2012年10月27日土曜日

7月8日(日) アッヘンゼーの遊覧船




・・・【遊覧船の後尾デッキ、旗はオーストリアの国旗】

アルプスの厳しい山が迫っている湖岸。崖の襞に残雪が点在しているし、崖に刻まれたハイキング用の道に人影が見える。岸辺には樹木が繁っているのに、遠望する山々は、岩が切り立っている。アルプスの景観を身近に眺めながら、アッヘンゼーの自然を楽しむ遊覧だった。

流れる雲の動きにつれて太陽の輝きが変化し、エメラルドグリーンの湖水の色が濃くなったり、淡くなったり。波が高い。輝く航跡と砕け散る波頭。その微妙な変化の美しさ。
たくさんのヨットが群がっている。そこから飛び込んで泳ぐ人たち。パラグライダーに引かれたボートがスピードをあげている。
遊覧船は、湖岸のわずかな平地にできた村に接岸しながら、北上していく。

乗船して半時間あまり、私たちは湖最北にある少し大きな町・ショラスティカで下船した。桟橋近くに、アッヘンゼーを一部取り込んだ巨大なプールのような人工湖があって、公園になっている。人工湖は水温が高いのだろう。たくさんの子どもや若者が賑やかに水に戯れ、そばのベンチでは大人が日光浴をしている。肖像を刻んだモニュメントに、溺れて亡くなった人を偲んだ記録がある。

湖岸の遊歩道を辿ると村の中心部に出た。ホテルやカフェが並び、お土産屋が誘いの声をあげて賑やかだ。
日に焼けたおじさん(経営者)が、湖で漁をして魚料理を提供するレストラン「Fisher WIRD」で昼食。アッヘンゼー育ちの鱒のグリルは日本の焼魚に似ていて、「醤油があればね〜」と言いながら食べた。とても美味しかったが、ボリュームがあり過ぎて持て余した。もったいない。日本人の胃袋は小さい。

食後、再び遊覧船に乗って、ガルスルム、ペルティサウの村にそれぞれ寄港・下船した。湖岸の村は、教会を中心にした広場や建造物から、共同体の歴史の違いがあることを感じた。

陽気な活気に満ちた通りを辿り、歩き疲れてカフェに座りこんだ。アイスクリームをなめながら歩いている観光客。カフェ近くの斜面の草を刈っている男。対象的な姿を眺めながら、アルプス山脈に抱かれ、アッヘンゼーを庭とする人々の暮らしを思った。
雪に閉ざされる村は、冬の生活環境が厳しい。11月から4月末まではアッヘンゼーバーンも運行を休止する。観光客は訪れず、住民だけの暮らしになる。活気に満ちる季節は夏。村人の多くが観光客相手の仕事をし、家畜の餌にする牧草刈りをし、とても忙しい。チロルの人々の勤勉さを感じた。

帰路はハプニングの連続だった。行きはよいよい、帰りはこわい。
「イェンバッハに戻る汽車は指定席ですから、時間に間に合えば大丈夫ですよ」と言われていた。ところが指定席とされた場所に行くと、すでに団体が座って満席だった。予約の連絡がどこかで途絶えて、ダブルブッキングだった。これに乗らないと、乗り換えの列車に間に合わない。結局、連結部分の荷物置き場に詰め込まれて立った。これがハプニングのひとつ。

イェンバッハで乗り換えた列車は、ミュンヘン始発でインスブルック経由のヴェローナ行の長距離列車で、乗り込んだときにはすでに満席だった。うろうろと車両を移動しながら座席を探したが、結局、コンパートメント外側の通路にある簡易椅子を引っ張り出して座った。まさか、座れないほど混雑する特急列車だとは!
インスブルックが近づくとホッとした。これもハプニングだろう。

目の前のコンパートメントには、ミュンヘンに遊びに行ったというイタリア人高校生6人連れが占め、好奇心丸出しで扉を開けっ放しにしていた。目をクリクリした剽軽な男生徒が話しかけてきて、サービス旺盛なイタリア男性だと感心したし、奥に座っている男女が二人の世界に没頭してイチャつき、濃厚なキッスを延々と演じていた。女性の濃いお化粧と開放的な服装は、日本でも見られる姿だ。夏休みを謳歌している若者は万国共通だと思うのは、高齢者の冷めた観察か。

オーストリア・アルプスを楽しんだ1日は、いろんなことがあって、心身共にお疲れさまでした! やれやれ!

7月8日(日) アッヘンゼーバーンの蒸気機関車




【最後尾で押しながら登り終わり、入れ替え線で、列車の先頭に向かう蒸気機関車】

インスブルックからの初めての遠出は、蒸気機関車に乗ってアッヘンゼー(湖)へ。

まず、インスブルックからOBB(オーストリア連邦鉄道)で20分のイエンバッハへ向かい、乗り換えたのがアッヘンゼーバーン(鉄道)。現役で定期運行する世界最古の歯軌条式鉄道(注)で、アッヘンゼー湖畔の終点までおよそ7km、標高差440mを走っている。蒸気機関車の車体に製造年”1889”の数字があり、日本では明治22 年! 123年間も働き続けているのだから、「頑張ってるねえ・・・」と驚いた。
機関車は隅々までよく手入れされ、磨き上げられ、ちっとも古さを感じさせない。車体の赤色と黒色が輝いて可愛いし、小柄ながら存在感がある。世界の鉄道マニアには、憧れの鉄道だと聞く。

(注)歯軌条式鉄道の機関車は、登りでは後ろから客車を押し、下りでは先頭を走る。日本では碓氷峠が有名だったが、別ルートに新幹線が開通し、廃止された。

汽笛が面白い。機関車は無機質なのに、人のお喋りに似ている。汽笛のレバーを押す乗務員の指先加減で、その気持ちがにじみ出るのだろう。

「出かけるよ・・」=「ヒューッ! ポーッ! フォイ!」の汽笛で、静かに動き出した。最後尾の小さな機関車が、 それも後ろ向きで、満員の人間を乗せた大きい客車2輌(帰路は4輌)を押している!
やがてスピードが出、「シュッ、シュッ、ポッ、ポッ」のリズムを響かせて、登り坂を懸命に走る。「それ行け、やれ行け、それ行け、やれ行け」と機関車が自らを励ましているように聞こえる。
線路に沿う家々の前を通過するとき「ピューッ!、フォーッ!」と甲高い汽笛が鳴り響き、家の窓から手を振る人がいる。知人? 家族? だれに挨拶しているのだろう。
「ホーッ! ヒーッ!」と、空気を切り裂くような汽笛。注意を促しながら踏切を通過していく。
急勾配にさしかかると、「シャッ! シャッ! シャッ!」とあえぐように蒸気が立ち昇った。「ドッコイショ、ドッコイショ」と頑張っている!
黒い煙をモクモクたなびかせ、ときおり石炭の燃える匂いが漂ってくる。懐かしい。戦後の日本の鉄道もこんなだった。トンネルに入ると大急ぎで窓を閉めたが、黒煙の汚れはたいへんだったなあ・・・。

最後尾で客車を押していた蒸気機関車が、沿線の最高地点エーベンで、短い複線部分を利用して移動し、先頭に連結した。 帰路、再びエーベンで機関車が後ろから前へと移動して、やっとわかった。狭い山地に鉄道が造られたので、回転するためのレールを敷く地面がない。辛うじて複線を敷き、機関車を移動させているから、向きは同じになるのだと・・・。帰りの蒸気機関車は後ろ向きで客車と対面し、にらめっこしている!

アルプスの視界が拡がる湖への緩やかな坂をくだって、まもなく、終点駅ゼーシュピッツに到着した。

イエンバッハからおよそ1時間、沿線の風景を眺めながら、蒸気機関車の力強さに感動し、40数年前、息子たちに繰り返し読み聞かせた本「いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう」(バージニア・リー・バートン 文と画、むらおかはなこ訳、1961年、福音館書店発行)の場面を、思いがけず鮮やかに思い出した。

そうそう、車掌のパーフォーマンスも忘れ難い。「ハイホー、ハイホー・・・」と高らかに歌いながら、窓の外から客車内を覗き込んで、切符の改札をしたのだ。車体の外側にある板をヒョイヒョイと伝い歩きする姿は、身軽に枝から枝へと移動する猿を連想した。時速7キロ程度で走っているけれど、「足を踏みはずすことはないのだろうか」と、ヒヤヒヤした。諺に「猿も木から落ちる」とあるのだから。

2012年10月19日金曜日

7月7日(土)ホテル生活のあれこれ




【28日間滞在したホテル・オイローパ。左面が正面で、駅前広場に面している。右面は旧市街に向かう道路に面している。】
・・・このブログに載せた写真は画面をクリックすると拡大して見ることができます。終わったらブラウザーの「戻る」ボタンをクリックしてこの画面に戻ってください。・・・

インスブルック到着後、高揚した気分に誘われて好奇心もあったし、2日間有効のインスブルック・カードを最大限利用しようと連日出かけ、いささか草臥れた。まだまだ先は長いと、今日は休養日にした。

ホテルの部屋の窓からは、近くに聳えるノルトケッテ連峰が見える。目覚めると真っ先に眺め、ノルテケッテが霧に包まれて隠れていると、挨拶ができないからがっかりする。樹々の茂みの緑の濃淡や岩肌の荒々しい亀裂がくっきりと見える朝は、それだけで1日の始まりが楽しくなる。
夕べには、いつまでもほの暗く輪郭をあらわしている姿に見惚れて、時間を忘れる。だが、日中のノルテケッテを、充分に眺める暇がなかった。

今日は、ノルテケッテ連峰に動物の角のように切り立っているフラウ・ヒットがよく見える。伝説の無慈悲な女性を象徴しているらしい。古今東西の物語には女性が意地悪で残酷な話は多いし、魔女もいるし・・・。単純で?、”気は優しくて力持ち”の男性よりも、本質は女性の方が恐いという潜在意識があるのか?
雲の流れを追い、あれこれくだらないことを空想してしまった。

添乗員の鈴木さんが花瓶にさしたマーガレットを持って現れ、「部屋の飾りに・・・」と置いていった。ホテルの部屋が自分の居場所になった気分になった。

午後、旅行社がロビーに設置した情報掲示板を見るために下りて行くと、目だけ出した黒いベールの10数人の集団がいた。厳格なイスラム教の婦人たちだ。暑い時期の開放的な服装が多い中では、見慣れないから異様な感じがする。インスブルックだけでなくチロル州には、アラブ世界からの観光客が多い。緑への憧れがあるだろうし、地理的にも遠くない。

終日ホテルにいると、わかることがある。
「ガターン・・・」。突然、洗面所から大きい音がし、飛び上がった。おそるおそる覗いてみると、壁のタイルが剥がれて飛び散っている。3、11地震後の状態を思い出す。

そうそう、ホテルにチェックイン直後の点検をしていたときのこと。トイレの便座の蓋が斜めにゆがんでいるので、真っ直ぐにしようと試みていたら、蓋のネジがすっぽりと取れてしまったし、蓋には大きなヒビが入っていて気にもなっていた。設備が相当に老朽化しているのだろう。

これら設備のメインテナンスが十分でないのに加え、シャンプーなどのアメニティが揃っていないのも気になる。フロントに連絡すると「品切れです」と言う。1回ならともかく、毎日何かが不足しているのだから、「在庫管理はどうなっているんだろう」と呆れ、諦めた。

今回の滞在では、インスブルック中央駅前にある「グランド・ホテル・オイローパ」を選んだ。ハイキングや小旅行をする利便性を考えたし、町を代表する5星ホテルだというのもいい。宣伝には、かつてイギリスのエリザベス女王が滞在し街の”迎賓館”の役割を持つとあったので、格式のあるホテルだろうと大いに期待していたのだが・・・。

伝統のあることが、設備の古さやサービスの足りなさの言い訳になるとしたら、泣けてくる。

もちろん、いい面もある。
ホテル併設のレストラン「オイローパ・シュトゥーベール」は、洗練されて美味しいと評判だ。ステイタスが高く、ちょっと改まった雰囲気で、地元の人で賑わっている。他のホテルに宿泊している観光客がわざわざやってきて、「ここの食事は美味しい」と感激していたし、毎朝利用する多彩な食事が充実しているから、宿泊する者には有難い。1日の健康をサポートしてくれると満足し、週に2回のツアー仲間とは夕食を一緒に食べ、楽しんだ。

チロルの人は素朴だといわれるが、責任のある立場のホテルスタッフには、親切で、人の良さを感じることもしばしばあった。レストランの部門のスタッフ、特に女性の笑顔は素晴らしい。ただし、掃除担当の従業員の中には、頼んだことがそのままということがあり、後になって、臨時に雇用されている外国人だから、ドイツ語・英語が通ぜずにわからなかったのかもしれないと理解した。

2012年10月15日月曜日

7月6日(金)午後 トゥルファインアルムへ




【リフト頂上駅の展望台付近に放牧されていた牛たち。その向こうにインスブルック市街と昨日登ったノルトケッテの連山が見える】

予想以上の快晴となった午後。パッチャーコーフェル(2246m)から尾根伝いの「ツィルベの小道」を辿る7km離れたトゥルファインアルム(2035m)へ出かけた。直接パッチャーコーフェルに繋がるロープウエイは休止中。山頂駅まで利用するロープウエイを巡って、運営会社とインスブルック市の合意がまだできない事情があるとか。代わりに、リフトが動いているトゥルファインアルムになった。

インスブルック中央駅前からポストバスに乗って、トゥルフェスへ。
そこから、まずは二人乗りのリフト、中間点で一人乗りのリフトに乗り換えた。
合計して標高差1500mを30分近くかけて上り、肝が冷えた。ゆらゆらと動くリフトの高さは半端ではない。とにかく必死になってリフトのポールを握りしめたから、頂上駅についたら指も掌もこわばっていた。でもね、眼下の様子を観る余裕があったのは、エライ。それしかできなかったのだけれど・・・。



【リフトに乗るみや。これは帰りに下っているところ。少し慣れて周りを見回すゆとりがあった】

リフトの下に松林(ツィルベ=シモフリ松)が続き、リスが走り回っている。放牧された牛がガランガランとカウベルを鳴らしながら、草を食んでいる。乳を飲む仔牛をジッと眺める母牛。日陰に集まって昼寝中の牛の群れも見える。木に寄りかかって読書をしているのは、牛飼いの男性だろうか。斜面に建つ小屋の入り口の赤色のゼラニウムの懸崖が、じつに見事だ。「おや、こんなところに人が住んでいる・・・」と驚く。

頂上にある展望台から、インスブルック市街地を眺望した。向かい側の山なみは、昨日訪れたノルテケッテだ。

特徴のある険しく聳える岩山が見える。「あの尖っているのはフラウ・ヒットだね」。身分の高いフラウ・ヒットという名前の婦人が、「パンをください」と頼んだ貧しい女性に、馬上から石を投げた途端、雷鳴が響き雷にうたれて、そのまま石に変わってしまった。そんな伝説を聞いたばかりだ。

展望台で休憩しようと腰を下ろす。そばのテーブルには、裸足になって日に焼けた元気な男性グループが、食事をしている。中には、足のマメの手入れをしている者がいる。徒歩で1週間かけて、インスブルックを囲む山々を歩いている仲間で、ヨーロッパ・アルプスの登山をしている同好会一行だとか。

「あの辺りが宿泊しているホテルと中央駅だろうね」「旧市街には塔が多いなあ」
「イン川の流れは街の動脈の感じだね。意外に大きい・・・」。
昨日と同じ感想を繰り返し、快晴の恩恵を満喫しながら、谷間の都市インスブルック滞在の期待が、さらに高まった。

【補足】この項目については夫のブログ記事『テキスト喪失、残念』を参照してください。

7月6日(金)午前 アンブラス城へ




【アンブラス城の展示館の回廊から本館を見る。山はノルトケッテの一部】

朝食後、急に暗くなって雨が降り出した。
午前中パッチャーコーフェルに連なるトゥルファインアルムへ登り、午後遅くにアンブラス城を訪れる予定だったが、雨が降る山は視界がきかない。アンブラス城を先にし、天候次第では、午後に山行きと予定を変更する。

アンブラス城には、ハプスブルク家一族のチロル大公・フェルディナンド2世(1529〜1595)の愛妻物語があるらしい。
大公がアウグスブルクの豪商の娘フィリピーネを一目惚れし、密かに結婚したのは28歳のこと。政略結婚がまかり通っていた時代の貴族社会では、豪商の娘とはいえ、庶民との結婚は許されなかった。長く結婚の事実を隠し続けたが、子どもが誕生したので、とうとうカミングアウトしたという。大公はハプスブルク家一族の冷たい目からフィリピーネを守るために、11世紀建造の古城を現在の規模に増改築。こうして、ルネサンス様式のアンブラス城は、1564年に完成した。めでたし、めでたしでした。

大公が収集した珍奇な絵画、中には槍で顔を突き刺されたが急所を外れたので生きている人の顔など、かなりグロテスクなものもある。「こんなものを蒐集した神経はかなり異常だねえ。それを展示するのもどういうものかねえ」と呆れる。

何世紀にもわたる鎧・兜の数々が展示されている。誰が使っていたかの解説を読みながら、「意外に小柄だわね・・・」「こっちは頑丈で重そう・・・」などと囁く。用途は同じでも、時代と体格の違いが伺えて面白い。

古ぼけた雑多なイスラム装飾の品々を眺めながら、キリスト教の神聖ローマ帝国とイスラム教のオスマントルコ帝国が、世界覇権の戦いを繰り広げた時代を思い出した。15世紀から16世紀にかけての熾烈な争いだった。1526年には、オスマントルコ軍がウイーンに迫り、キリスト教世界は危機に瀕していた。チロル地方は両軍の激戦地になり、神聖 ローマ帝国の危機を救う役割を担った。勝利を収めたときの戦利品が展示されていたのだ。ハプスブルク家とチロルの栄誉を垣間見た感じがした。

これらの展示品の数々は歴史への興味を引いたが、チロルの風景と重なるアンブラス城は、大公の愛妻物語の方が印象的だった。

庭園には、色鮮やかなペチュニアやベコニアが溢れ、孔雀が悠然と散歩中だし、カモの番いが揃って羽づくろいをしている。
また、現在のアンブラス城はインスブルックの観光資源だが、じつはマキシミリアン大帝(1459〜1519)が街の美観を重視したのが土台になっている。これについてはいずれ触れる機会があろう。

7月5日(木)ノルテケッテのパノラマウオーキングへ




【ハーフェレカール山頂からインスブルック市街を見る。その先はイタリアに至るヴィップ谷】

朝方は雨が降ったので、今日のハイキングはほぼ諦めていたが、朝食後に雲が上がってきた。チャンス到来と、インスブルックの北側に連なる山脈のノルテケッテへ出かける。

インスブルック・コングレスハウス(ノルテケッテ行きのケーブルカー駅)からフンガーブルクバーンに乗って、フンガーブルク駅(860m)へ。
そこでノルトケッテンバーンに乗り換え、ゼーグルベ駅(1905m)へ。
さらに乗り換えて、ハーフェレカール駅(2256m)へ。
ここから100m歩けば山頂だ。

インスブルックの街の中心部から気軽に山頂へ行けるので、幼い子を連れた家族やかなりの高齢者もいて、ちょっと山の散歩へという気分が漂っている。
ハイキング目当ての外国人観光客が多い。ケーブルカーからは、自転車を押して歩いている人や頂上を目指しているグループの姿が見えるから、一挙に目的駅まで行かずに、途中下車をしたのだろう。

ケーブルカーを乗り換えて昇るにつれ、風が強く気温が下がってくる。
雨上がりの山の気温は高くないだろうと着込んでいたが、さらにレインウエアを羽織って歩く。



【ケーブル駅から標高2334mのハーフェレカール山頂への登山路を行く】

頂上からの眺望は感動的だった。インスブルックの街並みを挟んで、向かい側の山脈が幾重にも重なっている。鉄道線路とイン川を目印にしながら、街の姿を確認する。「あの辺りが旧市街。黄金の小屋根が輝いているよ」「意外に、イン川は雄大な蛇行をして、存在感があるなあ・・・」「あの建物は、泊まっているホテルじゃない?」。
山では、”みんなお友だち”の連帯感があるらしく、誰彼かまわずに「素晴らしい眺めだねえ・・・」と共感し、賑やかだ。
そのうちに、「どこから来たのかい?」「昨日の観光はどうだった?」などと気軽に話しかけ、岩に座り込んで、話しが盛り上る。名前を名乗ってもすぐに忘れるけれど、束の間の交流は楽しかった。

ウイーンから来た老夫婦が「私たちは76歳と72歳。結婚50年目の記念に訪れた。この辺の山はほとんど登ったよ。ここにも何回も来ているし・・・」と自己紹介したので、「私たちは結婚54年目になるよ。それに年齢も上だ」と話す。「若く見えるなあ」と嬉しいことを言い、最後はハグをして別れた。
その後、展望スポットでまた会い、少し話してハグを交わし、こうした挨拶の習慣がないので、目をシロクロさせながら照れた。
山頂レストランでまたまた再会し、同じテーブルに座って昼食をしながら、先ほどの会話の続きとなった。「この5年間で4回、腰と骨盤の手術をしたが、こうして歩けるようになった。山に魅せられて、元気が出る」と殿方は言う。リハビリテーションの執念に、大いに刺激を受ける。ご愛嬌にも、彼は見事な白い髭に、昼食のスープがついている。そのおっさんが、スープの香りがするゴワゴワした髭で、両頬にキスをしてくれたのには、恐れ入った。

また、アメリアのヴァーモントから来た若い夫婦も印象に残った。夫はスコットランドのキルトのスカートを着ているし、夫人はスコットランド特有の民族衣装をまとっている。まだ幼い表情が残っているから、新婚ホヤホヤかなと眺める。「旅が好きで、あちらこちらを訪れています」と言う。
同じ時刻の交通機関を利用するから、彼らとも、何度も挨拶を繰り返した。
「ちょっと変わった夫婦だったなあ・・・」と、思いだしては話題にした。

インスブルックに戻り、ケーブルカー駅近くの王宮美術館に寄ったが、山の空気に触れた印象が強くて、気分が乗らず。またいずれと、早々にホテルへ戻った。

夕食はホテル近くにあるイタリアンに仲間と出かけ、名物のピザを注文。

【補足】夫のブログ記事を以下のリンクから参照してください。
『北の高値に登る』

2012年10月13日土曜日

7月4日(水) 街のオリエンテーション




【インスブルックの目抜き通り、マリアテレジア通りの向こうにノルトケッテの山並みが見える】

最初の1夜が明け、午前中2時間ほど、現地駐在員モラスさんの案内で、滞在に必要な街のオリエンテーションがあった。

まず、宿泊ホテル前の徒歩1分の中央駅へ行く。
時刻表の見方、プラットホームの様子、切符購入の仕方などを確認。駅の地下には、インフォーメーション・センター、スーパーマーケットはじめ、衣食住に関する店舗が並び、生活に必要なものは大半、叶えられる。地下街は、ホテルのエレベーターで直接つながっているから、超便利。

中央駅の隣りは、バス発着所で、街中の移動はもちろん、郊外へ出かける路線が多いから、研究の余地あり。駅前には郵便局もある。

その後、街最大の百貨店、庶民の胃袋を担う市場、旧市街のポイントになる建造物、美味しいと言われるレストランなど、地図を片手に場所を確かめながら、歩いた。

今日の昼食はホテルのレストランで。
参加者12名(夫婦5組と姉妹1組、ほぼ同年代)が顔を合わせ、自己紹介をしながら名前を確認した。

インスブルックの北側の山脈・ノルテケッテが、ホテルの部屋から見える。その輝きに誘われて、夕方、イン川沿いのプロムナードを歩いた。
やや白く濁る雪解けの水量が滔々と流れるイン川には、古くから橋がかかっていて、「イン川の橋」から「インスブルック」の地名が始まったという。
川の岸辺に立つと、ノルトケッテの向かい側にも山並みが連なって、街に迫る自然の要塞になっている。インスブルックが、アルプス山脈を横切る峠やイン川の流れによって、東西南北をつなぐ交通の要衝であることがわかった。

散歩の帰りに、中央駅の案内所でいくつかの時刻表をもらい、スーパーマーケットで、買物をした。缶の形からビールを買ったつもりだったが、ビールにレモンジュースを入れたアルコール度2パーセントの飲み物の「ラドラー」。喉を潤す準備をした夫は落胆し、ほのかな甘みがあって口当たりがよいので、私には好都合。
ドイツ語表記に慣れるまでは、こんな失敗もあるの巻。

【補足】夫が現地から送った旅行記が彼のブログにあります。この項目については以下を参照してください。
http://masaquar.blogspot.jp/2012/07/blog-post_05.html

7月3日(火)いざ、インスブルックへ




【インスブルック空港、私たちが降りたプロペラ機に戻りの乗客が乗り込んでいる】

旅の興奮もあるし、成田空港第1ターミナルに8時10分集合だから、昨夜は気になって浅い眠りだった。夫は「遠足前の小学生並みだよ」と笑い、早めの1日が始まった。

いつものように搭乗手続きが済み、9時40分に離陸するまでに一汗かく。機内持ち込みの荷物検査がいちだんと厳しい。
「その包みは?」。「パソコンです」。「ケースから出して・・・」。
「これは?」。「薬類です」。「袋から全部出して・・・」。
ついでに化粧袋も開けさせられた。「本」2冊を手に取り、仔細にパラパラとページをくったし、羊羹1本はしげしげと眺められた。

結局、リュックサックの中身は全部出させられ、こんなに徹底したチェックは初めてだった。夫はリュックサックを背負った同じようないでたちなのに、何事もなくスイスイとパス。プライバシイに立ち入る検査官の恣意じゃなかろうかと憶測し、よっぽど風体が怪しいと思われたかと感じたが、理解できなかった。ぶちまけられた中身を納めるのに、余計な労力を強いられ、ブツブツ・・・。

地上から仰ぎ見る空は、ところどころに真っ白い雲が浮かんで明るく晴れていたが、離陸して雲を通過するたびに、しばらくゴトゴトと揺れた。あんまり気持ちのよいものではない。窓際の3席が空いているので移動し、フランクフルトまでの片道はゆっくりできた。ラッキー!

ソウルを1時間前に離陸したルフトハンザ機が、平行して飛んでいる。乗客が歓声を上げ、賑やかなひとときを過ごす。やがて、相手の機体がずっと下方になり、後方に広がる雲海に姿を消した。スチュワードの話では「こんなに近くで仲間の飛行機を見られるのは、珍しいです」と。ひょっとして、ニアミスってこと?
結局、ほぼ同じ頃にフランクフルト空港に着陸。気象や操縦者、管制塔の指示などで、1時間くらいは誤差の範囲なのだろう。

フランクフルトでの乗継のセキュリティチェックも、きわめて厳しかった。
パソコンをケースから出し、リュックサックのポケットは全部チェックされた。
同じ系列の航空会社の乗継なのに、ほんとうにご苦労様。

フランクフルト空港からインスブルック空港まではプロペラ機だ。飛行高度が低く、アルプス山脈の容貌が迫ってくる。積乱雲が高く明るく輝くその下に、山岳に挟まれた谷間が深く抉られている。
「なるほどなあ・・・。インスブルックに行くということは、こういうことなのか・・・」と、夫が呟く。
夕刻、かなり大きな街が眼下に広がって来たら、インスブルック市だった。
イン川の蛇行が続き、街の中心部の旧市街が見える。映像を観、写真を眺め、本を読んで、頭の中のどこかでは、すでに馴染んだ風景だ。
これからの4週間の滞在で、あの辺りを歩くのだろう。膨らんだ期待が、だんだんと具体化していく。

インスブルック長期滞在の旅




・・・・・【インスブルックの鳥瞰図】・・・・・
・・『チロル・パノラマ展望』(トンボの本)から引用】・・

2012年7月3日〜8月1日の旅の記録
しばらくお休みしていたブログの再開は、「インスブルック長期滞在の旅」日記になる。滞在中の折々の様子を、日記としてブログに書くつもりだったから、本来なら、とっくに終わっているはずだった。ところがインスブルックに到着した途端に、高揚した気分の日々となり、メモをするのがやっと。日本に帰ってまとめればいいと、早々と考えは後退した。

冷涼なインスブルックから帰国すると、日本の今夏の猛暑は半端ではなく、体は暑さへの順応がうまく出来ず。信濃追分の友人の山荘へ半月ほど脱出した。だが、自宅に戻ると、いつまでも続く暑さに、かえって気力・体力ともに調子を崩した。
予定が予定で終わりになることは、今後ますます増えるだろう。

さて、今回の旅は、昨秋、馴染みの旅行社の案内で知り、一カ所に暮らすように滞在する旅は魅力的だと、決めた。足の便を考え、インスブルック中央駅前にある「グランド・ホテル・オイローパ」に、28日間滞在した。

インスブルックの旧市街を散策し、近くのオーストリア・アルプスへハイキングに出かけ、余力があれば、南はイタリア(ブレッサノーネ)、北はドイツ(ミッテンバルト、ミュンヘン)へ行きたい。インスブルックは古くからヨーロッパの交通の要衝で交通の便がいいし、歴史的にも興味を引く観光ができるだろう。
何よりもアルプス山脈の懐に抱かれた風土だ。何もしなくても、休養になる。
そろそろ、一晩泊まって次の観光地に移動していく旅は、気力はともかく体力がきつくなった。体力と天候を勘案しての旅は、どういう結果になるか。
そんな期待で旅立った。

7月2日(月)前泊
成田からの旅は早朝出発になるので、空港近くのビューホテルに前泊。
昼食後、水戸の自宅を出て、ホテルにチェックイン後に、近くのUSAパーキングへ車を預けた。31日間の駐車は長過ぎて、ホテルに預けると駐車料金が高額になるからだ。