姿に見惚れて、時間を忘れる。だが、日中のノルテケッテを、充分に眺める暇がなかった。

今日は、ノルテケッテ連峰に動物の角のように切り立っているフラウ・ヒットがよく見える。伝説の無慈悲な女性を象徴しているらしい。古今東西の物語には女性が意地悪で残酷な話は多いし、魔女もいるし・・・。単純で?、”気は優しくて力持ち”の男性よりも、本質は女性の方が恐いという潜在意識があるのか?
雲の流れを追い、あれこれくだらないことを空想してしまった。

添乗員の鈴木さんが花瓶にさしたマーガレットを持って現れ、「部屋の飾りに・・・」と置いていった。ホテルの部屋が自分の居場所になった気分になった。

午後、旅行社がロビーに設置した情報掲示板を見るために下りて行くと、目だけ出した黒いベールの10数人の集団がいた。厳格なイスラム教の婦人たちだ。暑い時期の開放的な服装が多い中では、見慣れないから異様な感じがする。インスブルックだけでなくチロル州には、アラブ世界からの観光客が多い。緑への憧れがあるだろうし、地理的にも遠くない。

終日ホテルにいると、わかることがある。
「ガターン・・・」。突然、洗面所から大きい音がし、飛び上がった。おそるおそる覗いてみると、壁のタイルが剥がれて飛び散っている。3、11地震後の状態を思い出す。

そうそう、ホテルにチェックイン直後の点検をしていたときのこと。トイレの便座の蓋が斜めにゆがんでいるので、真っ直ぐにしようと試みていたら、蓋のネジがすっぽりと取れてしまったし、蓋には大きなヒビが入っていて気にもなっていた。設備が相当に老朽化しているのだろう。

これら設備のメインテナンスが十分でないのに加え、シャンプーなどのアメニティが揃っていないのも気になる。フロントに連絡すると「品切れです」と言う。1回ならともかく、毎日何かが不足しているのだから、「在庫管理はどうなっているんだろう」と呆れ、諦めた。

今回の滞在では、インスブルック中央駅前にある「グランド・ホテル・オイローパ」を選んだ。ハイキングや小旅行をする利便性を考えたし、町を代表する5星ホテルだというのもいい。宣伝には、かつてイギリスのエリザベス女王が滞在し街の”迎賓館”の役割を持つとあったので、格式のあるホテルだろうと大いに期待していたのだが・・・。

伝統のあることが、設備の古さやサービスの足りなさの言い訳になるとしたら、泣けてくる。

もちろん、いい面もある。
ホテル併設のレストラン「オイローパ・シュトゥーベール」は、洗練されて美味しいと評判だ。ステイタスが高く、ちょっと改まった雰囲気で、地元の人で賑わっている。他のホテルに宿泊している観光客がわざわざやってきて、「ここの食事は美味しい」と感激していたし、毎朝利用する多彩な食事が充実しているから、宿泊する者には有難い。1日の健康をサポートしてくれると満足し、週に2回のツアー仲間とは夕食を一緒に食べ、楽しんだ。

チロルの人は素朴だといわれるが、責任のある立場のホテルスタッフには、親切で、人の良さを感じることもしばしばあった。レストランの部門のスタッフ、特に女性の笑顔は素晴らしい。ただし、掃除担当の従業員の中には、頼んだことがそのままということがあり、後になって、臨時に雇用されている外国人だから、ドイツ語・英語が通ぜずにわからなかったのかもしれないと理解した。

2012年10月15日月曜日

7月6日(金)午後 トゥルファインアルムへ




【リフト頂上駅の展望台付近に放牧されていた牛たち。その向こうにインスブルック市街と昨日登ったノルトケッテの連山が見える】

予想以上の快晴となった午後。パッチャーコーフェル(2246m)から尾根伝いの「ツィルベの小道」を辿る7km離れたトゥルファインアルム(2035m)へ出かけた。直接パッチャーコーフェルに繋がるロープウエイは休止中。山頂駅まで利用するロープウエイを巡って、運営会社とインスブルック市の合意がまだできない事情があるとか。代わりに、リフトが動いているトゥルファインアルムになった。

インスブルック中央駅前からポストバスに乗って、トゥルフェスへ。
そこから、まずは二人乗りのリフト、中間点で一人乗りのリフトに乗り換えた。
合計して標高差1500mを30分近くかけて上り、肝が冷えた。ゆらゆらと動くリフトの高さは半端ではない。とにかく必死になってリフトのポールを握りしめたから、頂上駅についたら指も掌もこわばっていた。でもね、眼下の様子を観る余裕があったのは、エライ。それしかできなかったのだけれど・・・。



【リフトに乗るみや。これは帰りに下っているところ。少し慣れて周りを見回すゆとりがあった】

リフトの下に松林(ツィルベ=シモフリ松)が続き、リスが走り回っている。放牧された牛がガランガランとカウベルを鳴らしながら、草を食んでいる。乳を飲む仔牛をジッと眺める母牛。日陰に集まって昼寝中の牛の群れも見える。木に寄りかかって読書をしているのは、牛飼いの男性だろうか。斜面に建つ小屋の入り口の赤色のゼラニウムの懸崖が、じつに見事だ。「おや、こんなところに人が住んでいる・・・」と驚く。

頂上にある展望台から、インスブルック市街地を眺望した。向かい側の山なみは、昨日訪れたノルテケッテだ。

特徴のある険しく聳える岩山が見える。「あの尖っているのはフラウ・ヒットだね」。身分の高いフラウ・ヒットという名前の婦人が、「パンをください」と頼んだ貧しい女性に、馬上から石を投げた途端、雷鳴が響き雷にうたれて、そのまま石に変わってしまった。そんな伝説を聞いたばかりだ。

展望台で休憩しようと腰を下ろす。そばのテーブルには、裸足になって日に焼けた元気な男性グループが、食事をしている。中には、足のマメの手入れをしている者がいる。徒歩で1週間かけて、インスブルックを囲む山々を歩いている仲間で、ヨーロッパ・アルプスの登山をしている同好会一行だとか。

「あの辺りが宿泊しているホテルと中央駅だろうね」「旧市街には塔が多いなあ」
「イン川の流れは街の動脈の感じだね。意外に大きい・・・」。
昨日と同じ感想を繰り返し、快晴の恩恵を満喫しながら、谷間の都市インスブルック滞在の期待が、さらに高まった。

【補足】この項目については夫のブログ記事『テキスト喪失、残念』を参照してください。

7月6日(金)午前 アンブラス城へ




【アンブラス城の展示館の回廊から本館を見る。山はノルトケッテの一部】

朝食後、急に暗くなって雨が降り出した。
午前中パッチャーコーフェルに連なるトゥルファインアルムへ登り、午後遅くにアンブラス城を訪れる予定だったが、雨が降る山は視界がきかない。アンブラス城を先にし、天候次第では、午後に山行きと予定を変更する。

アンブラス城には、ハプスブルク家一族のチロル大公・フェルディナンド2世(1529〜1595)の愛妻物語があるらしい。
大公がアウグスブルクの豪商の娘フィリピーネを一目惚れし、密かに結婚したのは28歳のこと。政略結婚がまかり通っていた時代の貴族社会では、豪商の娘とはいえ、庶民との結婚は許されなかった。長く結婚の事実を隠し続けたが、子どもが誕生したので、とうとうカミングアウトしたという。大公はハプスブルク家一族の冷たい目からフィリピーネを守るために、11世紀建造の古城を現在の規模に増改築。こうして、ルネサンス様式のアンブラス城は、1564年に完成した。めでたし、めでたしでした。

大公が収集した珍奇な絵画、中には槍で顔を突き刺されたが急所を外れたので生きている人の顔など、かなりグロテスクなものもある。「こんなものを蒐集した神経はかなり異常だねえ。それを展示するのもどういうものかねえ」と呆れる。

何世紀にもわたる鎧・兜の数々が展示されている。誰が使っていたかの解説を読みながら、「意外に小柄だわね・・・」「こっちは頑丈で重そう・・・」などと囁く。用途は同じでも、時代と体格の違いが伺えて面白い。

古ぼけた雑多なイスラム装飾の品々を眺めながら、キリスト教の神聖ローマ帝国とイスラム教のオスマントルコ帝国が、世界覇権の戦いを繰り広げた時代を思い出した。15世紀から16世紀にかけての熾烈な争いだった。1526年には、オスマントルコ軍がウイーンに迫り、キリスト教世界は危機に瀕していた。チロル地方は両軍の激戦地になり、神聖 ローマ帝国の危機を救う役割を担った。勝利を収めたときの戦利品が展示されていたのだ。ハプスブルク家とチロルの栄誉を垣間見た感じがした。

これらの展示品の数々は歴史への興味を引いたが、チロルの風景と重なるアンブラス城は、大公の愛妻物語の方が印象的だった。

庭園には、色鮮やかなペチュニアやベコニアが溢れ、孔雀が悠然と散歩中だし、カモの番いが揃って羽づくろいをしている。
また、現在のアンブラス城はインスブルックの観光資源だが、じつはマキシミリアン大帝(1459〜1519)が街の美観を重視したのが土台になっている。これについてはいずれ触れる機会があろう。

7月5日(木)ノルテケッテのパノラマウオーキングへ




【ハーフェレカール山頂からインスブルック市街を見る。その先はイタリアに至るヴィップ谷】

朝方は雨が降ったので、今日のハイキングはほぼ諦めていたが、朝食後に雲が上がってきた。チャンス到来と、インスブルックの北側に連なる山脈のノルテケッテへ出かける。

インスブルック・コングレスハウス(ノルテケッテ行きのケーブルカー駅)からフンガーブルクバーンに乗って、フンガーブルク駅(860m)へ。
そこでノルトケッテンバーンに乗り換え、ゼーグルベ駅(1905m)へ。
さらに乗り換えて、ハーフェレカール駅(2256m)へ。
ここから100m歩けば山頂だ。

インスブルックの街の中心部から気軽に山頂へ行けるので、幼い子を連れた家族やかなりの高齢者もいて、ちょっと山の散歩へという気分が漂っている。
ハイキング目当ての外国人観光客が多い。ケーブルカーからは、自転車を押して歩いている人や頂上を目指しているグループの姿が見えるから、一挙に目的駅まで行かずに、途中下車をしたのだろう。

ケーブルカーを乗り換えて昇るにつれ、風が強く気温が下がってくる。
雨上がりの山の気温は高くないだろうと着込んでいたが、さらにレインウエアを羽織って歩く。



【ケーブル駅から標高2334mのハーフェレカール山頂への登山路を行く】

頂上からの眺望は感動的だった。インスブルックの街並みを挟んで、向かい側の山脈が幾重にも重なっている。鉄道線路とイン川を目印にしながら、街の姿を確認する。「あの辺りが旧市街。黄金の小屋根が輝いているよ」「意外に、イン川は雄大な蛇行をして、存在感があるなあ・・・」「あの建物は、泊まっているホテルじゃない?」。
山では、”みんなお友だち”の連帯感があるらしく、誰彼かまわずに「素晴らしい眺めだねえ・・・」と共感し、賑やかだ。
そのうちに、「どこから来たのかい?」「昨日の観光はどうだった?」などと気軽に話しかけ、岩に座り込んで、話しが盛り上る。名前を名乗ってもすぐに忘れるけれど、束の間の交流は楽しかった。

ウイーンから来た老夫婦が「私たちは76歳と72歳。結婚50年目の記念に訪れた。この辺の山はほとんど登ったよ。ここにも何回も来ているし・・・」と自己紹介したので、「私たちは結婚54年目になるよ。それに年齢も上だ」と話す。「若く見えるなあ」と嬉しいことを言い、最後はハグをして別れた。
その後、展望スポットでまた会い、少し話してハグを交わし、こうした挨拶の習慣がないので、目をシロクロさせながら照れた。
山頂レストランでまたまた再会し、同じテーブルに座って昼食をしながら、先ほどの会話の続きとなった。「この5年間で4回、腰と骨盤の手術をしたが、こうして歩けるようになった。山に魅せられて、元気が出る」と殿方は言う。リハビリテーションの執念に、大いに刺激を受ける。ご愛嬌にも、彼は見事な白い髭に、昼食のスープがついている。そのおっさんが、スープの香りがするゴワゴワした髭で、両頬にキスをしてくれたのには、恐れ入った。

また、アメリアのヴァーモントから来た若い夫婦も印象に残った。夫はスコットランドのキルトのスカートを着ているし、夫人はスコットランド特有の民族衣装をまとっている。まだ幼い表情が残っているから、新婚ホヤホヤかなと眺める。「旅が好きで、あちらこちらを訪れています」と言う。
同じ時刻の交通機関を利用するから、彼らとも、何度も挨拶を繰り返した。
「ちょっと変わった夫婦だったなあ・・・」と、思いだしては話題にした。

インスブルックに戻り、ケーブルカー駅近くの王宮美術館に寄ったが、山の空気に触れた印象が強くて、気分が乗らず。またいずれと、早々にホテルへ戻った。

夕食はホテル近くにあるイタリアンに仲間と出かけ、名物のピザを注文。

【補足】夫のブログ記事を以下のリンクから参照してください。
『北の高値に登る』

2012年10月13日土曜日

7月4日(水) 街のオリエンテーション




【インスブルックの目抜き通り、マリアテレジア通りの向こうにノルトケッテの山並みが見える】

最初の1夜が明け、午前中2時間ほど、現地駐在員モラスさんの案内で、滞在に必要な街のオリエンテーションがあった。

まず、宿泊ホテル前の徒歩1分の中央駅へ行く。
時刻表の見方、プラットホームの様子、切符購入の仕方などを確認。駅の地下には、インフォーメーション・センター、スーパーマーケットはじめ、衣食住に関する店舗が並び、生活に必要なものは大半、叶えられる。地下街は、ホテルのエレベーターで直接つながっているから、超便利。

中央駅の隣りは、バス発着所で、街中の移動はもちろん、郊外へ出かける路線が多いから、研究の余地あり。駅前には郵便局もある。

その後、街最大の百貨店、庶民の胃袋を担う市場、旧市街のポイントになる建造物、美味しいと言われるレストランなど、地図を片手に場所を確かめながら、歩いた。

今日の昼食はホテルのレストランで。
参加者12名(夫婦5組と姉妹1組、ほぼ同年代)が顔を合わせ、自己紹介をしながら名前を確認した。

インスブルックの北側の山脈・ノルテケッテが、ホテルの部屋から見える。その輝きに誘われて、夕方、イン川沿いのプロムナードを歩いた。
やや白く濁る雪解けの水量が滔々と流れるイン川には、古くから橋がかかっていて、「イン川の橋」から「インスブルック」の地名が始まったという。
川の岸辺に立つと、ノルトケッテの向かい側にも山並みが連なって、街に迫る自然の要塞になっている。インスブルックが、アルプス山脈を横切る峠やイン川の流れによって、東西南北をつなぐ交通の要衝であることがわかった。

散歩の帰りに、中央駅の案内所でいくつかの時刻表をもらい、スーパーマーケットで、買物をした。缶の形からビールを買ったつもりだったが、ビールにレモンジュースを入れたアルコール度2パーセントの飲み物の「ラドラー」。喉を潤す準備をした夫は落胆し、ほのかな甘みがあって口当たりがよいので、私には好都合。
ドイツ語表記に慣れるまでは、こんな失敗もあるの巻。

【補足】夫が現地から送った旅行記が彼のブログにあります。この項目については以下を参照してください。
http://masaquar.blogspot.jp/2012/07/blog-post_05.html

7月3日(火)いざ、インスブルックへ




【インスブルック空港、私たちが降りたプロペラ機に戻りの乗客が乗り込んでいる】

旅の興奮もあるし、成田空港第1ターミナルに8時10分集合だから、昨夜は気になって浅い眠りだった。夫は「遠足前の小学生並みだよ」と笑い、早めの1日が始まった。

いつものように搭乗手続きが済み、9時40分に離陸するまでに一汗かく。機内持ち込みの荷物検査がいちだんと厳しい。
「その包みは?」。「パソコンです」。「ケースから出して・・・」。
「これは?」。「薬類です」。「袋から全部出して・・・」。
ついでに化粧袋も開けさせられた。「本」2冊を手に取り、仔細にパラパラとページをくったし、羊羹1本はしげしげと眺められた。

結局、リュックサックの中身は全部出させられ、こんなに徹底したチェックは初めてだった。夫はリュックサックを背負った同じようないでたちなのに、何事もなくスイスイとパス。プライバシイに立ち入る検査官の恣意じゃなかろうかと憶測し、よっぽど風体が怪しいと思われたかと感じたが、理解できなかった。ぶちまけられた中身を納めるのに、余計な労力を強いられ、ブツブツ・・・。

地上から仰ぎ見る空は、ところどころに真っ白い雲が浮かんで明るく晴れていたが、離陸して雲を通過するたびに、しばらくゴトゴトと揺れた。あんまり気持ちのよいものではない。窓際の3席が空いているので移動し、フランクフルトまでの片道はゆっくりできた。ラッキー!

ソウルを1時間前に離陸したルフトハンザ機が、平行して飛んでいる。乗客が歓声を上げ、賑やかなひとときを過ごす。やがて、相手の機体がずっと下方になり、後方に広がる雲海に姿を消した。スチュワードの話では「こんなに近くで仲間の飛行機を見られるのは、珍しいです」と。ひょっとして、ニアミスってこと?
結局、ほぼ同じ頃にフランクフルト空港に着陸。気象や操縦者、管制塔の指示などで、1時間くらいは誤差の範囲なのだろう。

フランクフルトでの乗継のセキュリティチェックも、きわめて厳しかった。
パソコンをケースから出し、リュックサックのポケットは全部チェックされた。
同じ系列の航空会社の乗継なのに、ほんとうにご苦労様。

フランクフルト空港からインスブルック空港まではプロペラ機だ。飛行高度が低く、アルプス山脈の容貌が迫ってくる。積乱雲が高く明るく輝くその下に、山岳に挟まれた谷間が深く抉られている。
「なるほどなあ・・・。インスブルックに行くということは、こういうことなのか・・・」と、夫が呟く。
夕刻、かなり大きな街が眼下に広がって来たら、インスブルック市だった。
イン川の蛇行が続き、街の中心部の旧市街が見える。映像を観、写真を眺め、本を読んで、頭の中のどこかでは、すでに馴染んだ風景だ。
これからの4週間の滞在で、あの辺りを歩くのだろう。膨らんだ期待が、だんだんと具体化していく。

インスブルック長期滞在の旅




・・・・・【インスブルックの鳥瞰図】・・・・・
・・『チロル・パノラマ展望』(トンボの本)から引用】・・

2012年7月3日〜8月1日の旅の記録
しばらくお休みしていたブログの再開は、「インスブルック長期滞在の旅」日記になる。滞在中の折々の様子を、日記としてブログに書くつもりだったから、本来なら、とっくに終わっているはずだった。ところがインスブルックに到着した途端に、高揚した気分の日々となり、メモをするのがやっと。日本に帰ってまとめればいいと、早々と考えは後退した。

冷涼なインスブルックから帰国すると、日本の今夏の猛暑は半端ではなく、体は暑さへの順応がうまく出来ず。信濃追分の友人の山荘へ半月ほど脱出した。だが、自宅に戻ると、いつまでも続く暑さに、かえって気力・体力ともに調子を崩した。
予定が予定で終わりになることは、今後ますます増えるだろう。

さて、今回の旅は、昨秋、馴染みの旅行社の案内で知り、一カ所に暮らすように滞在する旅は魅力的だと、決めた。足の便を考え、インスブルック中央駅前にある「グランド・ホテル・オイローパ」に、28日間滞在した。

インスブルックの旧市街を散策し、近くのオーストリア・アルプスへハイキングに出かけ、余力があれば、南はイタリア(ブレッサノーネ)、北はドイツ(ミッテンバルト、ミュンヘン)へ行きたい。インスブルックは古くからヨーロッパの交通の要衝で交通の便がいいし、歴史的にも興味を引く観光ができるだろう。
何よりもアルプス山脈の懐に抱かれた風土だ。何もしなくても、休養になる。
そろそろ、一晩泊まって次の観光地に移動していく旅は、気力はともかく体力がきつくなった。体力と天候を勘案しての旅は、どういう結果になるか。
そんな期待で旅立った。

7月2日(月)前泊
成田からの旅は早朝出発になるので、空港近くのビューホテルに前泊。
昼食後、水戸の自宅を出て、ホテルにチェックイン後に、近くのUSAパーキングへ車を預けた。31日間の駐車は長過ぎて、ホテルに預けると駐車料金が高額になるからだ。

2012年5月9日水曜日

帰国の途へ(個人的なメモが中心)

4月9日(土)〜4月10日(日)〜4月11日(月) 旅の21日目〜22日目〜23日目

4月9日午前9時頃、サヴォナ港でコスタ・ルミノーザ号を下船し、帰国の途に着く。バスでミラノへ向かい、そこから飛行機でドバイへ。さらに乗り継いで成田へ向かう。成田へ到着するまでの各地で、時差が目まぐるしく変わるので、乗り継ぎの肝心な時間だけは間違えないようにと、メモをして確認を繰り返す。

丘陵一面に、黄色の絨毯を敷き詰めたような菜の花畑が広がっている。イタリアの春の訪れをバスの窓外に眺めながら、次第に夢から覚めていく。
丘の傾斜地にはぶどうの木も多い。夫婦が土をおこしている姿や、数人の農民がグループで作業をしている様子を眺めていると、農業中心の暮らしぶりが伝わってくる。辺りは、野菜や果物の栽培が盛んなのだろう。

ポー川の上流辺りを走っていると、間もなく田植えを始める準備がすすんでいる。
ガイドは、「古いイタリア映画・”にがい米”の舞台となった穀倉地帯ですよ」と言う。旅仲間の多くが、映画を通して外国への関心を満たしていた学生時代に遡って、「ほら、シルヴァーナ・マンガーノは、ど迫力あったなあ・・・・」と、思い出話が賑わう。
さらに「日本からの農業視察団が、年間で30〜40団体は来ます・・・」と説明が続くと、「稲作は日本の方が本格的なんじゃないの? 何を視察するんだろうねー」と、てんでに不思議がる。

バスの進行方向の前景には、イタリアン・アルプスが連なっている。今年は寒暖差が大きくて、山脈には深い雪が残っている。それでも山裾の樹々には、新芽が萌え出ている。
素晴らしく晴れた空を背景に、モンテローザが輝いている。車中に歓声があがって見とれる。「モンテローザの北には、マッターホルンがあるなあ」と、10年前のツェルマット滞在を思い出す。

11時半頃、ミラノのマルペンサ空港に到着。まずは移動の第一段階。
搭乗手続きを済ませ、15時10分に搭乗口集合で解散。
身軽になったので、免税店で買い物をしたり、昼食をしたり。たっぷり時間があったが、船上の日々よりも疲れる。

予定の15時30分よりやや遅れて、エミレーツ航空94便は離陸。
座席前にあるナビゲーターで飛行ルートを辿りながら、機上から見下ろす。雲が切れる束の間、地上の集落が見える。峻烈な谷間にも人が暮らしている。川の流れが網の目のようにつながっていくのが、面白い。

ミラノからクロアチア、ルーマニア、ブルガリアを経て、黒海を横切る。アンカラ上空を飛び、トルコ領内を抜ける。バグダードからイラク領内を南下していく。ペルシャ湾に出ると、クエート沖、サウジアラビア沖をかすめながら、ドバイへ。

結局、6時間の搭乗中、飛行ルートを辿って時間つぶしをし、ドバイ着は23時半頃。時差は2時間。ミラノとドバイ間は、ビジネスマン風の乗客が多かった。

空港ロビーは夜を知らない空間だ。真夜中だというのに、昼間の賑わいと変わらない。体内時計も狂いっ放しで、休息どころではない。
日が変わり、4月10日の早朝2時集合まで、免税店を覗いたり、本を読んだり。

定刻2時50分、エミレーツ航空318便がドバイを離陸。日本の時刻に合わせるために、時計を5時間進める。飛行時間は9時間45分の予定だから、本格的に休息する。

日本からの旅立ちは、福島原発事故を避ける乗客で満席だったが、帰りは半分位だった。よほどの事情がない限り、日本へ出かける外国人はいないらしい。異常事態の深刻さを痛感する。すぐ横の窓側の座席が3席空いているから、これ幸いと移動し、ゆっくり横になって、熟睡。

周りの音で目覚め、窓から外を覗くと、雲ばかり。徐々に高度が下がり始める。
空気が靄って、視界がはっきりしない。ところどころ、桜の花が咲いている風景が見える。花曇りの季節、4月10日(日)夕刻5時過ぎ、成田に降り立つ。
無事に日本に帰って来たのだと、ホッとする。

スーツケースを受け取ると、そのまま、前泊したビューホテルへ。車を預けているので、一晩泊って4月11日(月)、水戸の自宅に帰る。




クルーズ最後の寄港地はナポリ(イタリア)

4月8日(金) 旅の20日目

遠くの島に朝陽が顔をのぞかせて、ゆっくりと昇ってくる。冷気を含んだ潮風に吹かれながらデッキを散歩し、その後、早々と朝食を済ませる。
最後の寄港地となるナポリには、8時入港。

入港・出港は、ドラマティックだ。
海上からのパノラマが、次第に明らかになって大きくなっていく入港風景。
水平線の彼方に、山や崖がぼんやりと姿を現し、やがて、樹木の茂みや家々が重なってくる。車の往来が蟻のような動きに見え、目を凝らすと人が歩いている。どの港でも、人々の日常は同じように見えながら、背後に拡がる気候風土の違いを思う。連綿と続いて来た人々の暮らし、彼らが生み出した文化を想像する。訪れる土地への期待に、胸が膨らんで行く。
しばし踏みしめた土地の感覚を反芻しながら、港から遠ざかっていく出港風景。
その土地の新たな見聞が確かな記憶となって、静かな興奮が心を満たす。
いずれも、クルーズならではの醍醐味だ。土地の全貌を捉えるのには、船上からの眺めは得難い。

2000年5月のクルーズでは、ナポリ港に寄港して、郊外のポンペイを訪れた。
ポンペイ遺跡に興奮し、圧倒されたが、イタリア南部の大都市ナポリは素通りだった。(そのときの旅日記は、以下にまとめている。ポンペイ(上)ポンペイ(中)ポンペイ(下)

今回のナポリ寄港はわずかな時間で、午後1時には出港する。
バスを利用したドライブ観光が中心で、かつてナポリを取り囲んでいた城壁に沿う
ように走り、今も残る城門を車中から眺めたり、ヨーロッパ最初のオペラ劇場「サン・カルロ劇場」、ウンベルト1世のギャレリア、ナポリの守護聖人パルテノペの噴水、卵城などでは、カメラ・ストップしたり。名所旧跡を訪れた証拠写真を撮っても感動しないし、説明を聞いてもすぐ忘れ、どうも性にあわない。バスを乗降するだけで気分的に疲れ、受け身の観光になって面白くないのだ。

そんな気分もあって、「考古学博物館」を訪れたことが、ナポリ寄港の最大の収穫となる。
「考古学博物館」は、16世紀に馬術学校として建造された建物だ。
1階ではギリシャ・ローマ時代の彫像を、2階では「モザイクの間」へ、3階では古く使われていた医者の器具、建築用具、錠、鍋・・・などを観た。

これらは、ブルボン家のカルロ3世(1759〜88在位、ナポリ・シチリアがスペイン領になった後に即位し、母がファルネーゼ家出身)と教皇パウロ3世を記念して収集した「ファルネーゼコレクション」と、モザイク画・ブロンズやガラス製品などのポンペイ出土の数々だ。ナポリの歴史の重層性を改めて知り、興味深かった。

現地ガイドのカルラさんが、日本語の丁寧語を駆使して解説したのには、びっくり。声だけ聞いていると、最近の日本でもあまり聞くことができない上品な口調で感心する。後で「日本語をどこで覚えたのですか」と尋ねると「テレビの日本語講座で学びました。まだ日本を訪れたことがありませんので、とても残念でございます」とのこと。

「イタリア最初の鉄道はナポリから始まりました・・・」「イタリアの大学のはじまりはナポリです・・・」「外国の方は、イタリアと言えば、ローマ・フィレンツェ・ヴェニスなどを思われますが、本当のイタリアはナポリにあります・・・」。ナポリ自慢が多かったのは、郷土愛か、ご愛嬌か・・・。北イタリアの知人が、「南はイタリアではない」と言ったことを思い出す。歴史的にも、民族的にも、南北の違いは大きい。
急ぎ足のナポリ観光をし、12時に港へ戻る。

タグボートが付き添う出港の様子を眺めながら、「ナポリを見て、死ね・・・」の言葉を思い出す。ナポリの大パノラマの美しさは、海からの眺めでいっそう際立っている。

午後、スーツケースのパッキングで過ぎる。
ほとんどの乗船客はサヴォナ港で下船するらしく、クルーズの終わりの慌ただしい空気が流れている。会計の支払いも済み、旅の終わりを実感。

2012年4月30日月曜日

厨房見学、下船準備など

最後の終日航海 4月7日(木) 旅の19日目

最後の終日航海の日。高揚したクルーズの日々が、もうすぐ終わる。
船上の時間がどんどん過ぎて、ドバイ出航はずいぶん前のように感じる。
気が緩んだのか、咳がひどくて風邪気味なので、薬を飲み、休養を心がける。

9時過ぎから30分間、特別の計らいで、日本人限定の厨房見学へ。
毎日、3000人前後の乗船客を想定し(寄港地によっては、そこで新しく乗船したり下船していく客がいる)、国別や宗教別の割合と、特別食が必要かどうかをチェックするとか。
ドバイで主要な食材を仕入れ、新鮮な野菜や魚の食材は、寄港地毎に調達している。厨房の巨大な冷蔵庫が目に付く。

すでに昼食の準備が始まっている。パンが焼きあがり、香ばしい香りが漂う。野菜が次々に刻まれ、大きなステンレスのパッドに入れられて、冷蔵庫へ。

肉を切る人、魚をさばく人、使い終えた大きい鍋を洗っている人。役割分担が決まっていて、じつに手際がいい。
皿は1日3万枚使うので、皿洗い機が威力を発揮している。グラス類の洗浄も機械にお任せだが、種類毎に仕分けして、何カ所もあるバーに運んだりする作業もある。

厨房で立ち働く人は、白か黄色のバンダナ(ネクタイ?)を首に巻いていて、責任や経験の違いを区別している。船会社と半年から1年の契約をして採用され、原則として、途中で下船はできない。クルーズの裏方を支える過酷な労働を垣間見る。

続いて、下船に備え、日本人スタッフの文子さんの説明会へ。
キャビンのある階と下船後の行き先別に、荷物につけるタグの色が違うこと。
その色が、下船時の集合場所の色になっていること。その他。
「くれぐれも忘れ物がないように、クローゼットや棚、金庫を確認してくださいね」と、サボナ港下船までの細かい注意を聞き、クルーズの終わりを実感。

デッキに出ると、気温が低く、風が強くて吹き飛ばされそうだ。揺れに怖気づいて、早々とキャビンに戻る。

テレビをつけると、1時間ほど前に、仙台や水戸で余震があったと報じている。震度6強、マグニチュード7、4・・・。相変わらず、かなりの頻度で地震が続いている。毎日、BBCニュースが日本の話から始まるなんて、珍しい。それだけ、世界にとっては、強烈な衝撃で、特に、福島原発事故は、深刻な事態だ。

顔見知りになった外国人から、「日本の地震は、たいへんだなあ・・・」と声をかけられ、必ず、「フクシマの深刻さ」に同情される。その度に、たちまちに旅立ちの時点に引き戻され、気分が落ち込む。
それでなくても、旅が終わりに近づくと、浦島太郎の物語を思い出す。
特に今回は、厳しい日本の現実が待っている。束の間、日本脱出を決断したことが、人生の貴重な節目になったと、気持ちの揺れを伴いながら、身に染みる。

2時半頃、進行方向にシチリアの島影が見える。いくつもの小さな島々が、近づいては、過ぎていく。

6時過ぎから2時間半。日本の旅行社の招待で、眺望の素晴らしい10階のレストランで晩餐。夕陽に映えて、刻刻と変わっていくエトナ山のシルエットが、美しい。料理も素晴らしい。

夕食を終えて間もなく、メッシーナ海峡を通過。遠くに、濃く、薄く、町の灯が連なっている。しばしの散策後、キャビンへ戻る。そろそろ荷物のまとめをしなくちゃと、夜のプログラムはおやすみ。




地中海に入る

終日航海 4月6日(水) 旅の18日目

6時半、起床。元気だ。夜半に船酔いで目覚め、初めて酔い止め薬を飲んだけれど・・・。

スエズ運河を抜け地中海に入ると、船は大きく揺れだし、波の飛沫が高い。
航跡が、豪快にきらきらと輝いている。船内の移動時には、しっかりと手すりを持って、酔っ払いの足取りで歩く。

朝食後、ストレッチに行き、その流れで「クレイジー・サンダル投げ」や「椅子取りゲーム」で汗を流す。さらに、アート&クラフトコーナーへ出かけ、髪や胸に飾る造花作りを遊んだ後、メールを書く。以上は、午前中。

昼食後、昼寝。4日連続の寄港地観光と張り切ったスエズ運河通峡を終え、さすがに気が抜ける。何よりも年齢には抗い難いと自覚し、休養。

5時半。船長主催のフェアウエル・カクテル・パーティへ。フォーマルドレスで着飾ったカップルは、日中の姿から見事に大変身している。ヨーロッパ社会で伝統的な、夜の社交・カップル文化を垣間見る。日本だったら、夜は、男性や若者が多く、一般的にはカップル同士の社交の場は乏しいなあ。

夕食がそろそろ終わる頃、厨房やレストランで働いている人たちが現れて、紹介される。その後、レストラン中央の舞台で、出身国毎の寸劇、民族ダンス、楽器演奏、アクロバット!など、それぞれの自慢の芸が披露され、思いがけない彼らのタレントぶりに感心。いつ練習したのだろう。
陽気な笑いと屈託なく続く拍手に、非日常の空間と時間を痛感する。

キャビンのボーイや、レストランのテーブル担当のチーフから聞いた話から。
アジアや南アメリカからは、祖国に家族を残して働く典型的な出稼ぎが多い。
中には、夫婦で雇われている者もいて、ラッキーだよ・・・。
コスタルミノーザ号の船籍はイタリアだから、上級のスタッフはイタリア人中心。どんなに働いても、イタリア人でなければ出世できない仕組みがあるんだ。

記名証で見た出身国は、フィリピン、インド、インドネシア、ブラジル、トルコ、ウクライナ、スペイン、ドイツ、イギリス、イタリアと多彩だが、彼らの仕事内容と身分の格差は、歴然としている。
これは船に限ったことでなく、欧米を旅しても、つねに感じることだ。各人の属する国の現実の姿に思いを馳せながら、最近の日本でも、就職や賃金などの格差が問題になっていることを、改めて認識する。

夜のショーは、疲れたので出かけず。




2012年4月23日月曜日

「イタリアの夕べ」に誕生日を祝う




【船室のテレビで航跡図を見ると、すでに地中海に出て、北上している】

スエズ運河通峡の1日⑦ 4月5日(火)

4時45分、部屋に戻る。振り返ってみれば、スエズ運河に夢中になっていた間、1度も部屋に帰っていない。さすがに、疲れた!!

6時15分からの夕食は、「イタリアの夕べ」と銘打ったものだ。
そろそろ食事が終わる頃、忙しく立ち働いていたスタッフが、歌や踊りを披露し、イタリア風に陽気なドンチャン騒ぎになる。いつ練習したのか、芸達者な者が多くて、感心する。最後はスタッフに誘われた乗船客が次々に加わり、肩に手をかけ、リズムに乗ってレストランのフロアを歩き回る。息を弾ませて、やっと席に戻る。ハア、ハア、・・・。

さらに、日本人グループのオプションで、クルーズ中に誕生日を迎えた者(11人参加の内、4人)の合同誕生パーティーがあった。私もその1人で、喜寿を迎えた。
ダイニングスタッフと一緒に、「ハッピー・バースデイ・・・」を歌い、ケーキで祝い、ラクダの骨にヒエログリフ(聖刻文字)で名前を彫ったキーホルダーをプレゼントにいただく。



【ラクダの骨にMIYAKOとヒエログリフ(注)で彫ってあるキーホルダー】
(注)ヒエログリフは、古代エジプト文字のひとつ。絵文字から発達したもので最初から完成した形を持ち、メソピタミアの影響が考えられる。主に碑文などに用いられたので聖刻文字と訳す。1799年のナポレオンのエジプト遠征の際、アレキサンドリア付近で発見されたロゼッタ石に刻まれた3種の文字のうち、シャンポリオンが解読した部分がヒエログリフ。

夕食中の7時頃、船は地中海へ入る。
9時半から「イタリアン・パーティー」がある。1時間ばかり覗いたが、ご老体には付き合いかねると、早々に部屋へ。

最後の締めくくりとして、スエズ運河に引き込まれたことを、付け加えておこう。
私の読書対象に、世界各地に駐在する新聞記者が書く、ノンフィクションがある。
中東を知る手がかりは、牟田口義郎の著作が多い。
牟田口義郎は、酒井傳六の後任として朝日新聞のカイロ支局で活躍した。
酒井が、予想だにしなかっ怪我の後遺症で逝去し、続編の期待がなくなったとき、1975年以降のエジプトの動向を牟田口が「終章」として加筆し、朝日文庫(1991年)になった。見事なタックルだった。

2011年3月11日3時46分、東日本大地震発生。水戸でも激しく揺れた。
書斎の造り付けの南北側の本が全部飛び出し、東西側も飛び出したり、辛うじて宙ぶらりん状態で、床には書籍が堆積した。その一番上に、上記の二人によって完成した著書「スエズ運河」があった。

すでに書いたが、中東の政治情勢の変化で、旅に参加するか否かの問い合わせがあり、地震が追い討ちをかけた。
今にして思えば、「スエズ運河」の文字に誘われて、中東へのクルーズ参加を決断した面もある。

記念すべき、スエズ運河通峡を果たした1日。
おやすみなさい。

運河沿いの風景、ムバラク平和大橋や浚渫の様子




【日本の援助資金で建設されたムバラク平和大橋、スエズ運河を横切る唯一の橋】

運河通峡の1日⑥ 4月5日(火)

3時20分。ノルウェイ・スイング橋が現れる。両岸の岸壁に、可動式の橋が向かい合っていて、普段は使われていない。緊急非常時には結合され、アフリカ大陸とシナイ半島(アジア)の連絡路になる。運河の下にトンネルが造られたのも同じ目的だし、中東戦争の経験が、準備怠りなく続いている。



【ノルウェイ・スイング橋。今は使われていないが、いざという時に90度回転して運河を横切る輸送ルートとなる】

3時50分。左舷に、岸壁と中州を望みながら進む。中州の向こう側に、南に向かう9隻の船が並んで、待機している。その内3隻は中国の船だ。グレートビターレイクと同じように、ここも一方通行のすれ違う場所になっている。
中州は、とても長く、通り過ぎるのに25分もかかる。

中州や岸壁に止まっている浚渫船が、クレーンで砂を陸揚げし、トラックに積み上げると少し離れた場所に砂をおろし、平らにならし、戻って来る。
左舷の岸壁はるか向こうには、砂漠の砂が舞い上がって、靄っている。砂塵がまた運ばれて、浚渫作業は、運河が機能する限り、エンドレスで繰り返される。

とっくに第2期運河拡張工事の計画(運河の複線化、既存水路の拡張と増深)が立てられているのに、まだ着工していない。
エジプトが、イラン・イラク戦争(1980〜88年)、湾岸危機と戦争(1990、8〜91年2月)など、中東世界の不安定な情勢に巻き込まれ、石油価格の不安定な動きで国家の歳入は下がり、失業者が増え・・・、運河工事どころではないのだ。

4時20分。地点49。「ムバラク平和大橋」の下を通る。
橋下の中央部に、エジプトと日本の国旗「日の丸」が描かれている。
総工費の60%は日本政府の無償援助で、日本企業の技術(橋脚の外観は、高さがクフ王のピラミッドと同じ140メートルでオベリスクをイメージしたもの)によって造られている。エジプト人が親日的な感情をのぞかせるのは、この橋の建造によるところも大きいらしい。
橋は全長約9キロメートル。水面から橋桁までの高さは70メートル。
2001年4月に完成し、10月から開通している。スエズ運河に架かる既存の橋が、中東戦争で全て破壊されて、スエズ運河のアジアとアフリカの唯一の連絡路となっている。



【ムバラク平和大橋の下を通過。橋の欄干中央に日の丸とエジプト国旗が見える】

今春(2011年)の動乱で、ムバラク政権は崩壊したから、橋の名前の「ムバラク」は、早晩なくなるだろう。橋を見上げながら、しきりに、現代の世界の急速な動きを身近に感じ、平和と戦争が紙一重で存在する国の姿を考える。
クルーズのハイライトのスエズ運河通峡を、充分に楽しみ、大満足の1日だった。

運河沿いの風景、通行料など




【運河沿いに立派な記念碑がある。第4次湾岸戦争の戦勝記念碑?】

スエズ運河通峡の1日⑤ 4月5日(火)

1時35分。グレートビターレイクを抜ける。
緑が豊かで、鮮やかな花々が咲き乱れる住宅が現れる。大邸宅の佇まいだから、王族や高官のお金持ちの別邸か。ここがエジプトだと忘れさせ、富の格差が大きい現実に思いは飛ぶ。

突然、コスタルミノーザ号が、「ブオー」とくぐもった汽笛を響かせる。
車と人を乗せて、両岸(アフリカとアジア)を行きかうフェリーが、船首近くを横切っていく。コンボイを組む船と船の間をすり抜けるのだから、なんと大胆なことかと、冷やっとする。

緩やかな斜面の荷揚げ場所が続く。倉庫が並び、屋外にも、コンテナが積み重ねられている。かなり大規模な物資の集積所だ。ここからは、陸路、トラックや鉄道で物資は運ばれていく。船が、エジプトの物流に重要な役割を担っている。その後も、こんな荷揚げ場所がいくつも現れる。



【スエズ運河を横切る方向の小運河から出て来た特殊な船、海軍の船だろうか】

運河を通過する船の通行料は、かなり高額らしい。それでも、アジアとヨーロッパを結ぶスエズ運河航路は、喜望峰を辿るのに比べて、時間も燃料もほぼ半分程度だという。世界経済の動脈としては貴重だし、採算は充分に取れる。
コスタルミノーザ号の場合、1回の通行で6000万円程度、乗船客は1人2万円くらい支払っていると聞いたが、高過ぎるなあ。記憶が定かではない。

魚を釣っている男たち数人。少年もいる。今夜の食事の準備だろうか。
昨夕の食事に、紅海で獲れたシーフードメニュー「スビエトの唐揚げ」があった。スビエトはイカの仲間で、日本人には好評だった。
のどかな風景を眺めながら、彼らの食生活や日常生活を想像する。

運河では、船は平均7ノット(時速13キロメートル)とゆっくり進むので、移り変わる風景を背景にして、いろんなことを思う至福の時間だ。

2時半頃、軍事施設が増えて来る。岸壁に軍用ボートが並んでいる。
第4次中東戦争のメモリアルがある。高い塔は、第一次世界大戦のメモリアルだ。未だにアラビア半島諸国の緊張があるし、エジプトの軍隊の存在は大きい。
今春のムバラク失脚後のエジプトの安定に、軍隊が重要な役割を果たしていると、何度も聞いたし・・・。

次第に都会らしい住宅が増え、遠くには近代的なビル群が広がっている。

寸劇「インディ・ジョーンズ」に引っ張り出され、気分転換




【寸劇終了後の記念撮影。掌をあげているのがみや。その左がインディ・ジョーンズを演じたロザーリオ】

スエズ運河通峡の1日④ 4月5日(火)

12時。昼食をしながら休憩にしようと、9階の様子を見下ろす。
エンターテイメントチームが動き回って、何人かに話しかけ、寸劇「インディ・ジョーンズ」に出演する10人を揃えている最中だ。

「見つかったらアブナイ」と首を引っ込めたときは、遅かった。目敏く見つけたスタッフが、「ミヤーコ!」と手を振りながら、10階まで走って来る。
強引に手を引かれ、拉致され、得体のしれないケッタイな衣装を着せられ、「言うとおりに動けばいいから・・・」と指示され、舞台に押し出された。

こんなときに乗ってしまうのが私の長所?
それからは、転がったり、死んだり、救い出された王女を囲んで踊ったり。



【インディ・ジョーンズと闘った後、死んだふりをしながら、次のシーンを眺めるみや】

イタリア人のロザーリオは、インディ・ジョーンズに扮したのに、助けた王女よりも、私をだき抱え、このときとばかり親愛の情を示す。
このおっさん、典型的イタリア男性で、乗船以来関心を示していたから、「やるわねえ・・・」と付き合う。
夫は笑い転げて呆れかえり、記念の写真のシャッターを押すのを忘れる始末。



【寸劇のフィナーレの出演者一同。右端がみや。中央後ろ向きがロザーリオ】

女優になった?ので昼食は遅れ、ビュッフェに並ぶ料理は残飯状態だし、休息どころではなかった。だが、たいへんな運動量で、予想外の気分転換になった。

その後は、飲み物とケーキ、果物を何度も取りに行き、お茶をしながら、運河を眺める。
スエズ運河に関心を持つ乗船客が、テーブル上に広げた地図に興味を示し、ゆっくりと覗き込んでいく。中には、何度もやってきて、「どの辺り?」とチェックする人もいる。思いかけず、サロン風の団欒になって、お互いの国や関心事に話題が展開した。

リトルビターレイクからグレートビターレイクへ




【スエズ運河の両岸はこんな平坦な地形が続く。大部分は砂漠、ところどころ緑地、稀に市街地】

スエズ運河通峡の1日③ 4月5日(火)

運河両岸のパノラマを眺めようと、船首に行く。
スエズ市からリトルビターレイクまでの20キロメートル余は、狭い水路だ。
船の前後に、タグボートが行き交っている。航行の難所なのだろう。
10時30分にリトルビターレイクに入ると、タグボートが戻って行く。

船は、コンボイ(船団)を組んで、一方通行で運河を進む。お互いの船の間隔は、だいたい1、8キロメートルだという。

陽が高くなって暑いけれど、風が心地よい。
デッキが賑やかになっている。トランプに興ずるグループ。寝そべって読書中の人。太陽の日差しに惜しげもなく見事な!裸体を晒し、日光浴中の白人たち。
エンターテイメントコーナーでは、ちょうどサルサ踊りが始まっている。
あれあれ、早々と食事をしている子どもたちもいる・・・。

プールでは、「お腹を水面にあてて、どの位、飛沫が飛び散るか」の飛び込みコンテストが行われている。ご自慢のビール腹をしたたかに水面に落とし、周囲の笑いを誘っている。あれって、どう考えても、半端な痛さじゃない!

11時35分。大きく突き出している岬に、瀟洒な2階建てのテラスハウスと花々が咲き乱れる庭が見える。

そこを回ると、広々としたグレートビターレイクだった。地図を見ると人間の胃袋のような形だ。
ここで、 南北行きの船が、相手側のコンボイを待機し、すれ違って一方通行の航行をして行く。北に進むコスタルミノーザ号は、比較的後方に位置している。静々と進むコンボイの様子を空から眺めたら、面白い風景だろう・・・。



【グレート・ビター・レイク(大ビター湖)の決められた水路を行く船団】

南に向かう最初にすれ違った船は、自動車運搬船。モクモクと黒煙を吐くLPG船が続く。中国のコンテナ船が意外に多い。世界を舞台に活躍する中国の姿を垣間見る。

スエズ運河は、 1980年の第1期拡張工事の完成で、水深は14、5メートルから19、5メートルへと深くなり、幅も100メートルから160メートルになった。
原油満載時のタンカーは、従来は5万トンまでだったが、15万トンまでが航行可能になっている。通過船舶数も、1日70数隻になったという。

総工事資金13億ドルのうち、日本は2、8億ドルを援助し、工事全体の70%は日本が担当している。
当時のエジプトの大統領サダトが、完成記念式典で、日本の経済協力をたたえている。「この拡張・増深計画は、技術、工事、資金を含め、日本の貢献によって実現できた」と。
(この項の数字は「スエズ運河」酒井傳六著、牟田口義郎補筆、朝日文庫 1991年刊を参考にした)

エジプトの観光では、意外に日本人に親近感を持つ人が多かったが、エジプトの運河・大橋・トンネルなど、技術協力や資金援助が大きいからだろう。これからの国家戦略として、発展途上国への関わり方を思う。

スエズ運河通峡始まる




【朝、スエズ運河の通過を目指す船が運河入口付近の海に集まっている】

スエズ運河通峡の1日② 4月5日(火)

終日航海をしながら、スエズ運河通峡の日。
昨夜から待ちわびていた朝を迎え、早速様子を見るために10階のデッキへ行く。
朝から張り切っている人は少ないらしい。目覚めの遅い乗船客が多く、閑散としている。

夜中から朝方にかけて、周辺の海には様々な船が集まっている。いずれも、スエズ運河を通峡する船だ。ソマリア沖を抜ける時にコンボイ(船団)を組んで急ぎ足に航海をして以来、「再びお目にかかりますね」といった感じだ。
スエズ運河は一方通行で進むから、各船は指令を受け、順番が決まるのを待っている。順番が決まると船団を組んで運河通峡が始まる。

朝食後、散歩しながら、スエズ運河を眺望する場所を探す。
陣取った場所は、太陽の動きを考え、日陰が確保できる10階左舷のデッキ中央部。屋根があるし、テーブルや椅子がある。中央の吹き抜けの場所からは、9階のプール、エンターテイメントの舞台、ストレッチのコーナーを見下ろせるから、気分転換にも好都合だ。右舷側へも、簡単に行ける通路があるし、船首と船尾近くには、カフェテリアのコーナーもある・・・。
自宅から、A3用紙に拡大したカラー地図を携えてきている。テーブルに広げ、航行の時刻などを書き入れることにする。スタンバイ、すべてよし。

9時20分。スエズ市の岸壁に、巨大な「163」の数字が見える。
地中海側の港町ポートサイドを起点にすれば、スエズ運河の全長163キロメートルの終着地を示す数字だ。紅海から北上すれば、出発地点になる。
「とうとう、スエズ運河を通るのだ」と、感慨にふける。



【運河へ次々に船が入っていく。船と船の間隔は1.8キロと決められている】

スエズ市を過ぎると、両岸に砂漠が広がっている。
それを遮るように、住宅地が現れ、モスクの尖塔がみえる。また、砂漠。
遥か彼方はナイル川か、その支流の水路だろうか。樹木が並ぶ地平線が続く。「あの木は、ナツメヤシだろうなあ」。また砂漠。

地点146(スエズ市から北へ17キロメートル)に、潜り込むような形の建物がみえる。「あれだ。アフリカ大陸とシナイ半島(アジア)を結ぶ海底トンネルの出入口じゃない?」。
茫漠とした砂漠と紅海の風景には、いささか不釣り合いな建造物で、周辺には広い駐車場がみえる。

第4次中東戦争(1973年)のとき、エジプト軍は、ここから紅海を渡る浮橋をかけて、シナイ半島に侵入した。作戦を指揮して1番乗りをしたのが、工兵少将アハマド・ハムディだが、戦死した。
彼の功績を偲び、間もなく浮橋に代わってトンネルが掘られ、「アハマド・ハムディ・トンネル」が完成( 1980年)した。

書籍「スエズ運河」に導かれて




【エジプト、スエズ運河あたりの地図、グーグル・マップから合成】

スエズ運河通峡の1日① 4月5日(火)旅の17日目

30数年前、偶々「スエズ運河」(酒井傳六著 新潮選書 1976年)を読んだ。
目次に、第八章「レセップスの構想力と行動」があった。スエズ運河と言えばレセップス。どんな人だろう。それをお目当てにした極めて単純な動機だった。

ところがである。この本は、面白く、わかり易く、小説よりもずっと楽しく、レセップスへの興味以上に、エジプトのドキュメント物語として、貪り読んだのだ。
エジプトの歴史を辿りながら、4000年の運河構想の背景を知った。
フランス人のレセップスは、運河完成によって「世紀の英雄」と賞賛され、ポートサイド西岸にブロンズ像が建てられたが、1956年の第2次中東戦争時に破壊され、「帝国主義の手先」と謗られた。
その3ヶ月前に、ナセル大統領はスエズ運河のエジプト国有化を宣言している。

歴史の中で、国際政治と軍事・外交、民族意識などが絡まり合って、変貌を遂げていく。それらが鮮やかに描かれ、興味が尽きなかった。

運河建造に携わった労働者(実態は奴隷)は、ピラミッド建造に匹敵するような過酷な労働で、12万人(イギリス側の資料では20万人だとも)も亡くなっている。華々しいスエズ運河の完成の背後に隠された犠牲者は、あまり知られることがないが、なんと多かったことか。

運河完成後、イギリスは、運河最大の受益者となったばかりでなく、運河会社そのものの経営を手にした。乗っ取りとも言える動きに、”早耳のロスチャイルド”が存在している。

英仏がエジプトを巡って熾烈な軍事・外交を展開し、英仏両国の中東・アジア進出の要となったそのエジプトは、政治の脆さを抱えていたし、さらには地中海進出を図るロシアとオスマントルコの縄張り争いなど、19世紀以降の世界の動向が、壮大なドラマとして次々に繋がった。

「スエズ運河」を読んで、近現代史への興味が促されたと言っていい。
「いつかスエズ運河を訪れる機会はあるかなあ。多分、無理だろうなあ」。
こんな淡い夢を抱き続け、やっとスエズ運河通峡の旅が実現したのだから、感慨深い。

シナイ山麓に建つ聖カタリーナ修道院




【聖カタリーナ修道院全景、シナイ山(標高2、285m)は見えている山のさらに奥にある】

シャルム・エル・シェイク(エジプト)③ 4月4日(月)

10時近くに、シナイ山麓の「聖カタリーナ修道院」に到着。
エジプトにキリスト教(コプト教)が布教したのは、4世紀のこと。
313年、ローマのコンスタンティヌス大帝(280頃〜337年)が、ミラノ勅令でキリスト教を公認。皇帝の母親ヘレナが、337年に「モーセが燃える柴を見た地」に、聖堂を建造した。これが修道院のはじまりだ。

アレキサンドリアの豪族の娘・カタリーナは、子どもの頃からイエス・キリストについての知識に優れ、キリスト教を迫害していたローマ時代に、キリスト教徒であることを公にして、処刑されている。
彼女の名前をつけた「聖カタリーナ修道院」は、6世紀半ばに基礎ができ、当時の東ローマ皇帝ユスティニアニス1世(483〜565年)は、聖堂の周りに砦を築き、守備隊が警備にあたった。カタリーナ修道院の佇まいが要塞を思わせるのも、そうした背景があるからだろう。

世界最初の司教座がここに置かれたし、フランスのナポレオンが修道院の城壁の修復をしている。長年の盛衰を辿った歴史があり、由緒あるキリスト教の修道院だが、敷地内には、イスラム教のモスクがあるし、モーセの縁でユダヤ教の聖地でもある。辺りは自然保護地域になっていて、建造以来の佇まいは、ほとんど変わらないという。修道僧が観光客に指示をしているし、三つの宗教の聖地らしく、様々な巡礼者が訪れている。現実はともあれ、異なる宗教の共存を平和に現す場所だから、宗教の在り方を考えさせるし、実に面白い。巡礼者の心の内を知りたいとも思う。




【聖カタリーナ修道院の鐘楼、その向こうには別の宗派の塔がある】

バシリカ様式の建物の内部には、6世紀から17世紀にかけてのイコン(聖像)が並んでいる。古雅ともいうべき稚拙な筆致に、人々の祈りが込めれている。

修道院には、最盛期には400人を数える修道僧がいたとか。現在も、宗派をこえた修道僧が、自給自足の生活をしている。聖堂入口や各所で案内をしている人が、修道僧の衣服を着てお仕事中と知る。

カタリーナ聖堂内には大勢の人々がいるのに、祈りの場所の静寂に包まれている。
聖堂内は撮影禁止だ。胸のうちに、宗教のあれこれを問い、厳粛な気持ちになった。

モーセの井戸、カタリーナの遺骨(腕)、城塞、・・・。
修道院にまつわるものを次々に見て、11時半に観光終了。



【聖カタリーナ修道院周辺、ラクダに乗り観光する人、歩く人】

時間の短縮のため、ホテルのレストランを借りての昼食は、大きいランチボックスだった。「何人分になるのだろう」と驚き呆れたが、好きなものを召し上がれというサービスらしい。超スピードで昼食を終える。
このホテルは、以前は、サダト大統領の別荘(1970年から81年まで)だったとか。
現在は、敷地内にバンガローが点在するリゾート施設だ。

12時20分にはコスタ・ルミノーザ号への帰路につく。
帰りの車中、ハイサムさんが「スエズ運河講座」を展開し、明日のスエズ運河通峡に備える。上陸観光は慌ただしかったが、4時の出港にギリギリ間に合って、大満足。

部屋のバルコニーから離岸風景を眺めながら、くつろぐ。
シャルム・エル・シェイクの海岸は、ヨーロッパにも広く知られるスキューバダイビングのスポットだ。洒落た小船が次々に通り過ぎて行く。エジプトの動乱は、ここでは無縁なのかと、ふと想う。

紅海の北上につれて向かい風が強く、珍しく船体が揺れる。温度計は、外界気温23度C。左舷にアフリカ大陸、右舷はシナイ半島。共にエジプトの領土だ。

モーセはどんな人か




【モーセとヘブライ人が流浪し、モーセが十戒を受けた地は、こんな風景が続く場所】

シャルム・エル・シェイク(エジプト)② 4月4日(月)
紀元前の大昔のこと。流浪の民ヘブライ人は、エジプトに辿り着いた。奴隷となって過酷な労働を担いながら、ヘブライ人の人口が増えていく。脅威を感じたファラオが、ヘブライ人の子どもの皆殺しを命じる。
「水の息子」の意の「モーセ(紀元前1350?〜紀元前1250年?)」はナイル川に捨てられたが、ファラオの娘に拾われて育てられた。成人後、殺人の罪を負わされてエジプトから逃げ、シナイ山へたどり着く。羊飼いの娘ツッポラと結婚して、云々と、ガイドの説明が続く。

旧約聖書の「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」でモーセの記述があり、これに「創世記」を加えて「モーセ五書」と呼ぶものは、彼が著者とされていたけれど、今は伝承に過ぎず、認められていない。
おまけに、ヘブライ人の預言者・立法者だと言われながら、モーセの歴史的な実在を疑う者もいるらしい。

ともあれ、モーセはヘブライ人の子としてエジプトで誕生。ファラオの奴隷とされて悲惨な境遇にあったが、「神に約束された理想の地カナーン(現在のパレスティナ地方)に導くように・・・」という神の言葉に従って、エジプトを脱出。
シナイ山で神から「十戒」を授けられた。

40年間、荒野をさまよって苦難の末、ヘブライ人に、唯一神ヤハウェへの信仰を固めさせ、神から選ばれた民族としての民族意識・選民意識を創り出した。
若い頃、映画「エクソダス」を観て、強烈なモーセ像の印象があったことを、しきりに思い出す。

空高く、雲白く、岩山と砂漠が続くバスの行方には、山並みがくっきりと見える。
2時間ばかり走ってトイレ休憩。バスの停車を見かけた途端、親子連れの物売りが集まってくる。彼らの真剣な目つきとしつこさを眺め、生活がかかっているのだし、これしか生きる術はないのか、これで一生を終えるのかと、気持ちが穏やかでない。

シナイ山へ






【海から見たシナイ半島の印象】

シャルム・エル・シェイク(エジプト)① 2011年4月4日(月) 旅の16日目

昨夜8時頃に出港した船は、アカバ湾を南下し、今朝シナイ半島先端のシャルム・エル・シェイク港に接岸した。午後4時には港を離れるので、観光はシナイ山麓にある聖カトリーナ修道院だけだ。

ルクソール・ペトラ・イスラエルと続いた寄港地観光には、上陸せずに船に残るお仲間が増えてきた。満足感と疲労感がないまぜになっているが、多分、この辺りへの旅は出来ないだろうと、老体をムチ打って出かける。早々と集合、7時15分にはバスは走り出す。

ルクソールを案内してくれたハイサムさんが、再び、カイロから駆けつけ、新たにマネージャーを名乗る2人のスタッフと、ドライバー1人が加わる。なんとも物々しい。走り出してまもなく、警察官が待ち構え、手続きで10分間もストップ。

エジプト動乱でムバラク大統領が失脚し、別荘のあるシャルム・エル・シェイクに逃げた。十数人の高官も一緒で、特に内務大臣は嫌われていた。
新たに発足した政権は今後の動きに神経を尖らせ、一般のエジプト人は原理主義の法律ができるのではないかと心配している。
ムバラクはドバイとサウジアラビアへの往来をしているらしいとも、健康状態が悪くて入院しているとも言われ、現在、ここにいるかどうかは、わからないらしい。厳戒体制が布かれている背景が、わかる。

「昨日、カイロは大雨でしたよ。砂嵐がおさまるので観光には好都合です。シナイ山でも期待しましょう」。




【シナイ半島の航空写真、グーグル・マップから引用】

シナイ半島の南部にあるシナイ山は、港からドライブで3時間弱。
シナイ山が宗教の聖地なら、シナイ半島は第二次世界大戦後の冷戦構造のなかで戦った中東戦争(注)の舞台だ。歴史的には、もっと理解したい地域だ。

(注)中東戦争・・・イスラエルとアラブ諸国間は、第1次(1948〜9)、第2次(1956)、第3次(1967)の中東戦争で対立。イスラエルがシナイ半島を占領すると、これに対して、エジプトがスエズ運河を封鎖。国連決議で休戦はしたものの対立は解けず。第4次(1973年)の戦争で、エジプトはシリアとともに、イスラエルからシナイ半島の一部を奪還し、有利な休戦協定を勝ち取った。

辺りに連なる山々が、ギザギザと波打っている。形が歯に似て並んでいることから
「歯=シーナ」からとってシナイ山といわれるとか、「月の神=シン」から名付けられたとか、諸説あるそうな。
モーセが十戒を授けられた山といわれるのに、「シナイ山」と特定する山はどれだか不明で、「ガバル・ムーサらしいと、言われますが・・・」とガイド氏。
この辺りでは、古くから、トルコ石や、マンガン、リン鉱石を産出し、単なる砂漠ではなく、経済的には大事な場所だという。