2012年3月31日土曜日

コールファガン寄港、フジャイラ観光




【コールファガン港。ここはアジアと中東の中継貿易の拠点の一つ。
手前に並ぶのは、クルーズ客の観光のため待機しているバス】

3月24日(木) 5日目

昨夕6時頃アブダビ港を離れ、 早朝、ホルムズ海峡を抜けてオマーン湾へ。
UAE最後の寄港地フジャイラへ寄港する予定だったが、なにか事情があるらしく、すぐ近くのシャルジャ首長国のコールファガン港に変更になった。

バルコニーからコールファガン港接岸の様子や、港の風景を眺めながら、上陸を待つ。港の背後に山が迫り、物流の拠点として恵まれた条件の港らしい。貨物船が繋留され、大きなコンテナがどんどん陸揚げされている。積み上げられたコンテナは、直ぐにクレーンで持ち上げられてレールに置かれ、遠くの倉庫へ吸い込まれて行く。効率的な作業の様子が面白かった。

10時近くに上陸。港湾の警備や管理の都合で、一般車の走行が制限され、近くの駐車場に待つ観光バスまでは、シャトルバスに乗る。

日差しが強く、砂埃が舞い上がって、前方の風景が霞んでいる。そんな中、三々五々、登校中の子ども達が群れながら、戯れている。遅い登校だ。
ドバイのヘリテージビレッジで見た黒いマスクは、アブダビの高齢女性が日除けと砂塵除けに今も使い、乾き切った街の風景とマスクが結びつく。若い人はスタイルを気にして敬遠するらしい。

道路に並行して用水路が続き、水が流れている。
沿道には、船で運ばれて来た輸入品の果物を売るテントが並んでいる。
観光の目的地へ向かう途中、ガイドの車中講座は楽しい。「死者は土葬されるが、その後のお墓参りはしない」など、最近の生活の様子も紹介されて、興味深い。
死んでしまえば、すべてが終わりか・・・。

「フジャイラ博物館」へ。古くからバーレーンを起点に発展した文明の史跡や、紀元前の古墳の出土品が展示されている。この地方にはアラブ系の住民が多いという。

生命を拒否するような岩山が連なる道路を走り、修復された16世紀建造のフジャイラ砦、UAE最古の土造りのバディア・モスクへ。モスクの背後には、アラビア湾の沿岸警備と、重要な食料のナツメヤシの盗難を監視する見張り塔がある。

しばらく走ると、鮮やかなブーゲンビリアが咲き誇り、青々とした芝生のある住宅が現れ、再び乾燥の舞台に戻って行く。その差があまりにも大きい。人の手によってもたらされる水が、生きものの生命線となっていると、痛感する。

昼食はJAL Hotelのレストランで。午前中に触れたフジャイラとは、別世界だ。入口に、サメのモニュメントがある。この辺りの海では、ごく普通に獲れる魚だとか。ビュッフェ形式の食事に、だいぶ慣れてきた。ビールを頼んだら、小グラス一杯が9ユーロ(約1200円位)、東京のレストランよりもかなり高い。
食後、ホテルから続くプライベート・ビーチへ散策し、ロシア人の家族連れで賑わっている空間を眺めながら、束の間、アラビア半島にいることを忘れた。

午後3時頃、船に帰る。
久しぶりにゆっくりとBBCテレビを観ていると、ニュースのトップは、福島原発事故関連を報じている。非常に深刻な状態が続いていること、横須賀基地のアメリカ海兵隊が、放射能の危険を避け国外へ撤去したこと、地震と津波の死者・行方不明者は2万5千人以上になることなど。相変わらず大きい余震があり、大変な状況が続いている。

成田を立って5日目の今日で、UAE観光のすべてが終わった。
夕食中の7時頃、次の寄港地マスカットへ向けて離岸。
連日の寄港・観光に、いささか疲れ、8時半頃、早々と、おやすみなさい。

(補足1)アラブ首長国連邦(United Arab Emirates、略して UAE)について

1971年に、七つの首長国(アブダビ、ドバイ、シャルージャ、アジマン、ウム・アル・カイワン、フジャイラ、ラス・アル・ハイマ)が集まって、連邦国家となったのがUAEで、国家としての歴史は40年余。北海道と同じくらいの面積に、およそ480万人が住む。アラビア半島の地図を眺めると、アラビア湾の入口に面する小さな国家だ。

建国以前から、政治と宗教の権力を握った一族が、各地で首長として支配していたし、連邦国家成立後も、地方政治の中核になっている。各首長国では、首長の人格、採掘される石油資源や漁業・貿易などの経済力、近隣諸国との外交など、首長支配の内容は多彩だ。

UAEの大統領は、各首長国の王族の選挙で選ばれ、建国以来、アブダビとドバイの首長が大統領に就任している。絶対君主制の政治だが、大統領としての識見に優れ、国民が抱く尊敬の気持ちは、ただ事ではないという感じがする。人々が大統領や各首長に寄せる信頼は、非常に大きい。チュニジアやエジプトの独裁的な政権が倒れた「アラブの春」。その余波の動きが未だ吹き荒ぶ中東諸国のなかで、UAEの存在感や繁栄・安定の鍵は、国民の政治への心情からだと、痛感する。

中でも、ドバイでは、「ドバイ建設の父」として、現在も多くの人々に崇められているシェイク・ラシッド(在位1958〜1990)が、首長時代に、国家の発展には経済が重要と石油採掘事業を奨め、1966年に石油が発見されると、石油資源に頼らない経済政策を打ち出すなど、先見の明で、新たな経済成長を生み出した。一方、彼は「ドバイ博物館」を整え、ドバイの歴史と近代以前の生活の姿を保存している。

息子のシェイク・マホメットはイギリスの大学に学び、父親をたすけて活躍する。1976年のUAE軍隊の創設。軍隊は相ついで平和維持軍として参加している(レバノン1976年、ソマリア1993年、コソボ1999年)。
また、1985年にはエミレーツ航空を創設し、ドバイを人や物の世界の輸送拠点にした。ドバイの象徴的な開発の数々は、父親をたすけた現首長のシェイク・マホメットの大英断だと言われている。2004年に、ヨルダンの故フセイン国王の娘と結婚。ヨルダン王家との協力関係を深める戦略的目標だとか。
ドバイはUAEのモデルと位置づけられ、発展の道を続けている。

ついでに、UAEのガイドについて補足
クルーズの旅は、UAEのドバイで乗船し、アブダビ、フジャイラの順に寄港して始まった。乗客が船でまどろんでいる間に、ドバイに住む日本人女性のガイドが、観光バスの運転手と共に、長い陸路を走って寄港地に駆けつけ、ガイドをつとめた。

ドバイ空港で待っていたガイドは、民族衣装の黒のアばヤを着ていた。次第に彼女がイスラム教徒だとわかった。彼女は、日本でアラビア語を学び、ブルネイの旅行会社に就職。6年働いた後、その会社がドバイに進出し、そこで夫となる人に出会って結婚。以来10年、ずっと働いている。夫がイスラム教徒で、結婚を機にイスラム信者になった。夫の家族と一緒に住み、「結婚後に女性が続けて外で働くのは珍しい。最近は変化しているけれど・・・」と言いながら、イスラム教の習慣、家族関係など、日常生活を話し、面白かった。

今回の旅ではたくさんのガイドに会ったが、共通していたのは、自分の国のことを深く知ってもらいたい、という熱意に溢れていたことだ。良い意味での愛国者だった。歴史や地理の学識だけでなく、自分と祖国の置かれた立場を、現在の世界のなかで客観的に理解しようとしていた。それに、自分が住んでいる土地の、現実的な生活者だ。少々不躾な質問にも、その趣旨を理解して、正直に答えてくれた。職業的な外交官以上に、優れた民間外交官だった。
はじめて訪れた中東世界・イスラム圏が、それまでの知識を超えた世界として実感できたのは、こうしたガイドのお陰だ。他のガイドについては、旅と共に紹介したい。
以上。

2012年3月29日木曜日

アブダビ観光後、避難訓練実施




【ヘリテージビレッジの岸辺から内湾越しに新市街を望む】

アブダビ③ 3月23日(水)
その後、「ヘリテージビレッジ」へ。埋立地にあるし、カンカン照りだし、入口の「温度50度c、湿度70%」の表示を見なくとも、忽ちに目が眩む。

最初に訪れた部屋には、「ルブアリハリ砂漠=何も住まない砂漠」の生活が再現されている。現在はサウジアラビア領内にある砂漠の遺物は、国境線が定かでなかった時代の名残りだ。アラビアの生活を知ってもらいたいと、アブダビ政府が創ったという。過酷な自然の「何も住まない砂漠」と命名された地に、人間は生きてきた。水を貯える壺、ラクダの毛でつくったテントなど、極限を生きるための知恵と工夫に驚く。黒や茶色の見事な文様の衣類もあり、素晴らしい。今も砂漠地帯を往来し、交易しながら遊牧生活をしている人々が、ほとんど変わらない道具を用いているという。

別棟には、砂漠から続く山岳地方の暮らしが展示されている。
石を利用した住居。陶器や織物に混じって、コーラン台、ガラス器、鞣し皮細工品など。手間ひまをかけて作られた品々に、定住生活の物質的豊かさを感じる。

白いアラブの民族衣装を着た係りの男性が、カメラを構える夫を手招きしているので、撮影禁止の場所かと、ドキッとする。「日本人ですか?」と聞くので頷くと、ニコニコしながら、「日本はいい。最近のアブダビの近代化には、日本企業が協力していますよ」と、親しみを込めて話し出す。褒められれば悪い気はしないが、ビックリするなあ。よっぽど暇だったのだろう。しばし、ドバイの観光から始まったUAEの印象など、話す。

その後、バスで走り、ときどきカメラ・ストップして、街の様子を眺める。
大統領府前の高いポールに、国旗がはためいている。「あのポールの高さは、世界で第2位で、第1位はヨルダンなんですよ」。ガイドの解説に「また出たよ」と、笑ってしまった。

酷暑の観光は厳しいが、建物やバスの中は冷房が効きすぎている。「ドライバーさ〜ん、冷房、切ってもらえませんか〜」との声に、ガイドは「アラブ人は、涼しいことが最高のおもてなしと考えるんですよ」と、取りなすように言う。お金持ちの生活や観光面には、豊富なオイルの恩恵があると理解し、セーターを羽織る。

アブダビ観光は午前中で終わり、昼食は、日本の駐在者に人気のある中華料理店
「中華餐廳」へ。飲茶中心で美味しい。クルーズ中の船の食事はイタリアン中心だから、早くもアジアの味が嬉しい。






【避難訓練でデッキに集まった乗船客たち】

船に戻ると間もなく、避難訓練があった。
海事法では、「乗船・出港後の24時間以内に、避難訓練を実施しなければならない」と定められている。これまでのクルーズの旅では、1回だけの避難訓練だったが、今回は船長の指示で、念入りに繰り返された。海賊対策と中東の緊張が背景にあるからだろう。寄港中で観光客が留守をしている間には、クルーが救命ボートを降ろして、実際に脱出する訓練もしている。

今日は初回の避難訓練。あらかじめ、訓練内容の詳細がニュースで伝えられているので、予定時刻にはオレンジのライフジャケットを着て待つ。

廊下に人の動く気配を感じてドアを開けると、部屋付きのボーイがいる。「非常事態発生」のベルが鳴り響き、ボーイの指示に従って、避難の列が甲板に向かう。続くアナウンスは10か国語!で流れる。内容は同じなのに、緊急の度合いの印象はかなり違い、イタリア語の案内が最後だ。「ルミノーザ号は、イタリア船籍だからね」と言う声を耳にしたスタッフ曰く、「イタリア人は緊張していると、おとなしくしているんです。イタリア語の説明が終わると、勝手に喋って騒がしくなる。だから、待たせて、最後になるようにしているんです・・・」。スタッフも苦労していると、大いに納得。

指定された場所に着くと、10人ずつの縦列で並ぶ。ボートで脱出する順番に、女性と高齢者は前の方、男性はその後ろだ。茶目っ気たっぷりに、「夫婦だから、一緒にいてもいい?」と言う女性に、周囲から冷やかしの声と笑いが起こる。夫の手を引っ張りながら、2人は列の中ほどに立った。
乗船者が避難訓練に参加したか否かをチェックするために、キャビン番号を記したカードを出して、訓練終了。

2012年3月28日水曜日

イスラムの法学者の役割




【黒いアバヤを着たツアー仲間】


アブダビ② 3月23日(水)

ところで、モスクへの入場で、面白い経験をした。
女性は、観光客といえども、アバヤとシェーラを着ないと、モスクには入場できない。モスク出入口から少し外れた一角に、貸出の衣装が山積みされ、係りの女性が体格を一瞥しながら、サイズを選んで渡している。興味津々、イスラム教徒になる気分で黒の衣装を着たが、小柄の身だから裾を引きずる。係りが笑いながら布の紐を差し出したので腰の辺りをたくし上げ、やっと様になる。大騒ぎしながら、黒いアバヤを着て黒いシェーラを被ると、ツアー仲間の女性たちが美しく見えるような気がし、揃って美人になった? イスラム社会では、宗教上、人物写真の撮影を禁止し、被写体になることも嫌う。モスク内で記念写真を撮るのも憚かられるから、入口を入ったすぐの場所で、パチリ!

黒いアバヤを着ているガイドのTさんが、真面目な表情で説明する。「男性は弱い者だから、欲望を刺激しないために、女性は肌も髪の毛も隠すのです」。さらに、「イスラムでは、男性は女性に優しいのですよ」と。それでいて、「男性は女性を守るための権威があり、男の子は4歳位から女性に対して、命令します」とも言う。
優しいだの、命令するだの、なんだか矛盾しているなと思いながら、果たして、弱いのは、男性か女性かと、考えてしまう。

イスラム教を啓いたモハメットは、聖戦で多くの男性が亡くなり、遺された未亡人・子どもの面倒は、生きている男性の共同責任とした。それが4人の妻帯を肯定する根拠だと、聞いたことがある。イスラム世界では、コーランに女性の服装の記述があり、それに従がう厳格な宗派では、女性がブルカやアバヤを着なければならないが、一方では、欧米化が進んだトルコの女性は、そんな規制から開放されている。

イスラム教の内実は馴染みがないし、よくはわからない。
現代の日本人の立場からすれば、イスラム圏では、政治・宗教・生活が一体化して、男性優位の社会だと思うのだが・・・。いまだに、女性の社会的役割が制限されるのも、女性を護るイスラムの教えという。

帰国直後、飯塚正人氏が語る「イスラム教がわかれば世界が見える」(文藝春秋2011年5月号 440〜446ページ)を読んだ。そこで法学者の役割を知り、旅の間不思議に感じていたことは、「これだ」と納得し、面白かった。

イスラム教は、「コーラン」を拠り所にして、人間の弱さを容認している。
さらに「ハディース」で、預言者マホメットが話したこと、行ったことが、全て神の意思だと解釈する。それは法学者が現実的に判断し、一般の信者の生活規範になる大事なものだと。そうであれば、法学者の資質・性格・野心・政治との関わりなどで、解釈の幅は、時代や環境でかなり違ってくる。近代化の進む社会でも、原理主義を貫く宗派は、「ハディース」の解釈は厳しいと知った。イスラム教に対して、異教徒が感じるわかりにくさは、法学者の存在にあるらしいと、少し理解できた。

飯塚正人氏が余談として、女性の被り物について書いている。「中東の男性は、女性の髪の毛に猛烈に興奮するようだ。だから、髪の毛を隠すようになったという説が有力だ」と。隠せば隠すほどに、興味が増すのではないかと、笑ってしまった。

アブダビ観光名所は 「シェイク・ザイード・グランド・モスク」




【シェイク・ザイード・グランド・モスクの前庭】

アブダビ① 3月23日(水)
ドバイ観光を終え、停泊していたコスタルミノーザ号が昨夜半12時に出港。次の寄港地アブダビには、今朝8時に接岸した。

昨夕、JTBのツアー客5人が新たに加わって、日本人乗船客は合計16人になる。
今回の乗船客は合計で2300人余で、通常より少ないらしい。アラビア情勢が刻々と変わって、観光客の入国を制限し、旅ができない地域があるからだろう。
乗船客は、イタリア・フランス・ドイツ・オーストリア・スペインが多数派、トルコ・北欧が続き、日本人は少数派だ。中国人団体が乗船していないので、ホッとする。「新婚旅行で乗船しました」という若い中国人のカップルがいたが、シンガポール在住とのこと。

アブダビは、アブダビ首長国の首都であり、UAEの首都でもある。面積はUAE国土の85%を占め、首都になるのは当然なのだろう。1962年から石油時代に入り、急速に発展した大都会だ。

上陸すると、駐車場所を探しながら右往左往する車の渋滞に巻き込まれ、オフィス街をノロノロと走る。たった今起こった車の衝突現場に出くわし、消防車、救急車、パトカーが騒々しいサイレンを鳴らしながら到着。アブダビでは、運転者がスピードを出すので、車の事故が多いという。

観光のお目当ては、「シェイク・ザイード・ビン・スルタン・アル・ナヒヤーン・モスク」。UAE建国の父と言われる前大統領の名前がつけられて、長ったらしい。略して「シェイク・ザイード・グランド・モスク」。

敷地内に入る前から、高い尖塔が空を突き刺し、横に広がる壮大な構えのモスクが堂々と輝いて見える。真っ白のモスクの外壁が太陽に映えて、美しい。
世界中の建築家のコンペを経て、これまた世界中から建築資材を調達し、2007年に完成したばかり。世界で3番目の巨大なモスクだ。

モスク内へ足を踏み入れた途端、その豪華絢爛たる佇まいに驚いた。
凝った模様の手織りの絨毯が、床一面に敷き詰められている。世界一の広さだ。天井からさがる凝ったガラス細工の巨大なシャンデリア。紺青や赤、黄の色彩を中心に、細緻な花の文様や幾何学文様が溢れる周囲の壁。

観光客が群がっている空間は、イスラム教の聖日の金曜日は、厳粛な別世界だという。威容を誇るモスクで祈りを捧げる群れを想像し、UAEの経済発展や支配者=首長の権威を感じながら、イスラム教とは如何なる宗教か、考えを巡らせた。

モスクから外に出ると、ミナレット(塔)から、祈りを促す声が響き渡っている。礼拝を知らせるテノールの声が、あたかも不思議な音楽のように聞こえてくる。

2012年3月25日日曜日

噴水ショー、続くトラブル




【ドバイモール隣接の人工湖での噴水ショー】
(画面クリック→拡大画面→ブラウザーの「戻る」→元画面)


ドバイ⑦ 3月22日(火)夕刻

自由時間を楽しんだ仲間が、買い物の包みをさげて集まってくる。ドバイ観光の最後は、「噴水ショー」だ。開始の時刻には、観光客がモール内の人工湖の岸辺に押し寄せて、立錐の余地なしの混雑になった。ごった返す歩道に「立入禁止」の札があり、赤い絨毯が敷かれている。その先に高い観覧席が設けられているから、なにやら偉い人物が訪れるのだろう。テレビ局のクルーが器材を据えて待っている。

噴水ショーの演出は見事だった。ラスベガスの噴水ショーを手がけた同じ人物(名前は忘れた)によるものだ。音楽に合わせて、噴水が高く低く、右に左に踊っている。まるで、舞台の華麗なバレリーナのように身体をくねらせている。噴水の生き物のような動きに合わせて、赤・緑・青の光線が追いかけていく。歓声と感嘆の声が、あちこちであがった。

噴水ショーが終わるとまもなく、ツアーに問題が起こった。
添乗員が念を押した集合場所に、戻ってこない男性がいたのだ。生憎、男性の夫人は、午後の観光を休んで、船に残っていたので、様子がつかめない。

次第に人の姿が少なくなった岸辺を、仲間が手分けして探し回ったが、30分経っても見つからず。すでに予定の夕食の時刻が過ぎているし、船へ戻るバスも道路に長く駐車できない。結局、「船の名前を言えば、タクシーでなんとかできるでしょう・・・」と、添乗員とガイドが集合場所に残って、ツアー仲間だけで船に帰った。

ところが、不明の男性は、集合場所を間違えて、誰も現れないのでタクシーで船に戻っていた。噴水ショーの写真を撮ろうと、動き回って場所がわからなくなったらしい。無事を知ってホッとし、「あの混雑では起こり得ることだ」と、同情した。だが、その先の話があった。

疲れ果てたツアー仲間の一人がレストランへ行き、この夫婦が食事をしている姿を見つけたのだ。「もう帰っていたの?」と近づくと、男性は自分の落ち度を棚に上げ、「添乗員が先に帰った」と、不満をぶちまけたらしい。
それを聞き咎めた仲間が、「あんたが悪い。人の話をちゃんと聞いていないから、他の人に迷惑をかけ、みんなが食事時間にも間に合わなかった」と、諌めたという。翌朝、その顛末を聞き、「よくぞ言ってくれた」と、内心、拍手した。
理不尽な相手に、自分の考えをはっきりと言うのは、どんなに勇気がいることか。

以後、その夫婦はツアー仲間と距離をおき、気まずい空気になった。寄港上陸の観
光にほとんど参加せず、さぞ楽しくなかったことだろう。

帰国後の成田のホテルで後泊し、この夫婦と偶然、一緒になった。
彼らが鬱屈した気持ちを抱えて旅をしていたことを改めて知ったのは、この夜だ。
「旅であんなこと言われるなんて。・・・」と、夫人は蒸し返して恨みを話したのである。「迷惑をかけて、ゴメンね・・・」と言えば済んだことだし、旅も楽しめただろうに。人間って、複雑な生きものだと、気の毒になった。

それにしても、ツアー参加の基本の基は、人の話をちゃんと聞き、時間を守ることだ。どのツアーにも時間が守れない人がいるし、説明を聞かずにお喋りをする人がいる。自分ではさして気にしていないのだから、迷惑だが・・・。

以上。旅の開始早々、それができない困ったちゃんに、困惑したトラブルの巻。

ドバイモールの賑わい




【モール通路から水族館の水槽が見える。巨大魚が遊泳している】

ドバイ⑥ 3月22日(火)午後

「バージュ・カリファ」の展望台を降りたあと、すぐ近くにある観光スポット「ドバイモール」へ歩く。2008年に完成したモールは巨大ショッピングセンターだが、水族館、映画館、スケートリンク、その他、各種の娯楽施設があって、全部を見るのは到底無理だ。触りの部分を歩いた後、自由時間には、中央ロータリー近辺で、行き交う人々を眺めたり、ウインドウショッピングをしたり。トルコから輸入のチョコレートは大人気で、店の混雑ぶりに圧倒されたり。

買い物にはとんと関心がない夫は、時間つぶしに眺めた水族館が気に入ったらしい。「巨大な水槽は世界一だってさ。日本企業が造ったアクリルの透明なものだよ。珍しい魚もたくさん泳いでいるし、感心するなあ。凄いよ」と、カメラを構えたり。帰国後のテレビ番組で、このアクリル水槽は、特殊な技術で厚さが数十センチもあることを知った。

パリのシャンゼリゼ通りやニューヨーク五番街に並ぶ高級ブティックの店舗が軒を連ね、扱う商品の質・量ともに世界一。 商品の値段も世界一で、よくぞ景気よく売れるものだ、どんな人が買うのだろうと、他人様の懐具合を思う。オイルによる好況だろうが、日本のバブル経済の頃を思い出す。

観光客には、中国系の団体が圧倒的に多い。ぞろぞろと群れをなし、声が大きいし、手荷物をいっぱい持って、モールの幅いっぱいに広がって歩く。彼らは経済的に成功した人たちなのだろうが、マナーはいただけない。どうしてこんなに騒がしいんだろう。「クルーズに、こんな中国人がいるとたいへんだな・・・」と、ふと思う。

日中は暑いので家で過ごすドバイの家族連れが、夕方になるとやってくる。小さい男の子が背広を着て、一人前の紳士然としている。「日本の七五三スタイルだ」と可笑しい。女の子も凝った民族衣装だ。アパヤを着た女性が、颯爽と裾で地面を払って歩いている。よく見ると、男女共に民族衣装の裾が長い。

女性のランジェリー専門店には、手の込んだレースのブラジャーやショーツが並び、中には、ほんの少しの面積しかない大胆なデザインもある。そうだよなあ。アラブのベリーダンスの衣装は、肉体を誇示しているなあ・・・。でもね、イスラム世界の多くは、「女性は肌や髪の毛を覆って、家族以外には見せてはいけない」と、厳格な教えがあるのに。「不思議、不思議・・・」と呟く。
ガイドに聞くと、「自宅では、開放的ですよ。精いっぱいおしゃれをします。ここでランジェリーを買うのは、お金持ちですから、なおさらでしょう・・・」と。

モールを歩いているアラブ人を見ていると、服装でほぼ身分の違いがわかる。例えば、白いターバンは公務員だし、さらに、ターバンの色で出身地が分かる。貧富の差も、想像できる。

ドバイには、「世界一」の形容詞がつくものがたくさんあって、意気込みはわかるけれど、「なんでも一番」を主張する子供っぽさも伝わってくる。お得意なんだろうなあ。ドバイの街は発展途上にあり、まだまだ変貌を続けて、世界一が増えることだろう。

ドバイ観光初日は、見るもの、聞くもの全てに好奇心が掻き立てられ、アラブ社会を覗く入口になった。ついでに、Tさんから聞いた話などを記録しておく。

ビルや道路の建築に携わる労働者の大半は、インドやパキスタンからの出稼ぎで、安い賃金で働いている。移民に頼っている労働事情は、多くの先進国でも見られ、多くの問題が潜在する。ドバイの繁栄の背後にも、出稼ぎ労働者の厳しい生活があるという。
これらの出稼ぎの労働者に、世界中からやってくる背広姿のエリートビジネスマンを加えると、ドバイに住んでいる人の80%は、外国人だとか。
残る20%が、UAE国籍を持つ公務員とその家族で、ドバイの街全体の女性人口は30%足らず。
ドバイの居住者の偏りは、そのまま貧富の差を現している。急激な変化を遂げる都市は、一握りのエリートが舵をとり、肉体労働者を含めて、男性中心の社会構造で成り立っている。

砂漠の中の人工都市ドバイでは、100年、200年先を見据えた都市設計が進行している。1966年に発見された石油資源のお陰で、近代都市へと変貌著しいが、石油資源にも限りがあるから、外国企業の誘致と優遇策を積極的に展開している。
背広姿のエリートビジネスマンが活躍しているのも、世界の金融市場の役割を担って急成長しているのも、長期的な都市設計の具体的な姿だと納得。

2012年3月24日土曜日

バージュ・カリファ展望階で思う






【バージュ・カリファ展望階から、北西・海岸方向を望む】

ドバイ⑤ 3月22日(火)午後

昼食後、現代ドバイの勢いを象徴する「バージュ・カリファ」へ出かける。2004年に着工し2010年1月に完成した。高さ828メートル、世界一を誇る建造物だ。人気の観光名所だから、現地の旅行社が手配しても、なかなかチケットが手に入らない。「前売りは30ドルです。当日券だと100ドルですが、チケットを買うだけで1日かかり、短い滞在ではせいぜい外から仰ぎ見るだけですね」という。入口には、入場を待つ長い列とチケットを買う人々が溢れている。

展望階に登る前の日本人ガイドTさんの解説は、悔しさの心情が漂って、印象的だった。官民一体となった韓国のサムスンが、「バージュ・カリファ」の建設入札で圧倒的に強かった。日本はある大手企業が入札したが、そもそも、金額的にも、競争力という面でも、お話にならない形でダメだったと。

入口から塔の展望階に登るエレベーターまでの長いアプローチの壁に、時間待ちをする入場者が、否応なしに眺める写真が続く。建設に携わった人たちの大きなパネルだ。延々と、自信に満ちた笑顔と韓国人の名前が並んでいる。

展望階は、建物のほぼ真ん中、高さ442メートルの124階にある。エレベーターで2分弱、あっという間に着く。東西南北360度の視界が広がっている。怖々とガラス越しに眼下を見下ろす。

広い敷地に花々が咲き乱れ、樹木の緑が溢れる大邸宅や、設計を競った近代的なビルが点在している。人工の大きな池がある。その間を縫って、高速道路のカーブが延びている。昼食を食べたレストランのあるパレス・ホテルが見える。食後に散歩した庭園内のプールが輝いている。遠くのアラビア湾沿岸には、古くからの人家が密集している。

もとは大半が砂漠だった土地に、ドバイという都市が出現した様子を想像した。
水路を引き、水を確保した場所は贅沢な空間だが、水の乏しい場所は、たちまちに生命を拒絶するような、荒々しい自然が広がっている。

これらを眺めながら、周辺の開発地域は、ドバイの現在と未来を象徴している場所だと感じた。気候や風土は変わらないのに、人々の暮らしが日々変わっていく。厳しい条件の砂漠をも変えるオイルの力に圧倒され、一方、小さく見える眼下の風景が箱庭のように見え、それが、「砂上の楼閣」という言葉と、一瞬、重なった。
展望階を歩きながら、改めて思った。

夢の近代都市実現のために、韓国企業が挑戦した投資のしたたかさと凄さ。それらをはるかに超えて獲得した韓国の評価は、世界で活躍する宣伝力となっているに違いない。格好の舞台での日本の現実は、実力を発揮する機会すらなく、いまや追いつくことができないほど遅れているのではないか。

欧米で見聞きする日本人のプレゼンテーション下手(実力の乏しさに繋がっているのだろうが)をもどかしく思い、先の見通しの厳しい日本経済、さらには現在の政治の姿を嘆きながら、気持ちが落ち込んでくる。
土地に馴染んだガイドならずとも、少なからず、悔しい気持ちになったのだった。外国に出ると、期せずして愛国者の心境になる。

2012年3月23日金曜日

いよいよ、船上生活開始




【ドバイ港で乗船を待っていたコスタ・ルミノーザ号】

ドバイ④ 3月22日(火)

船上第1夜。緊張がほどけ、観光で疲れていたせいか、熟睡した。

4時半に目覚める。朝焼けの雲と海、漁から帰ってくる小舟、早朝から活動している船員・・・。バルコニーで潮風に吹かれながら、穏やかな朝の時間を過ごす。

7時、外国で食べる和食への興味から、レストランの日本食コーナーへ。
冷凍のサーモンの握り寿司は解凍し切れていないので、冷たくパサついている。パック入りのそば汁を添えた茹で過ぎのお蕎麦。ご飯で作ったお粥は糊の食感だ。インスタント味噌汁のパックのそばに、お湯のポットが置いてある。なぜか中華ソバや中華風野菜炒め、シュウマイも並んでいる。脂っこい。日本も中国もアジアだからと、考えたのだろうか。後になって、顔見知りになったレストランのボーイから、イタリア人コックが、初めての和食担当になって準備をしていると聞いた。
少しづつ味わい、物珍しさが先の「これが和食?」という体験だった。

翌日から和食コーナーを敬遠し、ヨーロッパスタイルのビュッフェで食べることにする。サラダのドレッシングの種類が多いし、国や民族特有の味付けの料理が多彩だから、好奇心は満たされる。やがて「塩・胡椒のシンプルな味がいちばん・・・」となり、食欲や味覚の老齢化?と好奇心の衰えを自覚。そんなとき、日本の旅行社が持参した佃煮・海苔・漬物をお目当てに、デザートと称して、日本食コーナーにときどき立ち寄った。

9時、ストレッチのプログラムに参加するために、9階の甲板に行く。寄港・上陸観光の日を除いて、朝の運動を日課にし、だんだんと顔馴染みができて交流の場となる。観察するところ、船上生活の様子には、日中楽しむ元気なタイプと、夕食後から俄然賑やかになるタイプがいて、面白い。

10時、日本人対象のクルーズ生活のオリエンテーションに参加。
コスタ社は、今回のクルーズ参加のわずかな日本人のために、日本人コンダクター(ふみこさん)を乗船させ、今後のクルーズ利用の宣伝も兼ねているとのこと。通訳を通す説明よりきめ細かい。
昨日、すでに挨拶を交わしていた参加者全員が、正式な自己紹介をする。
11名のうち6人が、戦中の国民学校から戦後の新制中学の1期生となった世代だから、共通の時代体験で盛り上がる。最年長は大正14年生まれの85歳。お互いに、「元気だから、旅を楽しむことができる」と頷き合い、健康でやりたいことができる幸せを話す。その後、船内ツアーをし、これから利用する施設を巡りながら、場所を確認。特に女性の期待が大きかったのは、エステサロン・マッサージ室。男性はスポーツジム・サウナ・バー・カジノに関心を見せる。

「コスタカード」の申請手続きもする。船内では一切の支払いをこのカードでするので重要だ。早速、ビールの回数券と無線LANのカードの入手に使う。船内では、ビール1本は5、75ユーロだが、20本の回数券は82、8ユーロ(1本当たり4、14ユーロだからお得)。無線LANの接続は3時間で24ユーロ。コスタカードを使うたびに記録され、下船前日に請求書が届く。船上では現金必要なしで、便利な仕組みだ。

余談になるが、中東のビールの値段は高い。かえってワインの方がお手頃の値段だから、旅行中の食事にはワインを、ビールは喉の渇きをなだめる水代わりになった。

2012年3月22日木曜日

ドバイの昔の暮しの知恵




【近代化以前のドバイの住居の室内】

ドバイ③ 3月21日午後

昼食後、ヘリテージヴィレッジ、バスタキア歴史保存地域へ向かう。

長い地下トンネルをくぐり抜けると、目の前の港に大型客船が停泊し、コスタ社のシンボルマークの黄色い煙突が見える。「もしかしたら、あの船に乗るんじゃない?」「そうなら大きいねえ」と話していると、「皆さんは、あの船に乗りますよ」との声。ルミノーザ号だ。

バスタキア地域は、元々、イランのバスタキアから来た人々が住み着いて地名になり、今でもイラン系のコミュニティがある。その一角に、ドバイが近代化する以前の建造物が保存され、庶民の暮らしの歴史遺産となっている。いつ頃から、誰が考えたのか、長い年月の生活の知恵が凝縮され、「こんな工夫をして暮らしてきた」と感心する。生きる知恵は素晴らしい。

ベドウインのテントで、3人の女性が料理のデモンストレーション中。出来上がった食べ物が売られている。彼女たちは、鳶のくちばしのような珍しい形の黒いマスクをしている。マスクと黒いベールを被った顔は、目だけが動き、ちょっと不気味だ。今では地方の老人だけに残るスタイルで、砂漠の砂塵を防ぐためだとか。
「日本の月光仮面や、カラストンビですなあ。これを見たら、子どもは真似して喜びますよ・・・」と感想が漏れる。
かんかん照りの太陽の下で、2人の男性が振舞うチャイを飲みながら、ハーブの仄かな香りの広がりを味わう。午後のこんな時間に訪れるのは、かなり酔狂と感じながら・・・。

次に訪れた「ドバイ博物館」は、元々、18世紀に造られた砦で、代々の首長が住んだ。先代の首長が「ドバイの歴史を保存するための博物館を」と改装に着手。砂漠生活の記憶が、具体的に時代ごとの品々で展示され、ドバイの歴史の変遷がわかって、面白い。

「ここに立ってみてください。涼しいでしょう」と博物館の案内人に言われ、順番に部屋の中央に立つ。 外気温はすでに50℃を超えて、ジリジリと干上がる感じだが、屋内は、”風の塔”からの風でそれほどの暑さではない。東西南北から吹く風が巧みに室内に取りこまれ、クーラーになっている。暑さと乾燥を防ぐ工夫が、ナツメヤシで造られた家の随所に見える。誰が、どうやって、この仕組みを考えたのだろう。
部屋の隅の大きい甕。砦を守るために井戸を掘って汲みあげた水を入れ、汚れを濾して、冷していた。今は都市部では海水を浄化する施設ができ、水の確保は楽になったが、地方では未だに甕は現役だという。水を得ることが、生きるための知恵だったと痛感する。
壁いっぱいに、ギターの原型になった大小の楽器・ウルドが並んでいる。この音色に乗ったアラブのベリーダンスの風景が、浮かんでくる。所詮は、男性の楽しみのため?の楽器か。

外に出ると、 骨太の大きなダウ船が鎮座している。海外交易に活躍した名残だ。
ラクダが杭に繋がれて、恨めしげな上から目線で、通る人を見下ろしている。
意外だったのは、御木本幸吉が成功した養殖真珠で、ペルシャ湾の真珠を扱う漁師が打撃を受けたことだ。以前、この辺りの海では真珠産業が大きな収入源だったが、日本の真珠輸出に対抗できずに寂れたと知った。庭には真珠産業で使われていた道具が、無造作に置かれている。
展示品を眺めながら、その背後にあった暮らしと時代を知り、この辺りへの想像が広がって行く。博物館の良さを満喫した時間となった。

4時半ごろ、波止場へ。「コスタ・ルミノーザ号」は、思っていた以上の巨体だ。「あんまり大きいと、乗船中の冒険がいき渡らないなあ。ほどほどがよろしい」と言いながら、仰ぎ見る。乗船手続きをし、20日間の我が家となるキャビン「8377号室」にチェックイン。

すでに運ばれていたスーツケースを開くのは後回しにして、カメラとビール缶を持って、バルコニーへ出る。両隣りの夫婦がデッキの手すりに寄りかかって、ビールを飲んでいる。目が合うとお互いに缶をあげて、「チュース」「チャオ」「カンパーイ」と、挨拶。夕陽に輝く小さな波。目の前に群がるカモメたち。急ぎ足で搭乗口へ歩く人々。クルーズへの期待が膨らんで来る。

初日から盛り沢山の観光で、ほんとうに長〜い1日だった。
夕食後、これから過ごす部屋の設営をして、早めに就寝。

2012年3月21日水曜日

スークで庶民の暮しを垣間見る






【アブラ(渡し舟)でクリークを渡り、スーク(市場)へ】


ドバイ ② 3月21日(月)午前

海岸沿いの道路(E11号線)を走っていると、興味を引くものが次々に現れる。ガイドの説明を聞きながら、眺めるのも、けっこう忙しい。
「あそこが、ドバイ・メトロの入口ですよ」と聞いたときには、すでに通過している。メトロは、三菱商事・大林組・近鉄車両の共同で、2009年秋に完成。完全自動のハイテク鉄道で、もちろんUAE内では最初だ。すでに日本企業200社が進出し、技術力が評価されて、UAEの近代化に貢献している。ダウンタウン・ドバイの辺りは、高く天を突くビルディングが林立し、最近まで砂漠地帯だったと想像するのが難しい。

かつて交易の中心だったドバイクリークで、観光バスからアブラ(水上バス・渡し舟)に乗りかえて対岸へ渡る。わずか5分足らず。クリークの上流に架かる橋を利用すると30分以上もかかるから、アブラは住民の重要な足だ。たくさんのアブラが、ひっきりなしに、競争するように往来している。乗客はアブラの中央を背に座って、のんびりと水の動きを眺めている。

「この辺りは興味深い地域で、午後にも近くまで来ます。市場(ドバイ・オールド・スーク、スパイススーク、ゴールドスーク)を歩き回るのは、日中は暑くてたいへんですから、涼しいうちにご案内しましょう。観光客や地元の人が繰り出す前の混雑も避けたいのです」と、ガイドは言う。

まずは波止場近くのドバイ・オールド・スークへ。「スーク=青空市場」に屋根があるのは、雨除けではなく、日差し除けだ。足を踏み入れると、混沌のるつぼを思わせる光景が広がっている。思わず「すごいよ・・・・」と、目を見張る。家具や台所用品。ガラス玉やビーズをあしらったサンダル。帽子やスカーフ。それらがうず高く積み上げられている。鮮やかな色彩の大胆な模様の布地がぶら下がっているし、大ぶりの装身具がところ狭しと並んでいる。なにに使うのか、得体の知れないものもある。 次第に、あまりにも雑多な品々に圧倒されて、「もう、たくさん」の気分になって来る。彼我の民族の、生きるエネルギーの差だろうか。

開店したばかりの店先では、人待ち顔の男性がお喋りに興じ、人が通ると営業用の笑顔を見せ、さかんに誘いの手を振る。通り過ぎると、お喋りに戻って行く。トルコやパキスタンなどのイスラム圏への旅でも見かけた共通した風景だ。

この一角のスパイス・スーク(香辛料市場)では、長年懸案だった”乳香”の実物を、初めて見た。新約聖書には、イエス・キリスト誕生を祝う東方からの三博士が、乳香・没薬を捧げたとある。店先に、仄かな香りが漂よっている。白い物体に火をつけて燻している。その香りだ。「欲しいわ」「買ったら・・・」と言いながら、夫婦して持参のドルは安全のために懐深くにあり、直ぐに出せない。現地の通貨以外はドルだけ使え、「ユーロならあるのに・・・」と諦める。残念。

ハイビスカス・オレガノ・バラ・ドライレモン・サフラン・・・。ナツメヤシなどのナッツ類、イチジクなどの乾燥果実が、大きい籠に山盛りになって並んでいる。砂漠の広がるアラビア半島は暑いし、乾燥している。香辛料は生活から生まれた知恵で、各種の飲料水やアラブ料理に使われる必需品なのだ。

香辛料の鮮やかな彩り、商人を含んだ店の佇まいは、格好のカメラの被写体だ。買物そっち抜けで、シャッター音が響く。いろんな香りが混じって、なんとも言いようのない特有の匂いは、記録に残らないけれど・・・。

「ゴールド・スークでは、刻々変わる世界の金の値段で量り売りしています。デザインはお好み次第で、売買の交渉の余地は十分ありますよ。アラブ系民族は金が大好きで、このスークに買いにきます。目的の買いたいものがあれば、お買い得かもしれません」。すかさず「旅の始まりに大金を使ったら、この先が続きませんなあ」と、笑いを誘う者あり。「だれが、こんな大きなキンキラキンを首に垂らすのかしら? 肩凝りしそうだわね」「趣味の問題・・・」などと言いながら、全員、見るだけ〜のウインドーショッピングをする。

ジュメイラ・モスク前など、カメラストップをしながら、昼食場所の「パレス・ホテル」のレストランへ。あまり食欲がない。刺激的なスークの毒気に当てられたのだろう。「観光は始まったばかりなのに、先が思いやられる」と呟きながら、甘いデザートと果物を選ぶと、夫は「まともなものを食べないと、ダメだよ」と、厳しい目で覗き込む。よく食べ、よく飲み、よく動く元気おじさんは、2人分、食べたから、バランスがとれる。

2012年3月18日日曜日

人工都市ドバイへ到着






【到着後、朝食を食べたグランド・ハイヤット・ドバイ・ホテルのロビー】

ドバイ① 3月21日(月)
4時50分、夜明け前の闇を切り裂くような轟音を響かせ、エミレーツ航空EK319便がドバイ空港に降り立った。

コントロールカウンターへ向かう乗客が、疲れきった寝不足の表情で歩いている。
3月11日以後の日本全体が、特に子どものいる家族が、原発事故の底知れぬ厳しさにおののいてきた。乗客の誰にも、原発事故から逃れて遠くにやってきたという安堵感と、日本を離れた屈折する気持ちがない交ぜになっている。旅の始まりの華やいだ気分からは、まだ遠い。

入国審査を終えると、ガイドのTさんが待っていた。日本人だが、民族衣装の黒のアパヤを着ている。イスラム教徒なのだろうか、あるいはガイドの制服なのか。
「トイレは大丈夫でしょうか? その後、バスが来るまで、お目覚めのコーヒータイムをとります・・・」。
ドバイ到着が現実味を帯び、好奇心のスイッチが入って、次第に元気になって行く。

スーツケースをガラガラと引きながら、華やかな色彩に溢れるタックスフリーの商店街を通り、真昼の都会を思わせる明るい一角を歩く。早朝なのに、右往左往する人々が喧騒を撒き散らしている。

Tさんの案内で、朝食場所の「グランド・ハイアット・ドバイ・ホテル」へ。
ホテルのロビーに入ると、まるでアラビアンナイトの世界へ誘われる錯覚を起こした。もっとも、UAE(アラブ首長国連邦)の中でもドバイが例外的な都市であり、近代的なホテルはその象徴的な部分だと、だんだんわかってくるのだが・・・。
天井まで吹き抜けのレストランには、観葉植物の緑が溢れ、ジャングルのようだ。壁を伝って流れる水が人工池に注いでいる。噴水が飛沫を散らしている。なんとも豪華な雰囲気の中での朝食だ。バイキング料理は洗練され、もちろん美味しい。目移りしてどれにも挑戦したくなるが、到底無理。お互いに評論家気分で味を披露し、賑わう。

食後、てんでにホテル付設の庭園を歩く。樹木の緑、草花の鮮やかな紅や紫が溢れ、愛らしい小鳥の囀ずりが響く。朝の8時前なのに、早くも東屋で寛ぎ、プールで泳いでいる人々がいる。たくさんの庭師が、ブーゲンビリヤやペチュニアの花柄を摘んだり、散水したり、小径の草取りをしたり、手入れに余念がない。空港とは対象的な、魔法がかけられたような静謐な別世界だ。
朝食の体験は、想像の域にあったUAEの姿を理解する導入部になった。観光が進むにつれ、ドバイは、アラブ世界の別格な存在で、聞きしに勝る近代都市だと痛感した。

思い出す。 1年前、次男夫婦が新婚旅行先に選んだのが、ドバイだった。
「なんでドバイなの?」
「ビジネスをする上では、興味がある土地だよ」。
そんなやり取りをしたのだが、不肖の親は時代の動きに疎かった。 意外に早く、クルーズの乗船地として訪れる機会がやってきて、若い夫婦が新婚旅行先に選んだ理由が、やっと理解できた。わずか半世紀足らずの歴史なのに、近代化の夢と希望を実現するエネルギーが溢れて、眩しい印象だったのだ。

ドバイに到着した日、船にチェックインする前に、観光バスでドバイの新市街・旧市街の名所を巡り、ツアーならでの観光のさわりを効率よく回った。カメラ・ストップしたり、下車して歩いたり。 それぞれ面白く、異文化への興味は尽きず、だがイスラム教への疑問は解けず、かえって中東世界への関心が増えた。 歴史が刻まれた砦跡の博物館と、石油以前のドバイの暮しを再現したヘリテージビレッジは、特に印象に残った。

2012年3月13日火曜日

前泊 3月19日、異常事態の旅立ち

自宅を出てから成田空港までの道程は、異常だった。

崩れた大谷石の塀が、道に迫り出している。たくさんの家屋がブルーシートで覆われ、揺れの激しさを留める傾いた家の数々。

茨城東インターで北関東自動車道に入ると、前方にも、後ろにも、車がまったくない。崩れた法面(のりめん)や路肩に置かれたフェンス。応急補修の跡が新しい亀裂の走る道路。次々に現れる段差。時速50キロ制限の表示・・・。車はガタンガタンと弾みながら走った。「こんな時期にドライブするなんてね・・・」と、夫婦して自嘲気味に話す。

地震発生の数日前に、ガソリンを給油していた。地震直後は給油は大変だった。早朝スタンドに列ができ、半日がかりでやっと半量程度入れてもらえる。旅行直前にそこまでの苦労はしたくなかった。成田へ出かける前に給油してもらうつもりだったが、諦めた。すでに半分近くは消費している。給油ができなかったから、成田まで行きつけるのか、不安が募る。「多分、ホテルの駐車場には辿り着けるだろう」と夫は言う。楽天に傾く夫と、心配性の妻の取り合わせでたいていのことはバランスが取れるのだが、地震後には通用しなかろうと、心配になる。高速道路だからスピードを出したいけれど、道路状況はそれどころではない。燃費効率のよい低速(時速50km前後!)で走り続けた。

常磐道に合流した途端、福島県のいわきナンバーの車が急に増え、普段よりも多い。満載の荷物のなかに人が縮こまっている。いわきは原発事故の影響が大きいから、脱出する家族に違いない。

圏央道に乗ると、再び車の数が減った。道路沿いにあるアウトレットは、いつもなら買い物客と車が溢れているのに、人影ひとつない。地震後の日常の想像を絶する姿が迫ってくる。壊滅状態の第二次世界大戦後の復興を生きてきたけれど、原発事故を重ねあわせると、それを超える打撃になると感じた。

前泊するホテルに到着すると、危険箇所の点検のために、主要高層部分の灯りが消え、閉鎖されている。極端に利用客が減って、大半の従業員は自宅待機中だという。経営陣と思しき年配の男性が受付をしていたが、それでも人待ち顔で暇そうだ。専門のレストランはすべて閉鎖され、唯一ビュッフェのみ営業中。食料調達難で涙ぐましい調理の跡がうかがえ、食べられるだけでもありがたかった。ホテルは、まるでゴーストタウンの雰囲気に包まれていた。

翌日の成田空港も常ならぬ雰囲気だった。出発ロビーは暗く閑散としている。エミレーツ航空ドバイ行の列は長いが、カウンター前の手続きをする乗客の表情は硬く、ほとんど無口だ。空港特有の賑わいはなく、人々の旅立ちの高揚感は影を潜めている。地震前にツアーを申し込んでいた日本人は、キャンセルが多かった。
代わりに、日本人と外国人の国際結婚のカップルと幼い子どもを2・3人伴った家族や、急遽帰国するビジネスマンが目立つ。モロッコなどの地中海沿岸諸国へ、アフリカ大陸の南へ、イタリアなどのヨーロッパへと乗り継ぐ乗客が大半で、ドバイが、ハブ空港として重要な役割を果たしていることを知った。ドバイまでのフライトは、普段見かけない乗客でほぼ満席だった。中でも幼い子ども連れが目立つのは、紛れもなく家族揃った日本脱出に違いなかった。

さらに帰路に話を飛ばすと、ドバイ発成田行のエミレーツ航空機は、外国人が日本訪問を敬遠し、半分近くの空席が目立った。地震や津波、原発事故の大災害の打撃は、被災現地だけにとどまらないのだ。人々の往来が落ち込み、あるいは物流が絶たれ、経済的にも計り知れない。帰国の頃には多少は落ち着いているだろうと期待していたが、未だ日本全体に深刻な事態が続いていることを実感した。

2012年3月11日日曜日

旅の行程





・・・・・・・・(画像をクリック⇒別画面に拡大図)・・・・・・


私たち夫婦が参加したのは、「コスタルミノーザでゆくドバイから地中海へ。スエズ運河通峡の船旅」の企画だ。UAEのドバイで乗船し、下船はイタリアのサボナ。途中、寄港しながらアラビア半島を巡り、紅海を北上してスエズ運河を抜け、地中海へ。その行程を書いておこう。地図を参照してご覧ください。


前泊 3月19日(土)
1日目 3月20日(日) エミレーツ航空機(EK319)にてドバイへ
2日目 3月21日(月) 早朝4:55 ドバイ着、午後ルミノーザ号へチェックイン、港に停泊

3日目 3月22日(火) ドバイ観光(シュメイラモスク・ドバイ博物館・スパイススーク・ゴールドスークなど)、夜半24時出港

4日目 3月23日(水) 8:00 アブダビ(UAEの首都)に寄港、観光(シェイクサイードグランドモスク・エミレーツパレス・ヘリテージビレッジなど)、夕刻出港

5日目 3月24日(木) 9:00フジャイラ( UAE)寄港、観光(フジャイラ要塞・フジャイラ博物館・バディヤモスクなど)、夕刻出港

6日目 3月25日(金) 8:30マスカット(オマーン)寄港、観光(マトラスーク・グランドモスク・王宮・ミラニ&ジャラニ要塞など)、18:00出港

7日目 3月26日(土) 終日航海
8日目 3月27日(日) 8:00サラーラ(オマーン)寄港、観光後夕刻出港
9日目 3月28日(月) 終日航海
10日目 3月29日(火) 終日航海
11日目 3月30日(水) 終日航海
12日目 3月31日(木) 終日航海
13日目 4月 1日(金) 8:00サファガ(エジプト)寄港、観光(ルクソール神殿)後23:00出港

14日目 4月 2日(土)10:00アカバ(ヨルダン)寄港、観光(ペトラ遺跡)、24:00出港

15日目 4月 3日(日)7:00エイラット(イスラエル)寄港、観光(マサダ要塞・死海など)、20:00出港

16日目 4月 4日(月) 7:00シャルムエルシェイク(エジプト)寄港、観光(シナイ山麓の聖カテリーナ寺院など)、夜出港

17日目 4月 5日(火) 終日航海でスエズ運河通峡
18日目 4月 6日(水) 終日航海
19日目 4月 7日(木) 終日航海
20日目 4月 8日(金)8:00ナポリ(イタリア)寄港、観光(博物館など)、13:00出港
21日目 4月9日(土)9:00サヴォナ入港、下船しミラノ空港へ、15:30発のEK094でドバイへ、23:35ドバイ着

22日目 4月10日(日)2;50発EK318で成田へ、 成田着17:35、後泊
23日目 4月11日(月)水戸の自宅へ帰る


今回の総航行距離は5007海里、およそ1852キロメートルになる。その間に10の港に上陸し、終日航海の日が8日あった。行程の概略を上掲の地図で紹介し、寄港地での上陸・観光と船内活動の様子は、後述の日記に書く。

2012年3月10日土曜日

3月11日、東日本大震災発生

地震と大津波、東京電力の福島原子力発電所の想像を絶する事故。
水戸のわが家は家屋倒壊こそ免れたが、棚から飛び出した書籍や食器が散乱し、ガラスの破片を避けて靴を履いたままの生活になった。地下室に保存していたアルコール類やその他の瓶などが壊れ、液体が床一面を覆った。停電・断水・ガスの供給ストップに加え、当たり前であった日常生活が狂った。海賊だのと暢気に話していたことは吹っ飛んでしまい、旅行どころではなくなった。

強い余震が連日続き、その度に食卓の下に潜った。ゴチャゴチャ状態の家を片付ける気力も失せた毎日。食料がない。ガソリンがない。物不足で行列に並んだ戦後の記憶が蘇った。文明社会の暮らしが、如何に脆いかを嘆きながら、生命がありさえすれば、”なんとかなるだろう”という考えが、”なんとかしなくては”と変わった。

不安が募るそんな状況のときに、旅行社からクルーズの最終的な連絡があった。
刻々と報じられる被災地の惨状、亡くなった人々、生活基盤を根こそぎ失った被災者を思うと、気持ちは複雑に揺れた。一方で、クルーズに出かければ、当面の食べ物の心配がなく、ありがたいとも思った。

冒頭に、”得難い旅となった”と書き出したのは、こうした状態で旅立ったからだ。「喜寿記念」が「日本脱出」へと変わった。

気持ちの底に得体のしれない不安を抱えながら、束の間、日本の現実から逃れ、「竜宮城の浦島太郎」よろしく、クルーズを楽しんだ。共に過ごした外国人との語らいから、日本の大災害の姿を客観的に見直す機会ともなったのだ。

以下は、2011年という記憶に残る年の、得難い記念の旅の記録である。



-- iPadから送信

アラビア情勢の急展開

ところが、以前から不穏な動きがあったイスラム圏の国々で、政治情勢が急展開した。チュニジアのベンアリ政権が崩壊し、続いてエジプトのムバラク政権も倒れた。この段階で、中東情勢の不安定を危惧して、船会社は寄港地を変更。イエーメンやエジプトには寄港せず、代わりにヨルダンやイスラエルが加わった。

「陸地での移動ならデモに巻き込まれる危険があるかもしれないけれど、海上の船までデモは押し寄せないよ。危なければ、海上を漂っていればいい」

「でも、イエーメン沖にはソマリアの海賊が跋扈してるでしょ。獲物がやって来たと狙われる恐れはあるんじゃない? 飛んで火にいる夏の虫だわ」
「大型客船にハシゴをかけてよじ登るのは苦労するよ。でもね、海賊が成功すれば3000人前後の乗客がいるのだから、大儲けだろうな。タンカーの喫水線は低いし、乗組員は少ない。海賊の襲撃の成功率は、そちらのほうがずっと高いと思うけれどな・・・」。

よくぞ無責任な、ノー天気な気分だったことか。

「エジプトが抜けるなんて、いちばんのお目当てだったのになあ」と残念だったが、アラビア半島を巡ってスエズ運河を通るクルーズへの期待と魅力は大きかった。船長の判断を信頼しようと、出かける気持ちはますます募った。

躊躇して先延ばしするよりも、先ずは具体的に考えて動く。そうすれば、次が見えてくるし、なんとかなる。申し込みから3ヶ月経ち、すでにキャンセル料金が高額だという現実的な判断もあった。

アラビア世界を回航ルートで巡る船旅

何度思い返しても、このクルーズは、得難い旅だった。

2010年の晩秋、馴染みの旅行社のパンフレットで、「回航ルート」のクルーズの案内を読み、心が動いた。寒い季節にインド洋を舞台に、ペルシャ湾やモーリシャス・セイシェル方面をクルーズしていた船が、夏前に、地中海のクルーズのために、移動する。これが回航である。

実は、パンフレットを読む2ヶ月前・2010年秋に、「西ヨーロッパ周遊の船旅」という「回航ルート」クルーズを初めて経験したばかりだった。 春から夏にかけバルト海と北海の観光クルーズを展開している船が、秋から冬には地中海で活動するため、年に1回、移動する「回航ルート」だった。コペンハーゲンで乗船し、バルト海・北海・北大西洋と南下して地中海に入り、イタリアのジェノバで下船。思い出すたびに「いいクルーズだったね」と、夫婦して、予想外に満足していたのだ。

かつて訪れた陸地を海から眺めながら、「ここをバイキングも辿ったのだ」と、多くの民族の交流に思いを馳せた。切り立つ岩肌に守られた入江を眺めれば、中世都市の繁栄と商業活動を担った荷を積んだ船の往来が目に浮かんだ。

夢想が止めどなく続き、ヨーロッパの密接な地理的なつながりと歴史などを改めて考えた。船上にいながらにして、なんと多くのことが理解できたか。

「回航ルート」のクルーズは、通常のルートとは違い、めったに経験できないルート沿いの観光を効率よく訪れることができる。船会社にとっても、単なる移動の航海より、観光客を乗せた方が儲かるし、乗客にとっても旅行代金がサービスされて、極めて便利な企画だ。

「来年は、数えにしても、実年齢にしても、要するに夫婦で喜寿を迎える。アラブ世界を訪れたことがないし、記念旅行になるんじゃない?」と妻。「回航ルートは魅力的だけどなあ。出かけたばかりだよ。あんたさんが申し込み手続きその他の全てをするのなら、いいけれど・・・」と夫。 こうして、今までの立場逆転で申し込みを済ませ、順調に時間が過ぎていった。


ブログを始めた

2012年3月10日。アクのブログに寄生した形から、独立することになった。
夫のPC関連の興味が変わり、ブログから次第に離れたので、寄生することが無理になったのだ。原稿として保存をした旅行記が永遠に陽の目をみない。自分でブログを始めるより方法はない。

先ず、昨年春の東日本大震災後の混乱中に出かけた旅を、書く。

『コスタルミノーザでゆくドバイから地中海へ、スエズ運河通峡の船旅』
「2011年3月20日(日)から4月10日(日)(前泊・後泊を加えて24日間)