2012年5月9日水曜日

帰国の途へ(個人的なメモが中心)

4月9日(土)〜4月10日(日)〜4月11日(月) 旅の21日目〜22日目〜23日目

4月9日午前9時頃、サヴォナ港でコスタ・ルミノーザ号を下船し、帰国の途に着く。バスでミラノへ向かい、そこから飛行機でドバイへ。さらに乗り継いで成田へ向かう。成田へ到着するまでの各地で、時差が目まぐるしく変わるので、乗り継ぎの肝心な時間だけは間違えないようにと、メモをして確認を繰り返す。

丘陵一面に、黄色の絨毯を敷き詰めたような菜の花畑が広がっている。イタリアの春の訪れをバスの窓外に眺めながら、次第に夢から覚めていく。
丘の傾斜地にはぶどうの木も多い。夫婦が土をおこしている姿や、数人の農民がグループで作業をしている様子を眺めていると、農業中心の暮らしぶりが伝わってくる。辺りは、野菜や果物の栽培が盛んなのだろう。

ポー川の上流辺りを走っていると、間もなく田植えを始める準備がすすんでいる。
ガイドは、「古いイタリア映画・”にがい米”の舞台となった穀倉地帯ですよ」と言う。旅仲間の多くが、映画を通して外国への関心を満たしていた学生時代に遡って、「ほら、シルヴァーナ・マンガーノは、ど迫力あったなあ・・・・」と、思い出話が賑わう。
さらに「日本からの農業視察団が、年間で30〜40団体は来ます・・・」と説明が続くと、「稲作は日本の方が本格的なんじゃないの? 何を視察するんだろうねー」と、てんでに不思議がる。

バスの進行方向の前景には、イタリアン・アルプスが連なっている。今年は寒暖差が大きくて、山脈には深い雪が残っている。それでも山裾の樹々には、新芽が萌え出ている。
素晴らしく晴れた空を背景に、モンテローザが輝いている。車中に歓声があがって見とれる。「モンテローザの北には、マッターホルンがあるなあ」と、10年前のツェルマット滞在を思い出す。

11時半頃、ミラノのマルペンサ空港に到着。まずは移動の第一段階。
搭乗手続きを済ませ、15時10分に搭乗口集合で解散。
身軽になったので、免税店で買い物をしたり、昼食をしたり。たっぷり時間があったが、船上の日々よりも疲れる。

予定の15時30分よりやや遅れて、エミレーツ航空94便は離陸。
座席前にあるナビゲーターで飛行ルートを辿りながら、機上から見下ろす。雲が切れる束の間、地上の集落が見える。峻烈な谷間にも人が暮らしている。川の流れが網の目のようにつながっていくのが、面白い。

ミラノからクロアチア、ルーマニア、ブルガリアを経て、黒海を横切る。アンカラ上空を飛び、トルコ領内を抜ける。バグダードからイラク領内を南下していく。ペルシャ湾に出ると、クエート沖、サウジアラビア沖をかすめながら、ドバイへ。

結局、6時間の搭乗中、飛行ルートを辿って時間つぶしをし、ドバイ着は23時半頃。時差は2時間。ミラノとドバイ間は、ビジネスマン風の乗客が多かった。

空港ロビーは夜を知らない空間だ。真夜中だというのに、昼間の賑わいと変わらない。体内時計も狂いっ放しで、休息どころではない。
日が変わり、4月10日の早朝2時集合まで、免税店を覗いたり、本を読んだり。

定刻2時50分、エミレーツ航空318便がドバイを離陸。日本の時刻に合わせるために、時計を5時間進める。飛行時間は9時間45分の予定だから、本格的に休息する。

日本からの旅立ちは、福島原発事故を避ける乗客で満席だったが、帰りは半分位だった。よほどの事情がない限り、日本へ出かける外国人はいないらしい。異常事態の深刻さを痛感する。すぐ横の窓側の座席が3席空いているから、これ幸いと移動し、ゆっくり横になって、熟睡。

周りの音で目覚め、窓から外を覗くと、雲ばかり。徐々に高度が下がり始める。
空気が靄って、視界がはっきりしない。ところどころ、桜の花が咲いている風景が見える。花曇りの季節、4月10日(日)夕刻5時過ぎ、成田に降り立つ。
無事に日本に帰って来たのだと、ホッとする。

スーツケースを受け取ると、そのまま、前泊したビューホテルへ。車を預けているので、一晩泊って4月11日(月)、水戸の自宅に帰る。




クルーズ最後の寄港地はナポリ(イタリア)

4月8日(金) 旅の20日目

遠くの島に朝陽が顔をのぞかせて、ゆっくりと昇ってくる。冷気を含んだ潮風に吹かれながらデッキを散歩し、その後、早々と朝食を済ませる。
最後の寄港地となるナポリには、8時入港。

入港・出港は、ドラマティックだ。
海上からのパノラマが、次第に明らかになって大きくなっていく入港風景。
水平線の彼方に、山や崖がぼんやりと姿を現し、やがて、樹木の茂みや家々が重なってくる。車の往来が蟻のような動きに見え、目を凝らすと人が歩いている。どの港でも、人々の日常は同じように見えながら、背後に拡がる気候風土の違いを思う。連綿と続いて来た人々の暮らし、彼らが生み出した文化を想像する。訪れる土地への期待に、胸が膨らんで行く。
しばし踏みしめた土地の感覚を反芻しながら、港から遠ざかっていく出港風景。
その土地の新たな見聞が確かな記憶となって、静かな興奮が心を満たす。
いずれも、クルーズならではの醍醐味だ。土地の全貌を捉えるのには、船上からの眺めは得難い。

2000年5月のクルーズでは、ナポリ港に寄港して、郊外のポンペイを訪れた。
ポンペイ遺跡に興奮し、圧倒されたが、イタリア南部の大都市ナポリは素通りだった。(そのときの旅日記は、以下にまとめている。ポンペイ(上)ポンペイ(中)ポンペイ(下)

今回のナポリ寄港はわずかな時間で、午後1時には出港する。
バスを利用したドライブ観光が中心で、かつてナポリを取り囲んでいた城壁に沿う
ように走り、今も残る城門を車中から眺めたり、ヨーロッパ最初のオペラ劇場「サン・カルロ劇場」、ウンベルト1世のギャレリア、ナポリの守護聖人パルテノペの噴水、卵城などでは、カメラ・ストップしたり。名所旧跡を訪れた証拠写真を撮っても感動しないし、説明を聞いてもすぐ忘れ、どうも性にあわない。バスを乗降するだけで気分的に疲れ、受け身の観光になって面白くないのだ。

そんな気分もあって、「考古学博物館」を訪れたことが、ナポリ寄港の最大の収穫となる。
「考古学博物館」は、16世紀に馬術学校として建造された建物だ。
1階ではギリシャ・ローマ時代の彫像を、2階では「モザイクの間」へ、3階では古く使われていた医者の器具、建築用具、錠、鍋・・・などを観た。

これらは、ブルボン家のカルロ3世(1759〜88在位、ナポリ・シチリアがスペイン領になった後に即位し、母がファルネーゼ家出身)と教皇パウロ3世を記念して収集した「ファルネーゼコレクション」と、モザイク画・ブロンズやガラス製品などのポンペイ出土の数々だ。ナポリの歴史の重層性を改めて知り、興味深かった。

現地ガイドのカルラさんが、日本語の丁寧語を駆使して解説したのには、びっくり。声だけ聞いていると、最近の日本でもあまり聞くことができない上品な口調で感心する。後で「日本語をどこで覚えたのですか」と尋ねると「テレビの日本語講座で学びました。まだ日本を訪れたことがありませんので、とても残念でございます」とのこと。

「イタリア最初の鉄道はナポリから始まりました・・・」「イタリアの大学のはじまりはナポリです・・・」「外国の方は、イタリアと言えば、ローマ・フィレンツェ・ヴェニスなどを思われますが、本当のイタリアはナポリにあります・・・」。ナポリ自慢が多かったのは、郷土愛か、ご愛嬌か・・・。北イタリアの知人が、「南はイタリアではない」と言ったことを思い出す。歴史的にも、民族的にも、南北の違いは大きい。
急ぎ足のナポリ観光をし、12時に港へ戻る。

タグボートが付き添う出港の様子を眺めながら、「ナポリを見て、死ね・・・」の言葉を思い出す。ナポリの大パノラマの美しさは、海からの眺めでいっそう際立っている。

午後、スーツケースのパッキングで過ぎる。
ほとんどの乗船客はサヴォナ港で下船するらしく、クルーズの終わりの慌ただしい空気が流れている。会計の支払いも済み、旅の終わりを実感。