2012年4月30日月曜日

厨房見学、下船準備など

最後の終日航海 4月7日(木) 旅の19日目

最後の終日航海の日。高揚したクルーズの日々が、もうすぐ終わる。
船上の時間がどんどん過ぎて、ドバイ出航はずいぶん前のように感じる。
気が緩んだのか、咳がひどくて風邪気味なので、薬を飲み、休養を心がける。

9時過ぎから30分間、特別の計らいで、日本人限定の厨房見学へ。
毎日、3000人前後の乗船客を想定し(寄港地によっては、そこで新しく乗船したり下船していく客がいる)、国別や宗教別の割合と、特別食が必要かどうかをチェックするとか。
ドバイで主要な食材を仕入れ、新鮮な野菜や魚の食材は、寄港地毎に調達している。厨房の巨大な冷蔵庫が目に付く。

すでに昼食の準備が始まっている。パンが焼きあがり、香ばしい香りが漂う。野菜が次々に刻まれ、大きなステンレスのパッドに入れられて、冷蔵庫へ。

肉を切る人、魚をさばく人、使い終えた大きい鍋を洗っている人。役割分担が決まっていて、じつに手際がいい。
皿は1日3万枚使うので、皿洗い機が威力を発揮している。グラス類の洗浄も機械にお任せだが、種類毎に仕分けして、何カ所もあるバーに運んだりする作業もある。

厨房で立ち働く人は、白か黄色のバンダナ(ネクタイ?)を首に巻いていて、責任や経験の違いを区別している。船会社と半年から1年の契約をして採用され、原則として、途中で下船はできない。クルーズの裏方を支える過酷な労働を垣間見る。

続いて、下船に備え、日本人スタッフの文子さんの説明会へ。
キャビンのある階と下船後の行き先別に、荷物につけるタグの色が違うこと。
その色が、下船時の集合場所の色になっていること。その他。
「くれぐれも忘れ物がないように、クローゼットや棚、金庫を確認してくださいね」と、サボナ港下船までの細かい注意を聞き、クルーズの終わりを実感。

デッキに出ると、気温が低く、風が強くて吹き飛ばされそうだ。揺れに怖気づいて、早々とキャビンに戻る。

テレビをつけると、1時間ほど前に、仙台や水戸で余震があったと報じている。震度6強、マグニチュード7、4・・・。相変わらず、かなりの頻度で地震が続いている。毎日、BBCニュースが日本の話から始まるなんて、珍しい。それだけ、世界にとっては、強烈な衝撃で、特に、福島原発事故は、深刻な事態だ。

顔見知りになった外国人から、「日本の地震は、たいへんだなあ・・・」と声をかけられ、必ず、「フクシマの深刻さ」に同情される。その度に、たちまちに旅立ちの時点に引き戻され、気分が落ち込む。
それでなくても、旅が終わりに近づくと、浦島太郎の物語を思い出す。
特に今回は、厳しい日本の現実が待っている。束の間、日本脱出を決断したことが、人生の貴重な節目になったと、気持ちの揺れを伴いながら、身に染みる。

2時半頃、進行方向にシチリアの島影が見える。いくつもの小さな島々が、近づいては、過ぎていく。

6時過ぎから2時間半。日本の旅行社の招待で、眺望の素晴らしい10階のレストランで晩餐。夕陽に映えて、刻刻と変わっていくエトナ山のシルエットが、美しい。料理も素晴らしい。

夕食を終えて間もなく、メッシーナ海峡を通過。遠くに、濃く、薄く、町の灯が連なっている。しばしの散策後、キャビンへ戻る。そろそろ荷物のまとめをしなくちゃと、夜のプログラムはおやすみ。




地中海に入る

終日航海 4月6日(水) 旅の18日目

6時半、起床。元気だ。夜半に船酔いで目覚め、初めて酔い止め薬を飲んだけれど・・・。

スエズ運河を抜け地中海に入ると、船は大きく揺れだし、波の飛沫が高い。
航跡が、豪快にきらきらと輝いている。船内の移動時には、しっかりと手すりを持って、酔っ払いの足取りで歩く。

朝食後、ストレッチに行き、その流れで「クレイジー・サンダル投げ」や「椅子取りゲーム」で汗を流す。さらに、アート&クラフトコーナーへ出かけ、髪や胸に飾る造花作りを遊んだ後、メールを書く。以上は、午前中。

昼食後、昼寝。4日連続の寄港地観光と張り切ったスエズ運河通峡を終え、さすがに気が抜ける。何よりも年齢には抗い難いと自覚し、休養。

5時半。船長主催のフェアウエル・カクテル・パーティへ。フォーマルドレスで着飾ったカップルは、日中の姿から見事に大変身している。ヨーロッパ社会で伝統的な、夜の社交・カップル文化を垣間見る。日本だったら、夜は、男性や若者が多く、一般的にはカップル同士の社交の場は乏しいなあ。

夕食がそろそろ終わる頃、厨房やレストランで働いている人たちが現れて、紹介される。その後、レストラン中央の舞台で、出身国毎の寸劇、民族ダンス、楽器演奏、アクロバット!など、それぞれの自慢の芸が披露され、思いがけない彼らのタレントぶりに感心。いつ練習したのだろう。
陽気な笑いと屈託なく続く拍手に、非日常の空間と時間を痛感する。

キャビンのボーイや、レストランのテーブル担当のチーフから聞いた話から。
アジアや南アメリカからは、祖国に家族を残して働く典型的な出稼ぎが多い。
中には、夫婦で雇われている者もいて、ラッキーだよ・・・。
コスタルミノーザ号の船籍はイタリアだから、上級のスタッフはイタリア人中心。どんなに働いても、イタリア人でなければ出世できない仕組みがあるんだ。

記名証で見た出身国は、フィリピン、インド、インドネシア、ブラジル、トルコ、ウクライナ、スペイン、ドイツ、イギリス、イタリアと多彩だが、彼らの仕事内容と身分の格差は、歴然としている。
これは船に限ったことでなく、欧米を旅しても、つねに感じることだ。各人の属する国の現実の姿に思いを馳せながら、最近の日本でも、就職や賃金などの格差が問題になっていることを、改めて認識する。

夜のショーは、疲れたので出かけず。




2012年4月23日月曜日

「イタリアの夕べ」に誕生日を祝う




【船室のテレビで航跡図を見ると、すでに地中海に出て、北上している】

スエズ運河通峡の1日⑦ 4月5日(火)

4時45分、部屋に戻る。振り返ってみれば、スエズ運河に夢中になっていた間、1度も部屋に帰っていない。さすがに、疲れた!!

6時15分からの夕食は、「イタリアの夕べ」と銘打ったものだ。
そろそろ食事が終わる頃、忙しく立ち働いていたスタッフが、歌や踊りを披露し、イタリア風に陽気なドンチャン騒ぎになる。いつ練習したのか、芸達者な者が多くて、感心する。最後はスタッフに誘われた乗船客が次々に加わり、肩に手をかけ、リズムに乗ってレストランのフロアを歩き回る。息を弾ませて、やっと席に戻る。ハア、ハア、・・・。

さらに、日本人グループのオプションで、クルーズ中に誕生日を迎えた者(11人参加の内、4人)の合同誕生パーティーがあった。私もその1人で、喜寿を迎えた。
ダイニングスタッフと一緒に、「ハッピー・バースデイ・・・」を歌い、ケーキで祝い、ラクダの骨にヒエログリフ(聖刻文字)で名前を彫ったキーホルダーをプレゼントにいただく。



【ラクダの骨にMIYAKOとヒエログリフ(注)で彫ってあるキーホルダー】
(注)ヒエログリフは、古代エジプト文字のひとつ。絵文字から発達したもので最初から完成した形を持ち、メソピタミアの影響が考えられる。主に碑文などに用いられたので聖刻文字と訳す。1799年のナポレオンのエジプト遠征の際、アレキサンドリア付近で発見されたロゼッタ石に刻まれた3種の文字のうち、シャンポリオンが解読した部分がヒエログリフ。

夕食中の7時頃、船は地中海へ入る。
9時半から「イタリアン・パーティー」がある。1時間ばかり覗いたが、ご老体には付き合いかねると、早々に部屋へ。

最後の締めくくりとして、スエズ運河に引き込まれたことを、付け加えておこう。
私の読書対象に、世界各地に駐在する新聞記者が書く、ノンフィクションがある。
中東を知る手がかりは、牟田口義郎の著作が多い。
牟田口義郎は、酒井傳六の後任として朝日新聞のカイロ支局で活躍した。
酒井が、予想だにしなかっ怪我の後遺症で逝去し、続編の期待がなくなったとき、1975年以降のエジプトの動向を牟田口が「終章」として加筆し、朝日文庫(1991年)になった。見事なタックルだった。

2011年3月11日3時46分、東日本大地震発生。水戸でも激しく揺れた。
書斎の造り付けの南北側の本が全部飛び出し、東西側も飛び出したり、辛うじて宙ぶらりん状態で、床には書籍が堆積した。その一番上に、上記の二人によって完成した著書「スエズ運河」があった。

すでに書いたが、中東の政治情勢の変化で、旅に参加するか否かの問い合わせがあり、地震が追い討ちをかけた。
今にして思えば、「スエズ運河」の文字に誘われて、中東へのクルーズ参加を決断した面もある。

記念すべき、スエズ運河通峡を果たした1日。
おやすみなさい。

運河沿いの風景、ムバラク平和大橋や浚渫の様子




【日本の援助資金で建設されたムバラク平和大橋、スエズ運河を横切る唯一の橋】

運河通峡の1日⑥ 4月5日(火)

3時20分。ノルウェイ・スイング橋が現れる。両岸の岸壁に、可動式の橋が向かい合っていて、普段は使われていない。緊急非常時には結合され、アフリカ大陸とシナイ半島(アジア)の連絡路になる。運河の下にトンネルが造られたのも同じ目的だし、中東戦争の経験が、準備怠りなく続いている。



【ノルウェイ・スイング橋。今は使われていないが、いざという時に90度回転して運河を横切る輸送ルートとなる】

3時50分。左舷に、岸壁と中州を望みながら進む。中州の向こう側に、南に向かう9隻の船が並んで、待機している。その内3隻は中国の船だ。グレートビターレイクと同じように、ここも一方通行のすれ違う場所になっている。
中州は、とても長く、通り過ぎるのに25分もかかる。

中州や岸壁に止まっている浚渫船が、クレーンで砂を陸揚げし、トラックに積み上げると少し離れた場所に砂をおろし、平らにならし、戻って来る。
左舷の岸壁はるか向こうには、砂漠の砂が舞い上がって、靄っている。砂塵がまた運ばれて、浚渫作業は、運河が機能する限り、エンドレスで繰り返される。

とっくに第2期運河拡張工事の計画(運河の複線化、既存水路の拡張と増深)が立てられているのに、まだ着工していない。
エジプトが、イラン・イラク戦争(1980〜88年)、湾岸危機と戦争(1990、8〜91年2月)など、中東世界の不安定な情勢に巻き込まれ、石油価格の不安定な動きで国家の歳入は下がり、失業者が増え・・・、運河工事どころではないのだ。

4時20分。地点49。「ムバラク平和大橋」の下を通る。
橋下の中央部に、エジプトと日本の国旗「日の丸」が描かれている。
総工費の60%は日本政府の無償援助で、日本企業の技術(橋脚の外観は、高さがクフ王のピラミッドと同じ140メートルでオベリスクをイメージしたもの)によって造られている。エジプト人が親日的な感情をのぞかせるのは、この橋の建造によるところも大きいらしい。
橋は全長約9キロメートル。水面から橋桁までの高さは70メートル。
2001年4月に完成し、10月から開通している。スエズ運河に架かる既存の橋が、中東戦争で全て破壊されて、スエズ運河のアジアとアフリカの唯一の連絡路となっている。



【ムバラク平和大橋の下を通過。橋の欄干中央に日の丸とエジプト国旗が見える】

今春(2011年)の動乱で、ムバラク政権は崩壊したから、橋の名前の「ムバラク」は、早晩なくなるだろう。橋を見上げながら、しきりに、現代の世界の急速な動きを身近に感じ、平和と戦争が紙一重で存在する国の姿を考える。
クルーズのハイライトのスエズ運河通峡を、充分に楽しみ、大満足の1日だった。

運河沿いの風景、通行料など




【運河沿いに立派な記念碑がある。第4次湾岸戦争の戦勝記念碑?】

スエズ運河通峡の1日⑤ 4月5日(火)

1時35分。グレートビターレイクを抜ける。
緑が豊かで、鮮やかな花々が咲き乱れる住宅が現れる。大邸宅の佇まいだから、王族や高官のお金持ちの別邸か。ここがエジプトだと忘れさせ、富の格差が大きい現実に思いは飛ぶ。

突然、コスタルミノーザ号が、「ブオー」とくぐもった汽笛を響かせる。
車と人を乗せて、両岸(アフリカとアジア)を行きかうフェリーが、船首近くを横切っていく。コンボイを組む船と船の間をすり抜けるのだから、なんと大胆なことかと、冷やっとする。

緩やかな斜面の荷揚げ場所が続く。倉庫が並び、屋外にも、コンテナが積み重ねられている。かなり大規模な物資の集積所だ。ここからは、陸路、トラックや鉄道で物資は運ばれていく。船が、エジプトの物流に重要な役割を担っている。その後も、こんな荷揚げ場所がいくつも現れる。



【スエズ運河を横切る方向の小運河から出て来た特殊な船、海軍の船だろうか】

運河を通過する船の通行料は、かなり高額らしい。それでも、アジアとヨーロッパを結ぶスエズ運河航路は、喜望峰を辿るのに比べて、時間も燃料もほぼ半分程度だという。世界経済の動脈としては貴重だし、採算は充分に取れる。
コスタルミノーザ号の場合、1回の通行で6000万円程度、乗船客は1人2万円くらい支払っていると聞いたが、高過ぎるなあ。記憶が定かではない。

魚を釣っている男たち数人。少年もいる。今夜の食事の準備だろうか。
昨夕の食事に、紅海で獲れたシーフードメニュー「スビエトの唐揚げ」があった。スビエトはイカの仲間で、日本人には好評だった。
のどかな風景を眺めながら、彼らの食生活や日常生活を想像する。

運河では、船は平均7ノット(時速13キロメートル)とゆっくり進むので、移り変わる風景を背景にして、いろんなことを思う至福の時間だ。

2時半頃、軍事施設が増えて来る。岸壁に軍用ボートが並んでいる。
第4次中東戦争のメモリアルがある。高い塔は、第一次世界大戦のメモリアルだ。未だにアラビア半島諸国の緊張があるし、エジプトの軍隊の存在は大きい。
今春のムバラク失脚後のエジプトの安定に、軍隊が重要な役割を果たしていると、何度も聞いたし・・・。

次第に都会らしい住宅が増え、遠くには近代的なビル群が広がっている。

寸劇「インディ・ジョーンズ」に引っ張り出され、気分転換




【寸劇終了後の記念撮影。掌をあげているのがみや。その左がインディ・ジョーンズを演じたロザーリオ】

スエズ運河通峡の1日④ 4月5日(火)

12時。昼食をしながら休憩にしようと、9階の様子を見下ろす。
エンターテイメントチームが動き回って、何人かに話しかけ、寸劇「インディ・ジョーンズ」に出演する10人を揃えている最中だ。

「見つかったらアブナイ」と首を引っ込めたときは、遅かった。目敏く見つけたスタッフが、「ミヤーコ!」と手を振りながら、10階まで走って来る。
強引に手を引かれ、拉致され、得体のしれないケッタイな衣装を着せられ、「言うとおりに動けばいいから・・・」と指示され、舞台に押し出された。

こんなときに乗ってしまうのが私の長所?
それからは、転がったり、死んだり、救い出された王女を囲んで踊ったり。



【インディ・ジョーンズと闘った後、死んだふりをしながら、次のシーンを眺めるみや】

イタリア人のロザーリオは、インディ・ジョーンズに扮したのに、助けた王女よりも、私をだき抱え、このときとばかり親愛の情を示す。
このおっさん、典型的イタリア男性で、乗船以来関心を示していたから、「やるわねえ・・・」と付き合う。
夫は笑い転げて呆れかえり、記念の写真のシャッターを押すのを忘れる始末。



【寸劇のフィナーレの出演者一同。右端がみや。中央後ろ向きがロザーリオ】

女優になった?ので昼食は遅れ、ビュッフェに並ぶ料理は残飯状態だし、休息どころではなかった。だが、たいへんな運動量で、予想外の気分転換になった。

その後は、飲み物とケーキ、果物を何度も取りに行き、お茶をしながら、運河を眺める。
スエズ運河に関心を持つ乗船客が、テーブル上に広げた地図に興味を示し、ゆっくりと覗き込んでいく。中には、何度もやってきて、「どの辺り?」とチェックする人もいる。思いかけず、サロン風の団欒になって、お互いの国や関心事に話題が展開した。

リトルビターレイクからグレートビターレイクへ




【スエズ運河の両岸はこんな平坦な地形が続く。大部分は砂漠、ところどころ緑地、稀に市街地】

スエズ運河通峡の1日③ 4月5日(火)

運河両岸のパノラマを眺めようと、船首に行く。
スエズ市からリトルビターレイクまでの20キロメートル余は、狭い水路だ。
船の前後に、タグボートが行き交っている。航行の難所なのだろう。
10時30分にリトルビターレイクに入ると、タグボートが戻って行く。

船は、コンボイ(船団)を組んで、一方通行で運河を進む。お互いの船の間隔は、だいたい1、8キロメートルだという。

陽が高くなって暑いけれど、風が心地よい。
デッキが賑やかになっている。トランプに興ずるグループ。寝そべって読書中の人。太陽の日差しに惜しげもなく見事な!裸体を晒し、日光浴中の白人たち。
エンターテイメントコーナーでは、ちょうどサルサ踊りが始まっている。
あれあれ、早々と食事をしている子どもたちもいる・・・。

プールでは、「お腹を水面にあてて、どの位、飛沫が飛び散るか」の飛び込みコンテストが行われている。ご自慢のビール腹をしたたかに水面に落とし、周囲の笑いを誘っている。あれって、どう考えても、半端な痛さじゃない!

11時35分。大きく突き出している岬に、瀟洒な2階建てのテラスハウスと花々が咲き乱れる庭が見える。

そこを回ると、広々としたグレートビターレイクだった。地図を見ると人間の胃袋のような形だ。
ここで、 南北行きの船が、相手側のコンボイを待機し、すれ違って一方通行の航行をして行く。北に進むコスタルミノーザ号は、比較的後方に位置している。静々と進むコンボイの様子を空から眺めたら、面白い風景だろう・・・。



【グレート・ビター・レイク(大ビター湖)の決められた水路を行く船団】

南に向かう最初にすれ違った船は、自動車運搬船。モクモクと黒煙を吐くLPG船が続く。中国のコンテナ船が意外に多い。世界を舞台に活躍する中国の姿を垣間見る。

スエズ運河は、 1980年の第1期拡張工事の完成で、水深は14、5メートルから19、5メートルへと深くなり、幅も100メートルから160メートルになった。
原油満載時のタンカーは、従来は5万トンまでだったが、15万トンまでが航行可能になっている。通過船舶数も、1日70数隻になったという。

総工事資金13億ドルのうち、日本は2、8億ドルを援助し、工事全体の70%は日本が担当している。
当時のエジプトの大統領サダトが、完成記念式典で、日本の経済協力をたたえている。「この拡張・増深計画は、技術、工事、資金を含め、日本の貢献によって実現できた」と。
(この項の数字は「スエズ運河」酒井傳六著、牟田口義郎補筆、朝日文庫 1991年刊を参考にした)

エジプトの観光では、意外に日本人に親近感を持つ人が多かったが、エジプトの運河・大橋・トンネルなど、技術協力や資金援助が大きいからだろう。これからの国家戦略として、発展途上国への関わり方を思う。

スエズ運河通峡始まる




【朝、スエズ運河の通過を目指す船が運河入口付近の海に集まっている】

スエズ運河通峡の1日② 4月5日(火)

終日航海をしながら、スエズ運河通峡の日。
昨夜から待ちわびていた朝を迎え、早速様子を見るために10階のデッキへ行く。
朝から張り切っている人は少ないらしい。目覚めの遅い乗船客が多く、閑散としている。

夜中から朝方にかけて、周辺の海には様々な船が集まっている。いずれも、スエズ運河を通峡する船だ。ソマリア沖を抜ける時にコンボイ(船団)を組んで急ぎ足に航海をして以来、「再びお目にかかりますね」といった感じだ。
スエズ運河は一方通行で進むから、各船は指令を受け、順番が決まるのを待っている。順番が決まると船団を組んで運河通峡が始まる。

朝食後、散歩しながら、スエズ運河を眺望する場所を探す。
陣取った場所は、太陽の動きを考え、日陰が確保できる10階左舷のデッキ中央部。屋根があるし、テーブルや椅子がある。中央の吹き抜けの場所からは、9階のプール、エンターテイメントの舞台、ストレッチのコーナーを見下ろせるから、気分転換にも好都合だ。右舷側へも、簡単に行ける通路があるし、船首と船尾近くには、カフェテリアのコーナーもある・・・。
自宅から、A3用紙に拡大したカラー地図を携えてきている。テーブルに広げ、航行の時刻などを書き入れることにする。スタンバイ、すべてよし。

9時20分。スエズ市の岸壁に、巨大な「163」の数字が見える。
地中海側の港町ポートサイドを起点にすれば、スエズ運河の全長163キロメートルの終着地を示す数字だ。紅海から北上すれば、出発地点になる。
「とうとう、スエズ運河を通るのだ」と、感慨にふける。



【運河へ次々に船が入っていく。船と船の間隔は1.8キロと決められている】

スエズ市を過ぎると、両岸に砂漠が広がっている。
それを遮るように、住宅地が現れ、モスクの尖塔がみえる。また、砂漠。
遥か彼方はナイル川か、その支流の水路だろうか。樹木が並ぶ地平線が続く。「あの木は、ナツメヤシだろうなあ」。また砂漠。

地点146(スエズ市から北へ17キロメートル)に、潜り込むような形の建物がみえる。「あれだ。アフリカ大陸とシナイ半島(アジア)を結ぶ海底トンネルの出入口じゃない?」。
茫漠とした砂漠と紅海の風景には、いささか不釣り合いな建造物で、周辺には広い駐車場がみえる。

第4次中東戦争(1973年)のとき、エジプト軍は、ここから紅海を渡る浮橋をかけて、シナイ半島に侵入した。作戦を指揮して1番乗りをしたのが、工兵少将アハマド・ハムディだが、戦死した。
彼の功績を偲び、間もなく浮橋に代わってトンネルが掘られ、「アハマド・ハムディ・トンネル」が完成( 1980年)した。

書籍「スエズ運河」に導かれて




【エジプト、スエズ運河あたりの地図、グーグル・マップから合成】

スエズ運河通峡の1日① 4月5日(火)旅の17日目

30数年前、偶々「スエズ運河」(酒井傳六著 新潮選書 1976年)を読んだ。
目次に、第八章「レセップスの構想力と行動」があった。スエズ運河と言えばレセップス。どんな人だろう。それをお目当てにした極めて単純な動機だった。

ところがである。この本は、面白く、わかり易く、小説よりもずっと楽しく、レセップスへの興味以上に、エジプトのドキュメント物語として、貪り読んだのだ。
エジプトの歴史を辿りながら、4000年の運河構想の背景を知った。
フランス人のレセップスは、運河完成によって「世紀の英雄」と賞賛され、ポートサイド西岸にブロンズ像が建てられたが、1956年の第2次中東戦争時に破壊され、「帝国主義の手先」と謗られた。
その3ヶ月前に、ナセル大統領はスエズ運河のエジプト国有化を宣言している。

歴史の中で、国際政治と軍事・外交、民族意識などが絡まり合って、変貌を遂げていく。それらが鮮やかに描かれ、興味が尽きなかった。

運河建造に携わった労働者(実態は奴隷)は、ピラミッド建造に匹敵するような過酷な労働で、12万人(イギリス側の資料では20万人だとも)も亡くなっている。華々しいスエズ運河の完成の背後に隠された犠牲者は、あまり知られることがないが、なんと多かったことか。

運河完成後、イギリスは、運河最大の受益者となったばかりでなく、運河会社そのものの経営を手にした。乗っ取りとも言える動きに、”早耳のロスチャイルド”が存在している。

英仏がエジプトを巡って熾烈な軍事・外交を展開し、英仏両国の中東・アジア進出の要となったそのエジプトは、政治の脆さを抱えていたし、さらには地中海進出を図るロシアとオスマントルコの縄張り争いなど、19世紀以降の世界の動向が、壮大なドラマとして次々に繋がった。

「スエズ運河」を読んで、近現代史への興味が促されたと言っていい。
「いつかスエズ運河を訪れる機会はあるかなあ。多分、無理だろうなあ」。
こんな淡い夢を抱き続け、やっとスエズ運河通峡の旅が実現したのだから、感慨深い。

シナイ山麓に建つ聖カタリーナ修道院




【聖カタリーナ修道院全景、シナイ山(標高2、285m)は見えている山のさらに奥にある】

シャルム・エル・シェイク(エジプト)③ 4月4日(月)

10時近くに、シナイ山麓の「聖カタリーナ修道院」に到着。
エジプトにキリスト教(コプト教)が布教したのは、4世紀のこと。
313年、ローマのコンスタンティヌス大帝(280頃〜337年)が、ミラノ勅令でキリスト教を公認。皇帝の母親ヘレナが、337年に「モーセが燃える柴を見た地」に、聖堂を建造した。これが修道院のはじまりだ。

アレキサンドリアの豪族の娘・カタリーナは、子どもの頃からイエス・キリストについての知識に優れ、キリスト教を迫害していたローマ時代に、キリスト教徒であることを公にして、処刑されている。
彼女の名前をつけた「聖カタリーナ修道院」は、6世紀半ばに基礎ができ、当時の東ローマ皇帝ユスティニアニス1世(483〜565年)は、聖堂の周りに砦を築き、守備隊が警備にあたった。カタリーナ修道院の佇まいが要塞を思わせるのも、そうした背景があるからだろう。

世界最初の司教座がここに置かれたし、フランスのナポレオンが修道院の城壁の修復をしている。長年の盛衰を辿った歴史があり、由緒あるキリスト教の修道院だが、敷地内には、イスラム教のモスクがあるし、モーセの縁でユダヤ教の聖地でもある。辺りは自然保護地域になっていて、建造以来の佇まいは、ほとんど変わらないという。修道僧が観光客に指示をしているし、三つの宗教の聖地らしく、様々な巡礼者が訪れている。現実はともあれ、異なる宗教の共存を平和に現す場所だから、宗教の在り方を考えさせるし、実に面白い。巡礼者の心の内を知りたいとも思う。




【聖カタリーナ修道院の鐘楼、その向こうには別の宗派の塔がある】

バシリカ様式の建物の内部には、6世紀から17世紀にかけてのイコン(聖像)が並んでいる。古雅ともいうべき稚拙な筆致に、人々の祈りが込めれている。

修道院には、最盛期には400人を数える修道僧がいたとか。現在も、宗派をこえた修道僧が、自給自足の生活をしている。聖堂入口や各所で案内をしている人が、修道僧の衣服を着てお仕事中と知る。

カタリーナ聖堂内には大勢の人々がいるのに、祈りの場所の静寂に包まれている。
聖堂内は撮影禁止だ。胸のうちに、宗教のあれこれを問い、厳粛な気持ちになった。

モーセの井戸、カタリーナの遺骨(腕)、城塞、・・・。
修道院にまつわるものを次々に見て、11時半に観光終了。



【聖カタリーナ修道院周辺、ラクダに乗り観光する人、歩く人】

時間の短縮のため、ホテルのレストランを借りての昼食は、大きいランチボックスだった。「何人分になるのだろう」と驚き呆れたが、好きなものを召し上がれというサービスらしい。超スピードで昼食を終える。
このホテルは、以前は、サダト大統領の別荘(1970年から81年まで)だったとか。
現在は、敷地内にバンガローが点在するリゾート施設だ。

12時20分にはコスタ・ルミノーザ号への帰路につく。
帰りの車中、ハイサムさんが「スエズ運河講座」を展開し、明日のスエズ運河通峡に備える。上陸観光は慌ただしかったが、4時の出港にギリギリ間に合って、大満足。

部屋のバルコニーから離岸風景を眺めながら、くつろぐ。
シャルム・エル・シェイクの海岸は、ヨーロッパにも広く知られるスキューバダイビングのスポットだ。洒落た小船が次々に通り過ぎて行く。エジプトの動乱は、ここでは無縁なのかと、ふと想う。

紅海の北上につれて向かい風が強く、珍しく船体が揺れる。温度計は、外界気温23度C。左舷にアフリカ大陸、右舷はシナイ半島。共にエジプトの領土だ。

モーセはどんな人か




【モーセとヘブライ人が流浪し、モーセが十戒を受けた地は、こんな風景が続く場所】

シャルム・エル・シェイク(エジプト)② 4月4日(月)
紀元前の大昔のこと。流浪の民ヘブライ人は、エジプトに辿り着いた。奴隷となって過酷な労働を担いながら、ヘブライ人の人口が増えていく。脅威を感じたファラオが、ヘブライ人の子どもの皆殺しを命じる。
「水の息子」の意の「モーセ(紀元前1350?〜紀元前1250年?)」はナイル川に捨てられたが、ファラオの娘に拾われて育てられた。成人後、殺人の罪を負わされてエジプトから逃げ、シナイ山へたどり着く。羊飼いの娘ツッポラと結婚して、云々と、ガイドの説明が続く。

旧約聖書の「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」でモーセの記述があり、これに「創世記」を加えて「モーセ五書」と呼ぶものは、彼が著者とされていたけれど、今は伝承に過ぎず、認められていない。
おまけに、ヘブライ人の預言者・立法者だと言われながら、モーセの歴史的な実在を疑う者もいるらしい。

ともあれ、モーセはヘブライ人の子としてエジプトで誕生。ファラオの奴隷とされて悲惨な境遇にあったが、「神に約束された理想の地カナーン(現在のパレスティナ地方)に導くように・・・」という神の言葉に従って、エジプトを脱出。
シナイ山で神から「十戒」を授けられた。

40年間、荒野をさまよって苦難の末、ヘブライ人に、唯一神ヤハウェへの信仰を固めさせ、神から選ばれた民族としての民族意識・選民意識を創り出した。
若い頃、映画「エクソダス」を観て、強烈なモーセ像の印象があったことを、しきりに思い出す。

空高く、雲白く、岩山と砂漠が続くバスの行方には、山並みがくっきりと見える。
2時間ばかり走ってトイレ休憩。バスの停車を見かけた途端、親子連れの物売りが集まってくる。彼らの真剣な目つきとしつこさを眺め、生活がかかっているのだし、これしか生きる術はないのか、これで一生を終えるのかと、気持ちが穏やかでない。

シナイ山へ






【海から見たシナイ半島の印象】

シャルム・エル・シェイク(エジプト)① 2011年4月4日(月) 旅の16日目

昨夜8時頃に出港した船は、アカバ湾を南下し、今朝シナイ半島先端のシャルム・エル・シェイク港に接岸した。午後4時には港を離れるので、観光はシナイ山麓にある聖カトリーナ修道院だけだ。

ルクソール・ペトラ・イスラエルと続いた寄港地観光には、上陸せずに船に残るお仲間が増えてきた。満足感と疲労感がないまぜになっているが、多分、この辺りへの旅は出来ないだろうと、老体をムチ打って出かける。早々と集合、7時15分にはバスは走り出す。

ルクソールを案内してくれたハイサムさんが、再び、カイロから駆けつけ、新たにマネージャーを名乗る2人のスタッフと、ドライバー1人が加わる。なんとも物々しい。走り出してまもなく、警察官が待ち構え、手続きで10分間もストップ。

エジプト動乱でムバラク大統領が失脚し、別荘のあるシャルム・エル・シェイクに逃げた。十数人の高官も一緒で、特に内務大臣は嫌われていた。
新たに発足した政権は今後の動きに神経を尖らせ、一般のエジプト人は原理主義の法律ができるのではないかと心配している。
ムバラクはドバイとサウジアラビアへの往来をしているらしいとも、健康状態が悪くて入院しているとも言われ、現在、ここにいるかどうかは、わからないらしい。厳戒体制が布かれている背景が、わかる。

「昨日、カイロは大雨でしたよ。砂嵐がおさまるので観光には好都合です。シナイ山でも期待しましょう」。




【シナイ半島の航空写真、グーグル・マップから引用】

シナイ半島の南部にあるシナイ山は、港からドライブで3時間弱。
シナイ山が宗教の聖地なら、シナイ半島は第二次世界大戦後の冷戦構造のなかで戦った中東戦争(注)の舞台だ。歴史的には、もっと理解したい地域だ。

(注)中東戦争・・・イスラエルとアラブ諸国間は、第1次(1948〜9)、第2次(1956)、第3次(1967)の中東戦争で対立。イスラエルがシナイ半島を占領すると、これに対して、エジプトがスエズ運河を封鎖。国連決議で休戦はしたものの対立は解けず。第4次(1973年)の戦争で、エジプトはシリアとともに、イスラエルからシナイ半島の一部を奪還し、有利な休戦協定を勝ち取った。

辺りに連なる山々が、ギザギザと波打っている。形が歯に似て並んでいることから
「歯=シーナ」からとってシナイ山といわれるとか、「月の神=シン」から名付けられたとか、諸説あるそうな。
モーセが十戒を授けられた山といわれるのに、「シナイ山」と特定する山はどれだか不明で、「ガバル・ムーサらしいと、言われますが・・・」とガイド氏。
この辺りでは、古くから、トルコ石や、マンガン、リン鉱石を産出し、単なる砂漠ではなく、経済的には大事な場所だという。

2012年4月15日日曜日

死海での浮遊は、強烈な辛さと痛みの体験!




【死海の南の海。海岸の一部にはリゾートホテルが並び、海水浴客が訪れる】

エイラット(イスラエル)⑤ 4月3日(日)

1時頃、死海前にある「ダニエル・ホテル」で昼食。その後、いよいよ死海での浮遊体験をする。

死海は、ヨルダン川がガリラヤ湖を経て、海抜マイナス400メートルの低地に注ぎ込んだ出口なしの塩湖だ。何千年もの間、太陽の灼熱によって水分は蒸発し、水位のバランスは取れてきたが、同時に塩分濃度が高くなった。
最近では気象変化の影響で、さらに水位が下がり、琵琶湖の1、5倍の面積がある死海が次第に狭まって、北と南(7対3の割合)に分かれている。
北から南へは段々畑状の堤防が築かれ、ポンプで水を流し込んでいるが、北側の水深が200〜400メートルあるのに、南の水深は4メートル足らず。早晩干上がってしまう深刻な状態らしい。

マサダ砦からの眺望は素晴らしく、浮遊体験ができるという興味でワクワクしていたのだが・・・。

「背泳ぎの姿で、フワリと浮かぶこと。バタバタと手足を動かすとひっくり返って、大変なことになります。泳いではいけません(泳げません)。目に水が入らないように気をつけて。10分以上は入り続けないこと。・・・」

もっとあったが、忘れた。要するに塩分濃度が30%はあるので、青菜に塩の状態になるらしい。何度も、何度も、死海利用?の諸注意が繰り返され、それだけで怖じ気づいてくる。結局、眺めるだけの人が多く、水着に着替えたのは男女1名づつ。好奇心のカタマリの夫は、男性代表で張り切る。



【死海で浮遊体験をする夫】

金平糖の形の塩のカタマリが、果てしなく海岸に堆積しているし、塩柱もある。恐るべき濃度だ。目に水がかからないようにゴーグルをして、子どものように嬉々としながら水に入って行く夫に声をかける。
「気をつけて! 萎びてしまうから・・・」。「大丈夫だよ」と笑うが、見ていると、体をコントロールしながら、背泳ぎスタイルになるのは、容易ではないらしい。浅い場所で腰を下ろし、足を伸ばして浮かび、手を湖底につけて、カニの横這いのように移動して行く。
「あったかいよ。ヌルヌルしている。ラクチンだあ・・・」。

膝まで浸かりながら、夫の稀有な体験の証拠写真を撮ろうと、カメラを構える。
足だけでもミネラル成分に触れて、美容効果があるという効果はあったのだろうか!。

バスのドライバーのヨッスィーさんは、「わざわざ死海まで来て、浮かばない観光客なんて、ほとんどいないよ・・・」と、呆れたり、残念がったり。

3時過ぎに帰途に着き、 帰路も、途切れることなくガイドの話が続く。
古代イスラエルの歴史、ユダヤ教の成立と預言者、イスラエル建国への道のり、ユダヤ人の生活習慣、イスラエルの動植物・自然、・・・。

学生に戻った気分でメモをとった。旅日記が長くなるので、ここでは省略。
6時にエイラット港着。8時頃、次の寄港地シャルムエルシェイクに向け出航。

マサダ砦




【ロープウェイの中から見上げたマサダ砦】

エイラット(イスラエル)④ 4月3日(日)

11時近く、バスから80人乗りのロープウエイに乗り換えて2分、海抜0メートル!のマサダ砦に到着。ユダヤ人の高校生の団体が入場を待っている。砦は、ユダヤ人の歴史を象徴する遺跡として評価され、ユダヤ人の教育の一環として、訪れるという。

低地から盛り上がった岩を切り拓いた砦は意外に広く、360度の眺望が素晴らしい。次に訪れる海抜マイナス400メートルの死海が、南北に分断している様子がよくわかる。

砦は、ヘロデ大王(紀元前74?〜紀元前4年頃、ユダヤ王でエルサレム神殿を建設、新約聖書の「マタイ伝」には、予言を恐れてベツレヘムの幼児虐殺をしたとある)の命令で強固になったが、ローマ軍に征服された。

720年代の地震で崩壊して見捨てられ、今から40年前に発見されたばかり。
2001年には世界遺産に登録されている。

石切場がある。炊き口の跡が残るサウナ。シュロに泥を混ぜた屋根を葺いた家屋。室内には、大部分が剥げているが、鮮やかな色彩の壁画が残っているし、14棟の倉庫もある。
ユダヤ人の悲願を刻みつけ、その後はローマ統治強化の任務を負った兵(つわもの)共の夢の跡だ。



【マサダ砦から死海を上方に望む】

砦にまつわる話を聞く。
ヘロデ大王の死後、ユダヤ人勢力は急速に衰退する。
イスラエル・パレスチナ地方のユダヤ人は、帝政ローマの直轄統治と多神教の強化に抵抗し、ユダヤ戦争を起こして独立を目指した。軍事的には勝ち目がない戦いで、ユダヤ人の拠り所「エルサレム神殿」は破壊され、敗北した。

逃げだしたユダヤ人970人は、マサダ砦に辿り着いて篭城。
彼らは3万人のローマ軍の包囲に耐え、3年間の抵抗の末、集団自殺したという。
最期を迎えたとき、ユダヤ人は10人ずつのグループになった。各グループ毎に、だれかが任意に1人を指名したあとに殺され、同じようにして、残った者が順に指名しては殺されて、最後の1人が自殺したという。
まるでロシアン・ルーレットのような悲惨な話には先があり、7人のユダヤ人が生き残ったとか。
「ローマ軍のヨゼーフ・クラビアスが、捕虜にしたと記録しているのです」。

ユダヤ人の勇敢な歴史物語なら、彼らが信じるモーゼの十戒に”殺すなかれ”とあるのに、追い詰められた状況とはいえ、おかしい。
神妙に語り終えたガイドの顔をちらっと眺め、悲劇の受けを狙ったのではないかと、矛盾を感じた。

「ほら、白虎隊の話も同じようなものですなあ。これに似た歴史物語は、どこの国にもありますよ」と、こともなげに反応する男性がいたが・・・。

キブツの暮らしと農業

エイラット(イスラエル)③ 4月3日(日)

ガイドの山崎さんは60歳までキブツで働き、そこでの具体的な生活の一端が語られ、面白かった。

キブツ(農業の共同体)は、主として世界中から移住してきたてユダヤ人が、家族ぐるみで集団生活をしながら、農業をする組織だ。
キブツ内では医療費や教育費は無料だし、美味しい(特に強調して自賛した!)野菜は100%自給自足で、生活費も保障される。

全国に300〜330カ所あるキブツは、1カ所には100人位から、平均して500人、大きくなると2000人位が住み、最近は人口の減少傾向がみられる。

多種類の野菜、ナツメヤシはじめ果樹類を栽培し、最近では、アボカドやグレープフルーツは輸出できるほど生産している。

ユダヤ人は頭脳優秀だからイスラエル農業技術の進歩は著しく、時間の余裕からホテルや売店を付設して収益をあげ、個人所有も認められるようになっている。

養鶏や酪農をする場合は、政府の認可が必要になる。ユダヤ人向けの厳密な屠殺方法があるからだ。

一般に、農業は親から子への世襲制で、外国人に土地を所有させないため、土地の売買は政府が仲介して、99年間の借用証明書を出す・・・。

道路に沿った奥に、大木となって茂っているナツメヤシの林が続く。その手前の砂漠の荒地に、ラクダが1頭、離れてまた1頭と点在している。乾燥に強いラクダ草がわずかに生え、ラクダが食んでいる。

こんな風景を眺めながら、かなり前イスラエルを訪れた友人が、キブツの農業の話をしたのを思い出す。
移住してきた人々が最初にしたことは、1本、1本、丁寧にナツメヤシの苗を植えることだった。毎日、遠くから水を運んで苗に注ぎ、大きく育つのを待った。
暑さと乾燥に強く、日除けになり、食料としても重宝するナツメヤシを植えたのは、国家建設の希望だったのだと、若かった頃のイスラエル理解を思い出したのだ。
余談だが、友人の現在に触れたい。彼女は、現在も毎年パレスチナを訪れ、難民キャンプの子どものために、活躍を続けている。キャンプで生まれ、幼い頃から敵を殺せと洗脳されている子どもに、憎しみは間違っていると諭し、武器を手に行動してはいけないと教えている。
「どんなことをしているの?」と尋ねると、「具体的には、争いの場所に出かけないように、引き留めることよ。争いは絶対によくない、問題の解決にならないと、繰り返して話すだけ・・・。子どもだって、命がけで戦っても、傷ついたり、死んだりはしたくないのよ。中には、パレスチナ問題や紛争の背景を考える子が育ってくる・・・」と言う。
問題を他人事にしない友人の姿に、頭が下がる。



旧約聖書の時代・古い歴史の舞台を辿りながら宗教を思う




【死海に至る国道90号線は聖書にあるネゲブ砂漠を北上する】

エイラット(イスラエル)② 4月3日(日)

バスの窓外に、旧約聖書に出てくる地名や物語が登場し、解説が続く。
ときどき、夫と顔を見合わせ、苦笑いしながら首をかしげる。2人とも、両親はクリスチャンだったから、生まれも育ちもキリスト教の家庭で、人生の前半は熱心に教会と関わった。門前の小僧よろしく、旧約聖書や新約聖書に親しんだから、知識としては詳しい。曖昧な(聞いている側にはいい加減な)説明をするガイドにとっては、こういう観光客は、嫌な存在だろう。
振り返ってはいけないと言う約束を破り、塩柱になったロト。「あそこですよ」と指差す方向に、細長い塩らしい白い柱が見える。



【聖書にあるロトの柱と伝えられる岩の柱】

ソロモン王時代の銅の採掘跡と称する場所に、言われなければ見過ごす薄い緑色の、なんの変哲もない岩の塊が転がっている。ソロモン王の元へ、シバの女王が乳香・没薬を運んで交易をした話が続く。

「この辺りに、アブラハムやイシュマイルが、ヒブラ(幕屋)を張って生活していました・・・」。
この2人については、数日前、イスラム教の預言者として説明を聞いたばかり。
訪れる国が異なってガイドも変わるが、あちらで聞いて、こちらでまた聞いてと、同じ登場人物の話が続く。
対立している中東世界なのに、宗教や民族の違いを超え、紀元前の歴史が繋がってくる。ガイドによって、同一の人物像はかなり違い、アラビア半島に根を下ろす宗教の違いが透けて見える。

どの宗教にも言えるが、信仰の違いが寛容な心情を奪って、民族、国家、個人の間のお互いの憎しみを露わにし、ときには残忍なほどの対立感情を剥き出しにする。宗教・信仰は、人間を救うものではなかったか。畏敬の念をもって、信仰を受け入れただろうに。特に熱心な信者ほど始末が悪い?と、とつおいつ思う。

ユダヤ人の国イスラエル




【イスラエルの地図。訪れた場所を示す】

エイラット(イスラエル)① 4月3日(日) 旅の15日目

6時頃。いつもの朝よりもグズグズしていると、ベランダからゴトゴトと音がする。一瞬、遅かった。コスタ・ルミノーザ号が錨をあげて、ゆっくりと離岸し始めている。アカバ港に一晩停泊し、今朝早く出港と聞いていた。
ヨルダンのアカバ港とイスラエルのエイラット港は、8キロメートル足らずの距離だから、車で走っても10分あれば着く。巨体のルミノーザ号が、そんな距離を移動するのはどんな様子だろうと、興味津々だった。動いているような、そうでないようなたゆたう速度で、7時前にエイラット港の波止場に接岸。

朝食を済ませると、早めのイミグレーション手続きを済ませる。
海外旅行では、イスラエルへの入国・出国の記録がパスポートに残ると、国によっては、それ以後の旅の許可が下りなくなるから、ややこしい。クルーズ会社の場合、そんな事情を考慮して、パスポートを確認して上陸許可証を出し、空路よりは柔軟な対応をしている。

8時には上陸、すぐにバスは走り出す。
ガイドは、イスラエル在住37年になる日本人の山崎氏(65歳)。人懐こく、気さくな人で、個人的な家族(ユダヤ人の夫人と娘2人)の様子を披露しながら、一方では、「年齢をとりましたら日本が懐かしく、退職後は日本人相手のガイドをしています」と言い、長く異国に暮らしてきた人の気持ちの襞を覗かせる。

イスラエル観光は、時間の制約で、「マサダ砦」と「死海」だけだ。
「聖地エルサレム」へ行かれないのはとても残念だが、イスラエルという国に対して、わだかまりといささか身構える気持ちがある。負け惜しみだろうが、ホッとする部分もある・・・。

進行方向の右手の窓外に、昨日訪れたばかりのヨルダンの山々が連なって、その麓の同じ地層の大地に、国境のヨルダン川が流れている。風景が似ているのに、両国を分ける境界線の溝は深い。繰り返された中東戦争と、特に、イスラエルの諸々の事情を象徴するパレスチナ問題がある。その平和的な解決は、いつ訪れるのだろう。

以前、パレスチナ自治政府下の人々の様子を聞いたとき、ひどい話だと思ったし、ユダヤ人がナチス・ヒットラーの下で経験した歴史は、なんだったのかと考えたことを思い出す。

イスラエル観光の機会が、よい印象になりますようにと期待しながら、窓外の風景を追う。

2012年4月13日金曜日

ペトラ遺跡、生きる人々の逞しさ






【ナバテア人の洞穴墓所のあたりは、観光客向けの店が並んでいる】

アカバ(ヨルダン)⑤ 4月2日(土)

「5時にゲート入り口に集合。歩いてきた時間を考えて、遅れないように。
心配なら、ここからはゲートまでタクシー(乗合馬車か馬のこと)を利用することも考えられますが、非常に混んで30分以上も待たされるので、歩いたほうが確実です。もし遅れたら、船まで自分で帰りましょう」。
少々脅かすような確認の注意があって解散し、自由行動の時間になる。

エル・ハズネの右手にある割れ目の先には、貴族の墳墓群、王家の墓、1枚岩をくり抜いた9000人収容の古代劇場(ローマ帝国時代に建造され、以前は住居として使われたこともある!)が続いている。
それぞれに歴史的な謂われがあり、遺跡の存在の大きさを物語っている。

観光客が岩を登って遺跡の辺りを歩き回っている。
ひょいと他人の家を覗き込む感じだし、監視の目もない。遺跡の管理はどうなっているのだろう。

そんな遺跡のすぐ下の道沿いに、雑多な土産屋が観光客を呼び込んでいる。
簡単に移動する屋台の店は、団体が現れると目敏く移動していく。

「歩くのは疲れるよ。これは楽だよ」と、しつこく誘うラクダ曳きがいる。すぐ近くに住んでいるベドウインが、個人的に仕事をしているという。
「ラクダは観光用に歩くだけで、5分もすれば降ろされますので注意してください」。帰路のタクシー利用について、そんな説明をしていたことを思い出す。

荘厳な雰囲気に浸った後だけに、ほんのわずかに岩山の割れ目を歩いた途端に、人間の猥雑さに溢れた空間への変化に驚く。

さらにこの先には、ペトラの本格的な遺跡があるが、限られた時間では訪れることは無理だ。帰路の余力を考えベンチに座り、人の賑わいを眺める。夫は円形劇場のてっぺんに登ったり、墓の近くに行ったり。時間を惜しんで、シャッターを切るのに忙しい。

全員、徒歩の余裕を計算して、集合時間に揃う。
「アル・ハズネの前を一回りして降ろされた」と、ラクダのタクシーに乗った男性が文句を言い、息を弾ませていた。ドバイで行方不明になった同じ人だった。

ペトラの余韻を味わいながら砂漠ハイウエイを走り、コスタ・ルミノーザ号への帰路につく。砂塵で靄った大地に、太陽がゆっくりと沈んで行く。
印象深い1日だった。

なお、ペトラ遺跡の画像は、掲載分を含めて、夫のアルバムにあります。以下を参照してください。
ペトラ遺跡 on Masashi's Albums

ペトラ遺跡、ピンクに輝くエル・ハズネ(宝物殿)




【エル・ハズネ前の広場で見上げる観光客たち】

アカバ(ヨルダン)④ 4月2日(土)

道幅がやや広くなった場所に、第1番目の礼拝堂、少し行くと第2番目の礼拝堂と、次々に小さな礼拝堂が建っている。
「この礼拝堂は、イスラム後につくられました・・・」。
「キャラバンの安全を祈って、女神が祀られています・・・」
「この辺りのアッサラム山脈の神を祀った礼拝堂には、ローマ時代の彫刻が残っています」・・・。
造られた時代や対象となる神には、関連性がない。異なった時代に、ここで生活した人々が、自分たちの暮らしに深く関わった神に祈る為に、後世「礼拝堂」と称するものを造ったのだろう。日本の祠のような感じの素朴な造りだ。

所々に、人々が踏みしめ、角が取れてしまった古い石畳が残っている。岩山の道をキャラバンが行き交ったのだと、時空を超えた繁栄の名残りを探す。一度は砂に埋まってしまった道だが、新たにコンクリートで固めた部分もあって、やがては現代を示すことになる。

1985年に世界遺産に登録された人工のダムが見え、水脈の確保の知恵に唸る。

「暑いねえ。どうにかならないかなあ・・・」という弱音が、何時の間にか引っ込んでいる。代わりに「まだ遠いの?」と聞く声。ずいぶん歩いたが、冷んやりとした空気が心地よい。

次第に道幅が狭くなって、岩に挟まれる圧迫感と居心地の悪さを感じた頃、モハンナドさんが注意を促す。
「みなさん、落し物をしませんでしたか? 後ろを振り返って確認してくださいね。大丈夫でしたね。よかった。では、そこのカーブを曲がって、まっすぐ前を見ましょう」。

感動に包まれた一瞬だった。数メートルほど前方に、裂け目に差し込んでいる陽の光に浮かぶエル・ハズネが見える!。



【岩の裂け目からエル・ハズネが見えてきた】

「凄いなあ・・・」。だれともなく、唸るような歓声が立ち上る。
バラ色の岩そのものが、宮殿とも神殿ともいえる壮麗な佇まいの建造物になっている。こんな場所に!
時計を見ると、ちょうど3時。この日の、この時間を忘れることはなかろう。

「完成まで、たくさんの石工・彫刻家・設計者がここに住んで仕事をしました。
砂岩で崩れやすいので、下から上へと足場を組み上げ、ひたすらノミで岩を穿って彫刻をしながら、建物を造っていったのです。高さは28〜30メートル・・・」。

中央のイシス神は、ドゥールー族による破壊で、損傷が激しい。
建物の地下には、宝物殿だとも、墓だとも言われる部屋があり、壁にフレスコ画が描かれていた。古老の記憶を手繰っていくと、地下の部屋に、120年前位?から25年(1985年)前まで、人が住んでいたらしい。煮炊きに使った燃料の煙で壁が煤け、フレスコ画がダメになってしまったという。現在も考古学的な調査が続いている。 地下に降りる階段には網が張られ、中には入れない。未練がましく覗き込んだが、洞窟のような暗い空間があるだけだった。

ペトラ全域の発掘はまだほんの序の口で、30%しか遺跡は現れていないという。
エル・ハズネを仰ぎ見て、偉大な遺跡だと理解でき、今後の発掘の恩恵は子孫のお楽しみだと思った。

ペトラ遺跡、シーク(岩の割れ目)を目指す




【ペトラ遺跡に至るには、シーク(岩の割れ目)を辿る】

アカバ(ヨルダン)③ 4月2日(土)

10年以上も前に眺めたのに、鮮明に思い出す「ペトラ」の写真。「ナショナル・ジオグラフィック 日本版 1998年12月号」の特集だった。

陽を受けてバラ色に輝く岩肌。そこに絶妙に施された彫刻は、2000年以上の時を経ている。「素晴らしい遺跡があるのだなあ」と、その美しさに感動し、何度も写真を眺め、訪れたいと切望した。その一方で、中東の砂漠の遺跡を訪れるなんてことは、夢のような話で、実現は不可能だと諦めていた。

それが中東情勢の不穏な動きから、思いがけず、ペトラ遺跡観光の機会がやって来た。我が身に訪れた僥倖を、なんと感謝したらいいのだろう。

「ペトラ」は「岩」を意味する。
どんな人たちが、いつ頃、どのようにして、この地を見つけ、どうして住みついたのか。繁栄した都市が、なぜ滅亡したのか。

大まかに理解できたのは、紀元前数世紀頃、ナバテア人が自然の岩山を利用して城塞都市を築いたこと。芸術性豊かな高度の文化を遺し、隊商の交易の要衝として繁栄したことだ。しかし、ローマ帝国に併合され、やがて忽然と姿を消してしまった。



【ペトラ遺跡の地図,右下方にビジターセンターの方向を示す矢印、
シークは点線で。上記のナショジェオ号から引用】


まずは入場をチェックする入口を入り、茫漠とした砂礫の道を歩き出す。うっかりすると、砂に足をとられ、ズズッと滑る。周囲には岩山が連なって、前方遠くに、縦に口を開けたような割れ目のある岩山が迫り出して見える。
砂漠特有の乾いた暑さ。容赦なく照りつける日差し。「これは、たいへんな観光になるなあ。苦あれば、楽あり・・・」と、覚悟する。
そんな気配を察して、ラクダを引いた男が「これにに乗ると疲れないよ」としつこく誘っている。観光を終えて、帰路に利用する人が多い。

歩くこと20分。幽霊の墓、オベリスクの墓。古代ナバテア人からローマ時代にも使われた墳墓群を眺めながら、自然の侵食でできたシーク(割れ目)に、やっと辿りつく。

「1万年以上も前の鉄器時代、アカバからシリアを往来する隊商路が造られ、ペトラに小さな集落があったそうです。
紀元前7世紀頃には、モーセの子孫がやって来て定着し、隊商を編成して商業が栄えています。
やがてナバテア人がやってきて小王国が成立。岩山を利用した城塞都市ペトラが賑わいます。岩山の地下から流れる泉があったので、3800メートルもの人工の水路が造られました。・・・」。

モハンナドさんの解説に耳を傾けながら、切り立った岩の裂け目を歩く。
この道は隊商路だったが、ローマ軍が去ると、いつしか砂漠の砂塵に覆われて、姿を消した。それでもベドウインの移動はずーっと続き、ペトラにテントを張る生活は続いたという。

20世紀後半になって、ベドウインの古老の言い伝えを聞いたヨルダン政府が、遺跡の考古学的発掘に乗り出し、往時のペトラの姿が再び蘇ったという。

砂漠ハイウエイの車中で現在のヨルダンを知る




【ペトラ遺跡への途上で見かけたベドウィンのテント村】

アカバ(ヨルダン)② 4月2日(土)
バスは、赤茶けた岩山の砂漠ハイウエイをひたすら走る。
ヨルダンの生命線であるアカバからシリアまでの道は、すでに鉄器時代には通じており、隊商が往来した。最近は隊商ににつきもののラクダに代わって、トラックを利用する方が多い。また、今でもハイウエイの砂岩地帯は、年間2センチの隆起があるという。

ときどき、テント生活をしているベドウインの集落が現れる。テントにテレビのアンテナがあるし、道路で携帯電話をかけている男性がいる。政府からの援助で半定住をするベドウインが現れ、スイカやジャガイモを栽培したり、オリーブの木を育てたりして生計を立てている。たくさんの羊の群れが、ノンビリと貴重な草を食んでいる。
古い生活と新しい生活が渾然一体となっている現在の様子に、暮らしが変化していく過程も想像できて、面白い。

一方で、ヨルダン人口の0、02%(1200人)はロマ人(=以前はジプシーと言ったが差別用語、インド系やアラビア人が多い)で、季節に応じて移動し、スリ・盗みで生活している。ロマ人が移動すると、ヨーロッパの観光地の各国大使館が、在留者に警報を出して注意を促しているほどだ。

ロマ人は身分証明がないので就職できないし、結婚の登録もできない。おまけに、結婚すると男性は働かず、女性と子どもが物乞いをして暮らす。
「ロマ人もテント生活をしていますが、ベドウインとは大違いです」と、モハンナドさんは嘆く。

「こんなところにレールがある!」と、誰かが驚いた声をあげる。
「あれは、人が利用するのではなく、アカバ港から輸出するリン鉱石を運んでいるのですよ」。折りよく、列車がノンビリとやってくる。

それをきっかけして、ヨルダンの経済や産業の話題に発展。
ヨルダンの国家経済で主要な役割を果たしているのは、リン鉱石・セメントの輸出と、観光業だ。
「出稼ぎに出かける者も多いですよ。彼らの99%は貯金して帰国しますから、個人生活にも、国家にも、大きな助けになっています・・・」。

一方、サウジアラビアからタンクローリーで原油を輸入し、エジプトからは天然ガスを買っている。福島原発の事故が起こったので、日本政府との間で進んでいた原子力発電所の開発は、キャンセルになった・・・。
中東の地にあっても、ヨルダンのエネルギー政策はたいへんだと感じる。

物流の基地らしい倉庫が現れ、軒を連ねている。そこを過ぎると、ちょっと賑わう街中を走り抜ける。蛇がのたうち回るようなアラビア文字の表示を眺め、地図を見つめても地名はわからない。
延々と砂漠を辿る道中は、変化に乏しい。高速道路を悠々と横切って行く羊たち。それを急かせるでもなく、ノンビリと待っている観光バス。時間への感覚に戸惑うのは、せっかちに生きている日本人だからだろう。

アカバを走り出してから2時間半、ペトラに到着。

多くの国と国境を接するヨルダンの現在の姿




【ヨルダンは、東にイラクとサウジアラビア、西にイスラエルとパレスチナ西岸地域、さらにエジプト、北にシリアと、多国家に囲まれている】

アカバ(ヨルダン)① 4月2日(土)旅の14日目

右舷にサウジアラビア、左舷にシナイ半島を眺めながら、10時頃、ヨルダンの唯一の港のアカバに接岸した。

イスラム圏の政治情勢の緊迫から、アデン港(イエーメン)への寄港がなくなり、代わりに、紅海北上後にアカバ湾へ入った。今日はペトラ遺跡、明日はイスラエル観光が実現する予定だ。

ヨルダン・ガイドはモハンナドさん。前に3年間警察官をし、ガイドに転じて14年。陽に焼けて、ユル・ブリンナーにそっくりなハゲ頭で、温和な表情ながら眼光が鋭く、あまり笑わない。わかりやすい説明を聞きながら、ベテラン・ガイドだと感じて、俄然、ヨルダンへの興味が現実的になっていく。

ヨルダンは、地理的に近隣諸国との関わりが重要な課題で、問題でもあるという。
バスの進行方向左側がイスラエル。その西方がエジプトのシナイ半島。右側はサウジアラビア。前方には、シリア・イラクの国境に続く。

中東に一旦事あれば、ヨルダンは、たちまちに巻き込まれてしまう。
例えば、ヨルダン西岸のパレスチナ地域は、中東戦争でイスラエルに占領されたし、イラク戦争のときには、200万人のイラク人が流入し、半分は未だにヨルダンで生活している・・・。

現在のヨルダンの人口はおよそ600万人だが、内100万人はイラクからの避難民だ。
それに、全人口の45%は15歳以下だから教育の課題は深刻だし、大人は働いて生計を得るのも大変だし、問題は大きいと痛感する。

現在もヨルダンは部族社会だ。
モハンマドさんは、「お互いのことがよくわかって、治安は非常によいです。日本に3年間住んだけれど、ヨルダンの方ずっと良いです」と、自慢する!。
国民の住所は部族長に届け、国との連絡は部族単位に行われているし、部族の規制が安定の鍵だとすれば、ウーンと唸りたくなる。

国民の94%はイスラム教のスンニ派で、国家としては、イスラムの規制が強い。
近隣のサウジアラビアやイエーメンのヘンな教え(ガイドの表現で、シーア派のこと)を受け入れている人々もいる。また、4〜5世紀にキリスト教が伝わった名残りで、少数のキリスト教徒もいる。だが、宗教はそれほど問題ではなく、政治的には安定している。

イスラム圏にしては、女性の地位が保証され、現在は5人の女性大臣と国会議員は8人、選ばれているという。

面積は北海道より少々広く、80%は砂漠だ。
水不足になりやすく、ダム・地下水(場所によっては、13メートル掘ると水が湧いている)からの泉に頼っている。2013年には、首都アンマンからパイプラインを引いて給水する計画が進行中。

義務教育は6・3・3制で、年間10ドルを納めれば、後は無料・・・。
税制は消費税16%、所得税12%。固定資産税0、01%・・・。
徴兵制は、1981年までは義務だったが、その後は希望者だけになっている・・・。

こうした基本情報が説明されるけれど、あくまでも、公式なものだろう。
ヨルダンはイスラム教スンニ派の国家として、国王が政治の実権を握り、一応、国民に信頼されている。現実には、義務教育の恩恵すらない人々はいるし、税金の負担ができない人々もいるけれど・・・。

モハンマドさんの姻戚関係の話が面白い。
「私の従兄弟(従姉妹)は現在196人います。これからどうなるかわかりませんが・・・。結婚式、葬式、犠牲祭などで、年に何回か親類が集まるときには、500人位になりますよ」と、事も無げに話す。親の世代には、複数の妻がいた者が多いからだ。
ヨルダン国王アブドラ(48歳)には、夫人1人、子ども4人の家族だが、実際にはあちらこちらに国王の子どもは154人!いるそうな。ハーレムを連想する。

2012年4月9日月曜日

王家の谷




【ルクソール、ナイル川西岸の王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿】

サファガ(エジプト)⑥ 4月1日(金)
死者の領域とされる太陽が沈むナイル川西岸へ、ボートで渡る。
歴代のファラオが眠る「王家の谷」は、現在も発掘が続く。新王国時代になってから造営されたファラオの墓群の規模は、どの程度になるかはわからないという。
入り口から、電気自動車(トロッコ)に乗って、太陽がカンカン照りつける岩原をゴトゴト走り、62番目の「ツタンカーメン(第18王朝の王、紀元前1358年頃?)」の墓と、9番目のラムセス6世( 第20王朝の王、紀元前 1145年頃?)の墓を観る。二つの墓は炎天下の遮るもののない道を歩いて、ご近所同士だ。
盗掘を避けた墓は、あの目立つピラミッドとは逆に、岩を掘り下げて地下に潜ったが、どの墓も目ぼしい副葬品のほとんどが盗まれている。
「工事に携わった労働者や関係者なら、なにが運び込まれたか、わかるんじゃないの?」「そうよねえ。情報はあるし、泥棒をしようと思えば、好都合で簡単よねえ・・・」と、ヒソヒソ声が聞こえる。



【王家の谷の域内は撮影禁止である。これは域外の葬祭殿に近い部分】

そんな中で、1922年に発掘されたツタンカーメンの墓は、奇跡的に豪華な副葬品の数々が残っていたのだ。ハイサムさんの解説では、「わずか6年間の治世で、18歳の若さで亡くなった王には実績がなかったので、質素な墓でした。盗人は大したものがないと考えたのでしょうね」と。

盗人から難を逃れ、こうして、古代エジプトへの想像をかきたてる貴重な遺産を観ることができるのだから、盗人の判断に感謝すべきだろうか。あるいは、盗掘を仕事にする人間が、「労多くして実りなし」とソッポを向いたのなら、見事な強かさだと変に感心したくなる。

ツタンカーメンのミイラが、玄室に安置されている。壁には、死後の審判を司どる再生と復活の象徴の神・オシリスの形をしたツタンカーメンが描かれている。
青年王の美少年の面影を留めているお馴染みの黄金のマスクは、カイロにある。
今回は、残念ながら実物の鑑賞はできない。だが映像で観る輝きは、エジプトのファラオの絶大な存在を象徴している。

ラムセス6世の墓は、鮮やかな壁画が素晴らしい。「夜の書」「昼の書」の解説を読みながら、この世とあの世に生き続けるファラオの野望と、当時のファラオの生活を想像し、堪能する。

次に訪れたハトシェプスト女王の葬祭場には、圧倒された。大きい岩山をそのまま利用し、3階建ての宮殿のような外観だ。長いアプローチを歩き、階段を上るだけで、いささかへばる。すでに触れたが、女王はなかなかの遣り手で、乳香貿易を盛んにおこなった。ブント(現在のソマリア)の交易では、キリン・トラ・野牛・木材を輸入し、当時の様子が生き生きと葬祭場のレリーフに描かれている。

4時過ぎ。ルクソール大橋をバスで渡り、再び生者の地のルクソールへ戻る。
窓外を眺めながらの市内観光は、同時に、エジプトの歴史のまとめだった。
カメラストップをし、散歩をしながら、午前中に訪れた遺跡を遠くに望みながら、ルクソール神殿へ。
この神殿は、カルナックのアモン神殿の付属神殿として造られ、カルナック神殿とスフィンクス参道で繋がっている。



【ルクソール神殿第1塔門前のラメセス2世の坐像】

第1塔門前には2本のオベリスクがあったが、その1本は、パリのコンコルド広場へ運ばれていると聞き、「あれだ・・・」とパリで見たオベリスクに思いが飛ぶ。
フランスやイギリスは、かつてエジプトを植民地として支配した。遺跡にあった古代のエジプト文明の数々が、持ち去られた。それらの返還交渉が今も続いている。

紀元前332年、マケドニア王国のアレキサンダー大王は、エジプトを征服し、テーベ(ルクソール)でプトレマイオス朝を開いた。その時代の神々を祀る儀式、戦争の様子が、浮き彫りや沈み彫りの技法を縦横に活用したレリーフに遺っている。
「プトレマイオス朝最後のクレオパトラ女王は、ギリシャ人ですよ」と聞きながら、最後のカメラ・ストップ。

夕刻、ルクソールを離れ、サファガヘ向けて出発。片道3時間半近く。コスタ・ルミノーザ号へ帰着したのは、夜9時近かった。11時出港。

ルクソールのカルナック神殿




【カルナック神殿、スフインクスの並ぶ参道から】

サファガ(エジプト)⑤ 4月1日(金)
走ること2時間半。道中のハイサムさんのエジプトについての講義?が面白くて、退屈しなかった。ルクソールのカルナック神殿に到着し、古代エジプトの遺跡巡りが始まる。

「ルクソール」はかつて「テーベ」と呼ばれ、古代エジプトの政治・宗教・文化の中心として栄えた古都だ。
テーベは第11王朝(中王国時代)から首都になったが、それがきっかけで、テーベの市神だったアモンが、諸神の王の地位を占めた。「アモン・ラー」として、「太陽神ラー」と同一視され、 国家の最高神となったのだ。

アモン・ラーのために「カルナック神殿」が建造された。
古王国時代の王(ファラオ)は、太陽神の子で、神と考えられていた。
新王国時代になると、王はアモン神の庇護を受けるものに変化し、諸王は競ってアモン神に捧げる神殿・オベリスク・神像の建造を進め、長い年月をかけて、カルナック神殿は出来上がった。

ずらりと並んだスフィンクスに迎えられる恰好で、参道から入る。
そこから先は、感嘆詞を発しながら、迷路を辿る感じだった。あらわれる全てのものに、圧倒された。写真集や図録を眺め、書籍を手にしてイメージしたことが、知っていたつもりのことが、空中分解している。
エジプトのファラオの権力の凄さに、言葉なく、唸るのみだ。

ラムセス2世(前1290〜前1223 第19王朝のエジプト隆盛期の最後の王)像。とてつもなく巨大で、胸に手を合わせ、正面を見据えて立っている。

134本の開花パピルスの石柱が並んでいる。紀元前3000年頃に、すでに紙の1種として利用されたパピルス(カヤツリ草)を束ねた形の石柱。花と蕾が、高さ27メートルもある柱の頭部を飾っている。柱には絵が刻まれて、すでに崩落したものもある。なるほど。こんなにたくさんの柱は、記録のために造られたのだろう。

さらに進むと、一枚の石で建造されたオベリスク(注1)がある。横倒しになっているのは、ハトシェプスト女王のオベリスク。夫トトメス2世(注2)亡き後、幼なかった息子トトメス3世(第18王朝、紀元前1502?〜1448年? )の摂政となり、その後、エジプト初の女性ファラオとなっている。

(注1)オベリスク・・・古代エジプトの記念碑。太陽神ラーの光の矢の象徴と言われる。エジプト遺跡発掘に従事したヨーロッパの国々が、オベリスクを自国に運び出し、中でも、パリにあるオベリスクは有名だ。ファラオの遠征記念に造ったオベリスク、例えば、トトメス3世の遠征記念オベリスクは、イスタンブール、ローマ、ロンドン、ニューヨークに運ばれている。

(注2)トトメス2世・・・ハーレムの側室の生まれだったが、正室の子のハトシェプストと結婚したので、正当な王となった。しかし短命で、妻や息子のトトメス3世(シリア・フェニキア・パレスティナ・ヌビアを征服し、エジプトの最盛期を出現している)の偉業の前には、影が薄い。エジプトのファラオですら、権勢を誇る女房には頭があがらないという裏話に、人間臭さを感じて、面白かった。

大スカラベ(フンコロガシ)前で自由行動になり、思い思いに歩く。
丸いスカラベは、太陽を象徴して造ったものだとか。その背後に、「聖なる池=浄めの池」が見える。池は、地下でナイル川につながっている。

ファラオの絶大な権力と自己顕示欲が、途方もない規模壮大な建造物を造った。
天文・土木建築の知識をはじめ、それを実現した技術力と驚異的な財力を確認して、「百聞は一見に如かずだ」と痛感。
また、自分よりも前のファラオの建造物を破壊して、その石材を再利用した偉業!を眺めながら、「後は野となれ山となれ。知ったこっちゃないよ」と、自己中心のファラオの短絡的な考えが伺えて、呆れてしまった。

外へ出ると、集落のモスクから、お祈りやお説教の声が鳴り響いてくる。今日は金曜日で、イスラム教の聖日だ。モスクに入りきれない人たちが、外でお祈りをしている。たった今観たばかりの過去の世界と、生活に根ざしている現代の一神教の世界が対比されて、エジプトの宗教の不思議さを感じた。

ナイル川の賜物?は




【ナイル河畔の運河沿いの農村風景】

サファガ(エジプト)④ 4月1日(金)
バスで走ること2時間。何時の間にか風景が一変し、道路沿いに樹木が茂り、花々が咲き乱れている。ナイル川に近い。
進行方向の右手の運河は、ナイル川から引かれたものだ。ところどころに集落が現れ、畑が続く。トマト・キウリ・ルッコラが栽培されている。綿花や稲が育っている。刈り取られたさとうきびをロバの背に満載して、男性がノンビリと歩いている。
家の周りの囲いには、牛・水牛・羊・山羊が放牧されている。労力として使われ、食用にもなる。この辺りの農家は、原則として、自給自足だという。
緑豊かな農村風景は、それまでの砂漠の世界とは大違いだ。

ヘロドトスが鋭く洞察したように「エジプトはナイルの賜物」だ。その世界が、目の前に広がっている。
しかし、ハイサムさんの説明では、最近はナイル川下流域の大洪水はほぼ解消しているという。ナイル川上流にアスワンハイダムが建造され、工業用水が確保され、各地に運河がつくられたからだ。
その結果、ナイル川(全長6690キロメートル、流域面積3007万平方キロメートル)流域の農業用水が減って、米の輸出国から輸入国へ、あるいはサトウキビ畑の栽培面積の減少など、農業問題が出ている。エジプトの食糧自給率は25パーセント。
最近、南の隣国スーダンと交渉して、水不足の解消の話し合いが進んでいる。
洪水があればこそ、肥沃な国土が確保できたのだから、人知を傾けても、自然を相手にするのは、「一難去ってまた一難」だ。

建築途中の家々が並ぶ集落を通る。
2階建ての家屋に、あるいは平屋建てもあるが、屋根に鉄筋のツノが突き出ている。錆びて赤茶けた鉄筋もあって、日本だったら、建築途中に倒産したのかと疑ってしまいそうだ。
なんとも奇妙だから、不思議そうに眺めていると、「いつでも増築できるように、準備しているのですよ。ここでは大家族が一緒に住むのが普通ですから・・・。まだ結婚していない子どもたちのためです」とハイサムさんが解説する。
「ヘェ〜」。何年先になるかわからないのに、農村の人々の家族の繋がりと、遠大な計画に驚く。親の意に反して、子どもが村から離れるなんてことはないのだろうか。イスラムでは当然の習慣なのだろうか。

「エジプト人の砂糖の消費量は、一人当たり16キログラム(1年間)ですよ。紅茶にはスプーンで数杯は入れます。甘いものが好きというよりも、エネルギー源になっているのです。砂糖には目がない・・・」。

おやおや、「目がない」なんて、微妙な日本語のニュアンスが飛び出したので、感心する。いずこの国でも、ガイドの日本語力には、しばしば驚かされる。

エジプトの現実の姿を聞く




【道端で戦車が警戒にあたっている。動乱のさなかであることを知る】

サファガ(エジプト)③ 4月1日(金)
「エジプトで動乱が起こったのは、1月25日まで警察国家だったからです。
国民の29パーセントは学校へ行っていませんでした。国民の多くは、貧しいため、教育に対する意識がないためです。それを解決しない政府の問題、特に教育の重要性を考えなかったエジプトの現実があります・・・。」

窓外の風景の移り行きを眺めながら、ハイサムさんの話しに耳を傾け、旅に出かけると決めてから、切抜きをした新聞記事が重なってくる。
「中東政変 背景に人口増」(朝日新聞、2011年2月8日)の見出しで、エジプト観光の参考になるだろうと、持参している。

大略引用すると、以下の3点が指摘されている。
1、若い世代急増・・・動乱で失脚したムバラク氏は1981年に大統領に就任した。就任前の1980年と2010年の人口増は、国連の人口統計では、4400万人から8400万人になっている。特に若者の比率が高く、24歳以下は全人口の52パーセント(日本では約23パーセント)だ。
2、失業・食糧高に不満・・・急増する若者に、雇用の機会が生み出せず、エジプト男性の15歳〜24歳の失業率は23パーセント(2005年)。労働世代全体では9パーセントだから突出している。さらに食糧価格の高騰がある。砂漠の国は小麦を輸入に頼るので、世界の食糧事情の変化を受ける。
3、ネットが連帯生む・・・不満を耐えて来た人々は、国営メディアの情報統制と秘密警察の監視で、行動に移れなかった。しかし、1990年代以降、衛星テレビの放映が始まり、特にアラビア語の放送(アルジャジーラ、アルアラビアなど)が、アラブ諸国の政権に厳しい報道姿勢をとったので、”官製でない情報”を得られるようになった。さらに、ネットの普及で、市民自らが情報発信できる強力な道具を持った。動乱の連帯は、フェイスブックやツイッターなどのネットメディアが切り札となった。云々。

エジプト動乱の背景については、新聞記事程度しか理解していないが、渦中に身を置くガイドの話は、個人的な意見だとしても切実な生の声で、よくわかる。

「エジプトでしっかりしているのは軍隊です。今回の動乱で、国民は軍隊を信頼しました。エジプトでは、男性は20歳から30歳までの間に、高校卒業なら3年間、大学卒業なら1年間、兵役の義務があります。その証明書が、就職には必要なのです。兵役は視力や身体の障害があれば免除されるので、難聴や弱視のフリをして逃れる者もいますよ。さらに軍人(職業として)になるには、160センチメートル以上の身長がないとなれません。・・・」。
エジプトの人口急増の中には、周辺国からの出稼ぎも多い。家族で移民となった者は教育の機会から遠く、正規の就職の証明書をもらえず、スラムでの貧困を象徴する。育ち盛りの栄養不足から、身体的なハンデもある。

「エジプトの教育制度は、6・3・3・4制で、前半の6・3が義務教育です。小学生は共学で、中学生は別学になります。学費は年間2000〜3000円位。
義務教育以後の進学では、中学3年の成績で高校への進学が決まり、さらに大学へとつながっていきます。中学3年で将来が決まるので、とても重要です。普通高校は理系と文系に分かれ大学進学をするものが多い。他の高校では観光や農業の実学中心の教育をして、卒業後は就職をします。
大学生の92パーセントは学費が安い公立へ進学しますが、全国で15校ですから、競争が激しい。残りの8パーセントは、10校ある私立へ進学します。私立だと、学費が年間10万円かかるし、フランス系やイギリス系の学校へいくには80万円は必要です。そんな事情で、進学するのはお金持ちでないと難しい・・」。

エジプトで高等教育を受けられるのは、才能があり、本人の意志が強いこととともに、経済的に恵まれている階層であることも必要なのだ。貧富の差をなくすなど、教育が一般化する以前の問題の解決が、国家の将来を切り拓く要因だと感じた。同時に、革命を成功させるには、教育の力の認識が大切なのだと痛感した。
日本の明治維新以降の近代化でも、私学の多くが相次いで創立されたし、欧米のキリスト教宣教師が、伝道の手段とはいえ、志を高く掲げてミッションスクールを創設した。教育を重視して、多くの人材が育てられたのだ。

「エジプトのエネルギー源は、水力・風力・火力発電・石油・天然ガスなど、地域によって多彩です。石油は1日に50万バレル供給され、紅海やシナイ半島へ15万バレル運ばれています。ガソリンは1リットル当たり25円位。天然ガスは1立方メートルが9円位。その他の鉱物資源として、リン鉱石・銅・マンガン・金を産出します。古くから、ヌビア地方(ナセル湖に面して、スーダン国境に近い地方)は金の産出が多く、アブ・シンベル神殿の王の副葬品に使われていました・・・。」

やっと、エジプトらしい古代社会との繋がりが登場。
目的地のルクソールに到着する前に、エジプトの現状が紹介されて、「駆け足の観光では勿体ないなあ・・・」と、ため息が出かかっている。

厳重な警戒下のドライブ




【砂漠を横断しナイル河畔地域に通じるハイウェイを行く】

サファガ(エジプト)② 4月1日(金)
8時半上陸し、ルクソールへ向け出発。
ガイドはハイサムさん。若い助手の他に、威厳を持った人がいる。

「今日は、エジプト動乱後、はじめての仕事です。とてもうれしい。朝早く、カイロからこのバスで来ました。・・・」と、ハイサムさんがエジプトの近況を交えながら自己紹介。

ところで、最近のエジプト情勢は治安面での警戒が必要で、ルクソール観光には、コンボイ(隊列)を組んだ観光バスの前後に、警官を乗せた車がついた。日本人専用で単独に移動するバスには、警官が運転席の後ろに座って見張った。威厳を持った人は警官だったのだ。
観光中、背広を着た警官は一言も話さないし、座席に窮屈そうに座っている太り具合も不自然だった。「背広の裏のポケットには、実弾の入ったピストルを持っているのです」と、ガイドが小声で囁いたので、厳しい表情で近寄り難い立場を了解。



【砂漠を横断するハイウェイ。Googleマップの衛星写真から】

サファガとルクソールの間は、砂漠道路が通じている。走り出して15分も経っていないのに、通せんぼをするチェックポイントがある。制服姿の軍人と警官、黒の長い衣服を着たのは公務員だろうか。数人がバスの横に立っている。
運転席から顔を出したドライバーが書類を見せ、同乗の警官が一言話すと、道路を塞いでいたフェンスがどけられ、無事に通過。
コンボイを組んでいないと、チェックは厳しいという。その後も、チェックポイントを通るたびに緊張した。

1月25日以降のエジプト情勢は、ムバラク氏が失脚したとはいえ、まだまだ安定した先が見えない。
ハイサムさんは友人と何度もデモに参加したという。エジプトの現状を語りながら、「これは革命です・・・」と目を輝かせたのが、印象に残った。

砂漠道路は、紅海とナイル川に挟まれた東方砂漠を横切っている。見晴るかす砂漠の中に、ときおり、石油や天然ガスの採掘会社が現れる。軍事基地も多い。

サファガ寄港




【サファガ港に船は接近、アフリカ大陸が見えてきた】

サファガ(エジプト)① 4月1日(金) 旅の13日目
5時半に起床。
中東情勢の懸念から、一度は諦めたエジプトだったが、紅海側の沿岸からの上陸が可能になり、今日はサファガに寄港してルクソール観光に出かける。
依然、カイロ市内の治安が不穏なので、エジプトの地中海沿岸には寄港できず。ギザのピラミッドが見られないのは残念だけれど・・・。

6時半頃、遠くに陸地が細長く現れ、ゆっくりと近づいて行く。リーフが迫って、船が大きく旋回しながら港を目指している。早めの朝食を済ませ、最上部の甲板で海の風景を楽しむ。

小さな舟に1人か2人乗って投網をしている。漁を終えたのか、スピードをあげて港を目指している舟。その航跡に海鳥が集まって、海面すれすれに飛び交っている。ルミノーザ号と同じように、港に向かう大型の船が増えている。波頭に朝日の輝きが散っている。
「無事にエジプト観光ができますように。世は異もなしに・・・」と思う。

キャビンに戻って下船準備をしていたら、何時の間にか岸壁が迫って、あわててベランダに出る。

8時接岸。タグボートに押され、案内され、ロープが投げられ、階段が延ばされ・・・。お馴染みになった一連の見事な港湾作業に見とれる。
大きな船体なのに、揺れることもなくスーッと港に収まるのだから、感心する。

白い制服を着た船長と、港の責任者が挙手の後、握手をしている。
気がつくと、隣の波止場には「コスタアレグラ号」が停泊している。クルーズに興味を持つきっかけをつくった船だ。「もう、10年前になるなあ・・・」と、懐かしい。



【サファガの位置、エジプトの紅海に面した港として重要】

サファガは、古くからアフリカ大陸のイスラム巡礼者が、紅海を横切って対岸のアラビア半島へ渡り、メッカへ向かうために出港する港だった。最近は、インドや東南アジア方面から、ルクソールの観光客を迎える港として人気がある。また、近くで産出するリン鉱石とセメントの積出港として、活動している。
たくさんのベルトコンベヤーが動いているし、 30台ほどのバスとジープ10台が待機している。人々の動きが激しい。

船上生活風景 ②




【北回帰線通過のお祭り、海神ネプチューンが登場】

3月31日(木)旅の12日目
連続していた終日航海の最後の日。今朝も5時半起床。
朝食へいくと、いつもより人が少ない。昨夜のカーニバルで、お疲れさんだったのだろう。

エクササイズに参加後、椅子取りゲーム(コーク、ファンタ、スプライト、シャンペーンの掛け声で移動して椅子に座る)を楽しみ、汗をかく。

その後、キャビンでゆっくりしていると、掃除をするボーイが来たので、しばらく
デッキに出る。

ボーイは、フィリピン人のハイデムさんだ。因みに、彼の話では、ルミノーザ号の乗組員の75パーセントは、フィリピン人だという。レストランやジム(エステも)のサービス、甲板の掃除、厨房のコックなど、主要な労働を担っている。担当の仕事以外にも、手が空くとデッキの手すりや階段のペンキ塗りをしている者もいる。こうした縁の下の仕事は、アジア系ではフィリピンの他はインドやインドネシアから、東欧系ではクロアチアやスロヴェニアからの人が目に付く。ほとんどが祖国に家族を残した出稼ぎだ。彼らは、会社と半年毎に契約し、その期間は上陸せずに船に拘束され、1日に11時間半、働くという。

レストランの指定席のウエイターのティルソーさんは、ベストやネクタイの色が他のウエイターと違っている。彼の話では、周囲にあるいくつかのテーブルをまとめる立場で、服装で区別しているという。「レストラン全体の責任者になるのが、僕の夢です」とのこと。

船長はじめ上級乗組員はイタリア人が中心で、フランス人とイギリス人が少数乗っている。彼らもまた、航海ごとに船会社と契約するとか。
職責によって、人種や民族、国籍による身分差が大きいし、収入も段違いだという。

午後1時頃、北回帰線を南から北へ通過するので、海神ネプチューンが登場する「海の洗礼」と称するパーティーが催される。

数日前マスカット近くで、北から南への北回帰線を通った。あれから、アラビア半島の南沿岸を航海し、紅海へ向かったのだが、もう、だいぶ前のような気がする。
パーティーは、イタリア語の説明だったので、内容がイマイチ分からず。
異様な衣装をまとった海神が、厳かに話したり、踊ったりして、祈り?を捧げた(と、想像力を頼りに理解した)。
その後、クリームが入った大きなボールを抱えたお付きが、海神の前にいる観客に、次々にクリームを塗りつけて、大騒ぎに。ほんのちょっと、鼻先に。顔一面にデコレーションケーキのように。ハゲ頭に帽子のように。中には、裸のいたるところに。追いかけられながら、塗りつけられた。

パーティの間の昼食は、イタリアンの海鮮料理。オリーブオイルとニンニク、香草類にマリネした魚介類、イカやタコの唐揚げ、大きなサーモンをオーブンで焼いたものなど。日本人には好評だったが、やや油っこい。

午後、キャビンで寛ぐ。
バルコニーに風が吹いて、外気温の割りに涼しい。ときおり、大型のコンテナ船とすれ違い、経済活動を担っているルートだとわかる。甲板で手を振っている人がいるので、こちらも手を振って挨拶。

4時から、夫は「スエズ運河」の英語のレクチャーに参加。クルーズのハイライトになるスエズ運河に、期待を膨らませる。

夕食時に、コスタ社の誕生日(1946年3月31日設立)なので、レストランのスタッフが張り切ってサービスし、お国柄をあらわすダンスや器楽、歌を披露する。
終日航海の4日間は退屈する暇なしで、予想外に動き回った。

船上生活風景①




【豚丸焼き調理のデモンストレーション】

3月30日(水)旅の11日目
5時半、目覚める。時差があるのに、いつも同じ時刻に起床できるのはどうしてなのか。不思議な習慣?

テレビに映る船の針路を確かめると、右舷側がサウジアラビア、左舷側はエリトリアで、紅海を北上中。陸地を眺めながらの航海は、好奇心を掻き立てる。地図を広げて確かめながら、ノンビリする。

9時半にストレッチに出かけ、その後、クレイジー輪投げやゲームを楽しむ。
エンターテイメントチームのスタッフから、「ミヤーコ」とご指名で、アシスタントを務める。どうやら、アラビアンナイトのベリーダンスで、目立ったらしい。
以後、航海が終わるまで何かと引っ張り出され、姿を隠しても「ミヤーコ」とマイクで呼び出された。

女性に対してサービス精神旺盛のイタリア人男性・ロザリオに気に入られて?、なにかとしつこく声をかけられ閉口する。スタッフも心配して、ロザリオに注意する始末。小柄だから若い娘!と錯覚されたか? まさかね・・・。夫はこれまた呆れて、「うちのカーチャン、よーやるよ」と、笑いっ放しだった。

プールサイドで、豚の丸焼きの調理のデモンストレーションを見学。
すでに朝から3時間半も200度Cのオーブンで焼かれたものが運ばれて、切り分けられる。続いて、カットされた豚肉やドイツ料理で、ビールパーティーが始まる。
これが今日の昼食だ。毎日、どこかの国の料理を見事に飾り付けて供し、その後、ワイワイ、ガヤガヤと食事になる。いろんな国の人との交流を楽しむひとときだ。

5時から日本人のプライベイト・パーティーへ参加。
主催は、今回のクルーズを企画した日本の旅行社(ワールド航空サービス)だ。
キャプテンはじめ上級スタッフ(ホテルマネージャー、ゲストリレーションマネージャー、クルーズディレクター)、日本人乗務員の文子さんが参加。
日本人乗客は少ないけれど、今後の集客の願いもあって、特別なはからいだという。たった16人の日本人の乗客のために、今回のクルーズに日本人の乗務員がいるのも、船会社の配慮だったという。

夜11時から、コスタクルーズの寄港地をイメージしたカーニバル(仮装パー
ティー)があったが、あまりにも眠くて、パス。ヨーロッパ人は夜が強い民族だと思いながら、日本人はおやすみなさいでした。

イエーメン沖を無事に抜けて紅海へ




【船室や船内各所に映し出される航跡図、ソマリア沖では消されていた】

3月29日(火)10日目
5時半、起床。昨夜は遅くまで踊り狂ったにも関わらず、快調に目覚める。
どうやら、普段ジムで鍛えているのは、効果があるらしい。誰よりも元気で最後まで踊っていたのだから・・・。夫はホトホト呆れ果て、「あんたさんを見直したよ」と。どういう意味で?

ストレッチに参加した後、10時から2回目の避難訓練。クルーズで複数回の避難訓練があるのは初めてだ。クルーによると「船長は、海賊対策に神経質になっている」。全員が集合するのに、40分かかったが、いざという時には大変だろうなあ。

昼食はメキシカン料理だったので敬遠し、レストランへ。午後は、キャビンで日記を書いたり、読書したり。久しぶりに落ち着く。
夕食はフォーマルドレス。だんだん船内生活のリズムに慣れて、メリハリを楽しんでいる。非日常のクルーズの良いところだ。

夜9時から、エルビス・プレスリーの曲のコンサートへ。
太り気味で年配の歌手(ネスター・ボナコレシ)は、エレキギターをかき鳴らし、体を揺すらせて、精一杯プレスリーのそれらしき風情を披露したが、イタク同情した。船上で上質のエンターテイメントを望むことが、土台、無理なのだと、そっと抜け出す。

しばしデッキ散策をし、キャビンへ戻る途中のロビーでは、たくさんの人が群がっている。覗き込むと、鮮明な映像が写し出されて、すでに紅海を北上している。

昨日は、イエーメンの沖合辺りでは、テレビの航跡図は全く消え、毎時30キロノットの速度で船体の揺れを感じたのに、今は16キロノットにダウンしている。
先ほど、昨年秋のMSC社の客船に乗船したときに馴じんだマークの貨物船が、すぐ近くを並行して航行していたし、前方にも、後方にも、数隻の船が見えた。
他の船と一緒になって、「それ急げ」、「やれ急げ」、のスピードを出していたのだろう。ソマリア沖の航行の不安に対して、コンボイを組んで、危険水域を急ぎ足で通過する措置をとっていたのだとわかった。

アラビアンナイト




【船上のアラビアンナイト・パーティに仮装して参加】

3月28日(月) 旅の9日目
5時半、起床。9階のデッキに出かけ、水平線に続く穏やかな波を眺めながら、コーヒーとジュースで目を覚ます。

その後、2階のレストランで朝食。厨房が工夫した「日本食もどき」のメニューの材料は、ドバイで冷凍品を仕入れるという。ウドンや納豆などは嬉しいが、ご愛嬌は、航海中の朝食に必ず登場した「寿司」と称するサーモンの握りだ。冷凍の握りが解凍されているから、ご飯のコシがない。
「これが日本の握り寿司といわれちゃね・・・」と、日本人の評価は厳しい。
外国人はサーモンに馴染んでいるし、「寿司があるよ」と、やってくる。
和食でないとダメな日本人が、「これしか食べるものがないなあ・・・」と食べている姿には、お気の毒を通り越して、感心する。

9時からのストレッチに出かける。ヨガ、ピラティス、エアロビックスをミックスしたような動きだから、30分もすると体がほぐれてきて、気分爽快だ。
インストラクターはイタリア人の男性で、言葉をほとんど発せず。手振りと顔つきで自ら模範を示しながら、進行する。英語が話せないインストラクターと、イタリア語がわからない参加者は、こういうスタイルで、コミュニケーションをしている。参加者はインストラクターの真似をしながら、「ああだ・・・」「こうだ・・・」と賑やかに教え合い、楽しんだ。

今夜は、「アラビアンナイト」の行事があるので、終日、それに備えた企画が続く。手工芸コーナーで、アラブ人男性のターバンや衣装、ハンジャル(半月刀)などを紙で作り、夫のための衣装の準備をする。
オリエンタルランチ、アラビアンエンターテイメントにも、張り切って参加。

プールサイドのアラビアンダンスの練習へ。水戸のジムでベリーダンス教室を横目に見る機会はあるが、そんなに激しい踊りではない。「手や腰は、艶めかしく動かして・・・」と言われながら、汗をかく。夫は、「踊るなんて、できるはずがないよ。わかっているでしょ・・・」と参加せず。ごもっとも。

ところで、昨夕サラーラを出港してから、キャビンと随所にあるテレビ画面の航路表示が消えた。機械の故障かと思っていたが、そうではなかった。イエーメンとソマリアの沖合に跋扈する海賊対策だ。進路や速度などの情報を知られないため、GSPを切ったのだ。カモになる船を待ち構える海賊に、船の現在地の情報を遮断した措置。テレビ画面上の船は停止状態だが、波しぶきをあげている。

昨日、サラーラ観光で乗客が上陸している間に、船の乗組員だけの緊急避難訓練が行われている。明日は、船全体の2回目の避難訓練をするという放送がある。のんびりしている航海に、いささかの緊張を感じ、無事を祈るのみ。
船内新聞を読むと、イエーメンで弾薬庫が爆発し、110人が死亡したとのこと。
クルーズの最初の予定では、明日はイエーメンの港町アデンに寄港して観光するはずだった。

夕食時に、日本人も、アラブの王様やお姫様になった気分で集まる。
それぞれがマスカットの上陸時に買った衣装に、工夫を凝らしている。こんなとき、徹底して遊べる人と、斜に構えている人に分かれるから、愉快だ。
性格や年齢にもよるだろうけれど、所詮は「阿波踊り」。「参加するからには、楽しまなくちゃ・・・」の精神が大事?。
持参しているオレンジ色のスカーフとロングドレスの裏で肌を覆い、水色のベリーダンスの衣装を着た私。夫は紙で作った衣装で、アラブ人に多い髭は自前だ。
結構、様になったカップルでした!?。



【ダンスパーティで人々に混じり踊りまくるみや】

夜遅くまで、船内はアラブの雰囲気に溢れ、アラビアンナイトのパーティーで盛り上がった。ベリーダンス、グループダンスで息を弾ませ、国籍、民族、言語、宗教を超えて、年甲斐もなく童心に返り、楽しんだ。
マスカットのスークで買ったベリーダンスの衣装。喜寿記念の一張羅になりました!