2012年11月26日月曜日

7月13日(金) 休養日




【休みの日には夫はツイッターを送ったり、ブログを書いたり。iPadで受信したツイッターの画面にツィラタールでハイキングする私の姿】

目覚めると7時。朝寝坊したが、休養日にしているので、気分はノンビリ。

朝食後に洗濯を済ませ、iPadで朝日新聞を読み、メールをチェック。
九州で死者50人を超す大洪水があったとの情報。大分は父の生まれ故郷だし、終戦後の3年間住んだから友人・知人も多く、どうしているだろうかと気懸り。

昼食は、日本から持参したご飯・豆腐味噌汁・昆布の佃煮に、現地調達のチーズ・リンゴ・コーヒーなど。
夫婦してなんでも食べる胃袋だが、最近は日本でも和食中心だし、長期間滞在の旅では和食恋しになるだろうと、たくさんのレトルト和食を持参している。外出しない日には、好都合だ。

6時半から、夕食。
週のうち金曜・土曜の夕食は、ホテルのレストランでツアー仲間と一緒だ。
ホテル滞在中の夕食は9回あったが、毎回、異なったメニューだったし、日本語メニューが用意された。
長期滞在日本人を迎える2度目の今年、レストランでは、日本人向けの味を研究し、量の調節もしている由。去年も滞在した添乗員は「レストランとしては、かなり力をいれていますよ」と言う。
夕食メニューは、原則として、前菜とメインディッシュ、デザート。

今日の夕食は、私たちがツィラタールへ出かけた日に滞在第2陣(同じ旅行社の名古屋支店から16名)が到着し、第1陣との顔合わせで総勢28名。
個人客中心のレストランでは、ちょっと壮観?だった。
初めはおとなしかったけれど、次第に盛り上がって、日本のニュースやインスブルックの情報など、賑やかに話が弾んだ。

今日は洗濯のために外出したが、洗濯は機械がしてくれ、ほとんど動きのない1日だった。読書したり、手紙を書いたり、ゆっくりと休息できた。

7月12日(木)北の国境を越えてドイツのミッテンヴァルトへ




【ミッテンヴァルトは、建物の壁にフレスコ画が描かれている街としても知られている】

朝食のときに、久しぶりにツアー仲間と会い、お互いの体験の情報交換をする。
その後、2日分の朝日新聞を読み、雑用の片付けを少々。

10時38分、インスブルック中央駅発の列車で、南ドイツのミッテンヴァルトヘ出かけた。単線で待ち時間があるので1時間かかるが、距離は20kmと近く、オーストリア国境からはわずか3km。車窓に断崖絶壁が迫り、たくさんのトンネルを抜け、樹木がまばらな山脈を眺めているうちに到着した。

小さな穏やかな村の東西には、スキーやハイキング用のリフトやロープウェイがあるけれど、かつて商業で栄えた面影はほとんどない。
駅から歩いても、市庁舎や教会のある中心部には数分で着いてしまう、小さな、小さな村だった。

「聖ペテロとパウロ教会」前に、村の守護神マティアス・クロッツ(1653〜1745)の記念像がある。繁栄から衰退のどん底に落とされたミッテンヴァルトを再生した人物だ。
時代を切り拓く人物の存在が、どんなに重要か。現在のミッテンヴァルトの村の佇まいを眺めながら、つくづく考えさせられた。



【ミッテンヴァルトをヴァイオリン製造の街として発展させたマティアス・クロッツの記念像】

近世以前のミッテンヴァルトは、北方のアウグスブルク・ニュルンベルクと、南方のヴェネチア・ヴェローナなどの重要な商業圏を結び、人や物資の往来で繁栄していた。それ以前も、ローマ時代からアルプス越えの間道が利用されて、交通の要衝だった。
ところが、大航海時代の幕開けで、帆船による物資流通が主役になった。ヨーロッパ商業の動脈の一翼を担っていたミッテンヴァルトは、新興のネーデルラント(オランダ)に敗れ、急速に衰退していった。

そんな時代に、「なんとかしなくては・・・」と危機感を持ったクロッツが登場する。イタリアで、ヴァイオリンを製作したアマーティ家(注)が活躍しているのを知った彼は、ヴァイオリン製造の技術修業に出かけた。

(注)アンドレア・アマーティ(1500〜1611頃)ヴァイオリン製作者
弟ニコラ・アマーティ(1568〜86頃活躍)ベース・ヴィオラ製作者
長男アントニオ・アマーティ(1550〜1638)
次男ジェロニモ・アマーティ(1556〜1630)
兄弟で父のヴァイオリン製作法の改良に取り組む
孫(次男の子)ニコロ・アマーティ(1596〜1684)製作改良を完成し、ニコロ一門から、グアリネリ、ストラディバリウスの名工を輩出

クロッツは修行を終えてミッテンヴァルトに帰ると、ヴァイオリンばかりでなくチェロやヴィオラなどの弦楽器製造業を確立。ドイツ語圏には、親方を頂点にした職人・徒弟を育てる伝統があったので、クロッツの先見が実り、多くの弦楽器職人が育った。
ミッテンヴァルトは、商業・運送業に代わって、弦楽器の技術を重視する職人が活躍する時代を迎え、19世紀には、村で年間1万点の弦楽器が製造され、ヨーロッパ各地に輸出されるほどに成長していった。
現在、村にはヴァイオリン製造の工房が10軒ある。
以上、ヴァイオリンの村ミッテンヴァルトの歴史的な背景を少々。

クロッツが住んだ家は、「ヴァイオリン博物館」になっている。村を代表する観光名所で、これがなかったら、ミッテンヴァルトは、アルプスの谷あいの村に過ぎないと感じた。



・・・・ 【クロッツがヴァイオリンを造った工房を復元した部屋】

時代によってヴァイオリンの形が微妙に変化している。音色の追求のために、改良の試行錯誤を繰り返した結果がわかって面白い。
どのようにつくられていくのか、製造工程が具体的にわかる部屋がある。木材の乾燥の手順、微妙な曲線を作る道具など、「なるほど、うまく考えられているね」と理解できた。

所々に、展示物を解説するガイドがいて、歴史的な背景を熱心に話す。「ヴァイオリンは、モンゴルの馬頭琴がはじまりです」と聞いて、東西文化の伝達や交流の歴史を感じた。

1934年製造の弦楽器を見つけたとき、わが寿命と同じだと妙に感心した。

小さな博物館だから、30分ほどで見学は終了。

昼食後、クロッツに所縁のある「聖ペテロとパウロ教会」へ。こじんまりとして美しいが、内部に入ると、カビ臭い。

村の通りに面している古い建物の壁に、フレスコ画が描かれている。外に描かれているのだから、聖堂や修道院のフレスコ画と比較するのは問題だが、色彩のゴテゴテとした印象は、ドイツ系の色彩感覚か? 優雅というには遠い。
聖母マリアや天使を優雅に描いた宗教的なもの、風景や村人の生活を描いたものなど、だまし絵のような装飾的なものなどがある。建物の持ち主が依頼したのだろうか。フレスコ画が、どんな背景で描かれたのか興味があったが、わからず仕舞いだった。純朴な、稚拙なものが多かったけれど、村の職人(画家?)の心意気を感じた。

2時半の列車でインスブルックへ戻った。車両の半分を仕切ったこどもコーナーがあり、カラフルな遊具に興ずる子どもの様子が印象に残った。

2012年11月18日日曜日

7月11日(水) マイヤーホーフェンのハイキングを満喫




【ペンケン山のハイキングコース、標高2000mの天空散歩】

5時半、起床。
リュックサックに荷物をまとめ、今日の予定を確認し、早めの朝食を済ませ、8時半にホテル出発。雲が次第に増えて、イヤーな感じだ。

ツム・アム・ツィラー駅から、終点マイヤーホーフェン駅まで15分足らず。
マイヤーホーフェン(標高650m)の街の西側にあるペンケンバーンのゴンドラを乗り継ぎ、頂上駅ペンケン(標高2005m)へ。

最初のゴンドラは動いている最中に、突然、停った。地上までかなりの高さがあるし、目の前に急斜面が迫っている。1分足らずだったが、ヒヤヒヤ、ドキドキの時間は、なんと長かったことか。

一山越えた中継点(標高1789m)からのゴンドラは、金網に包まれて、まるで鳥籠だ。冷たい空気がスースー通り抜けて寒いし、床の隙間から下界が見えて怖い。
乗り込むときに気にもせず、目の前にきたゴンドラに乗ったのに、すれ違うゴンドラを見ていると、ほとんどが透明なアクリル板に囲まれている。鳥籠はたまーにやって来るが、10台に1台もない。「帰りは、絶対に鳥籠には乗らない」と、宣言した。
そのうちにゴンドラは深い霧の中に入って、真っ白い綿菓子に包まれたような感じになった。鳥籠の中にも霧がこもって、向かい側に座っている夫がぼやけて見える。空間の広がりがつかめないので居心地が悪く、緊張した。奇妙な体験だった。

ペンケン台地のハイキングコースは、緩やかな坂道だ。
歩き出すとまもなく、斜面いっぱいにまるで絨毯を広げたように、黄色のお花畑が続く。
脇道を少し入ると、小高い丘になる。夫はカメラを手に登り始めたので、「まだまだ、先があるから・・・」と、リュックサック番をしながら休憩し、しばし待った。

ところどころに置かれているベンチで休むたびに、眼下の眺望に息を飲んだ。
遠くまで幾重にも重なっている山なみ。
谷間にみどり色の湖が横たわって、キラキラと輝いている。その周りの細い道に人が動いている。



【谷を隔てて向こうに3000m級の山が連なる】

垂直に切り立つ崖をロープでよじ登っているグループ・・・。
急斜面を飛び立ったパラグライダーが、風に乗って雲に吸い込まれるように消えて行き、また現れる。
ベンチのそばに牛が群れて、カウベルを響かせている。こんなところに放牧されている牛たち。
視界のすべてを見落とすまいと追いながら、次々に感嘆の声をあげた。

このハイキングコースは、子ども連れの家族が多い。緩やかな坂道だし、休息できる場所に遊具が備えられているからだろう。ハイキングに来て、トランポリンでもあるまいしと、感じたけれど・・・。

標高2095mにあるレストラン「ペンケン・ヨッホ・ハウス」で昼食にした。
夫は唐揚げのハーフ・チキンに大量のポテトフライと地元のツィラタール・ビール。私はたっぷりの具入りのヌードルスープにサラダにラドラー。
ハイキングの楽しみがあるせいか、食欲旺盛で、よく飲み、よく食べた。

いつのまにか雲が湧き上がり、風が強くなっている。そのときを待っていたのだろう。インストラクターの指示で、パラグライダーが次々とスタートして、宙に舞っている。どこまで飛んでいくのだろう。興味深々で眺める見物客が多い。

2時頃、帰途につく。
中継駅で乗り換えたゴンドラには、椅子がない。急勾配の斜面にはケーブルの支柱がほとんどなく、ゆらゆらと揺れて怖い。スピードを感じて、思わず足を踏ん張った。上りでは気にならなかったのだが・・・。

晴れの暑い街中を歩いて、マイヤーホーフェン駅へ。
発車間もなく雨が降りだし、ツェル・アム・ツィラー辺りでは大雨。イェンバッハでOBBに乗り換える頃には篠突く雨で、雷鳴が響いた。
ウイーン発ブリゲンツ行の列車の客席はガラガラで、アッヘンゼーへの遠出とは大違いだった。ゆっくり寛ぎながら、インスブルックに無事に戻った。

「山の天候がよかったし、眺めが素晴らしかったし、満足したなあ。ほんとうにラッキーだったね・・・」と語り合い、このハイキングの感動に触発されて、滞在中にハイキングを重ねるきっかけになった。


この日の記録は夫が旅日記に書いています。画像ともにご覧ください。
7月10(火)-12(水)ツィラータールへの旅、その3

7月10日(火)⑤レストランでチロル民謡を楽しむ




【夕食メニューに選んだウィンナー・シュニッツェルの巨大さに驚いた】

通りを歩いているときに、チロル民謡の生演奏の広告を見つけた。演奏開始は8時で、ガストホフ(ドイツ語圏特有のレストラン付きホテル)「キルヒェンヴィルト」が会場になっている。1度ホテルに戻ってから、ここで夕食を済ませてライブを聴くことにした。

夕食体験は、言葉が通じないもどかしさ、情けなさ、可笑しさを、充分に味わった。その顛末は・・・。
ウエイター&ウエイトレスには、まったく英語が通じない。私たちはドイツ語メニューは読めても、料理の詳細がわからない。
ここもオーストリアだから、「ウインナー・シュニッツェル」と言えばわかるだろうと注文したが、キョトンとして通じない。牛の鳴き声をしながら絵を描き、手振り身振りで注文すると、「おお、ピッグね。OK」と言う。
夫と顔を見合わせ、どんな料理が出てくるかと、興味津々で待った。

大きな大きなウインナー・シュネッツェルの皿が出てきて、見ただけで満腹になった。夫はサンダーという魚のフィレのソテーを注文。これまた驚異!の大皿で供された。

この辺りは、楽器チターの発祥の地だし、クリスマス前後に歌われる「聖しこの夜」を世界的に普及させた人物がいたし、音楽活動が盛んな土地らしい。

演奏は「Zillertaler und Sie Geigerin(”ツィラタール仲間と女性バイオリン弾き”楽団)で、聴いている観客には先刻お馴染みのチロル民謡が次々に演奏される。
合間には、落語的?、漫才風の掛け合い?があり、笑いがドッと起こる。曲に合わせて、次々にダンスに興じる人が増えていく。

奏者と客の陽気なやりとりはドイツ語だから、料理の注文と同じく、内容はさっぱりわからない!。だが、歌詞は知らなくても、中には曲は聴いたことがあるから、ハミングしながら体を揺らせたり、手拍子を打ったり。
賑やかな雰囲気を楽しんだ。
(演奏中の楽団の画像は、④で引用した夫のブログ記事にあります)

日中の悪天候を吹き飛ばすような、二人旅の1日目は、無事に終わった。

7月10日(火) ④ポストホテルにて




【ツム・アム・ツィラーで泊まったポストホテルは、画面左側手前から二つ目の切妻屋根が続いた建物。目の前をツィラータール鉄道が通っていた】

ポストホテルは2年前に開業したばかりで、設備が新しい。プールやサウナ、ジムなどを備え、機能的な台所、家具付きのリビング、ベッドルームなど、ゆったりとした贅沢な空間だ。滞在型のホテルだから、1夜だけではもったいない。

前や隣の数部屋には、サウジアラビアからの大家族が滞在している。扉を開け放しているので室内が丸見えだし、小学生くらいの男の子数人が、廊下でボール蹴りをしたり、走り回ったり、とても煩い。夫が「静かにして欲しい・・・」と抗議すると、しばらく静まったが、やがて男の子たちの取っ組み合いの喧嘩が始まり、複数の女性(母親たち?)が飛び出してきて、大層な剣幕で怒鳴った。全て廊下での出来事で、ホテルの設備はよかったけれど、雰囲気は問題あり!

ベランダの前に、道路を隔てて鉄道線路がある。蒸気機関車の運行時刻を確かめると、間もなくやって来る。デッキチェアに座り、カメラとビールを手に、待ち構えた。

蒸気機関車の煙は豪快なエネルギーを発散している感じで、楽しい。
観光客に人気だと聞いていたが、乗客は少ない。ヨーロッパの近辺諸国からは、車を利用するのが便利だし、運賃はジーゼル列車の倍だから、観光客の利用は少ないのも当然か?

蒸気機関列車の通過を眺め、周辺に目を転じると、線路の向こう側に、寺院の尖塔が聳えている。地図を広げて、「あの辺りが街の中心だろうね。こじんまりして、歩くには好都合だ」と、様子を探りがてら、散歩に出ることにした。

また小雨がちらついているが、傘がなくても気にならないくらいだ。
通りの建物のベランダには、ペチュニアやゼラニュームが競い合うように溢れている。絶妙な色彩の取り合わせが素晴らしい。清澄な空気に育てられた美しい花々!

墓地にもまた、区画ごとに花々が溢れている。写真をはめ込んだ墓石が興味深い。墓前のロウソク型の電灯を点けて、墓石に手を置いている人がいる。家族や知合いだろう。そんな人が次々にやって来るから、暮れ馴染む時刻に亡き人と過ごす習慣なのだろうか。穏やかな共同体の繋がりを想像した。

大地にがっしりと建つ木造家屋が多く、惚れ惚れするような佇まいだ。板壁には茶色の木目や節があり、木材の板を葺いた屋根も目に付く。チロル風の建築やインテリアは、エコロジーを唱えなくても、昔から自然を大事にしている。

この日のことは夫が以下のブログに書いています。そちらの画像も参照してください。
7月10(火)-12(水)ツィラータールへの旅、その2


7月10日(火) ③ 雨のツェル・アム・ツィラー






【ツィラタール初日にツェル・アム・ツィラーから登ったハイキングコースの鳥瞰図。現地で入手したハイキング・マップから転載】

沿線に大きな木材集積地が続く。列車の中までツィルベ(しもふり松)の香りが漂ってくる。チロル地方の木造家屋や家具に欠かせない木材だ。あとで地元旅行社のモラスさんから、「この沿線はチロル地方ばかりではなく、オーストリア全体、国境を超える南ドイツも含めた重要な木材集積地です」と聞き、納得した。

10時20分、ツェル・アム・ツィラー駅(標高580m)で下車。駅からすぐの「ポストホテル」へ行き、とりあえず荷物を預けた。

曇り空の雲の動きが速い。臨機応変に予定が変えられないのが、決まった旅の悲しさで、呪文のように、「雨が降りませんように」「視界が拡がりますように」と、何度も繰り返す。
クロイツヨッホ・バーンのゴンドラで山上駅へ昇る途中、雨がポツポツと降り出したが、麓の方は薄日が差している。そのうちに、一寸先は闇ならぬ真っ白な、茫漠とした雲の中に入ってしまった。

中継点ヴィーゼナルム(標高1309m)で小型のゴンドラに乗り換え、終点のシモンズ・ベルグシュタード駅(標高1744m)に着く頃には、傘が必要な降りになっていた。
「どうしようか。残念だなあ・・・」と言いながらも、上下のレインウエアを着て、しばらく様子を窺がった。小降りになってきたので「行けるところまで行ってみよう」と、歩き始めて間もなく、また驟雨。

クロイツヨッホ・ヒュッテ(標高1904m)まで行く計画は断念して、引き返した。
山上駅近くのレストランで昼食にしたけれど、食べ終わる頃には晴れて、麓まで見事なパノラマが広がった。もう一度、改めて山歩きをする気力はすでになく、連なる山々をゆっくりと眺めながら、周辺を歩いた。

ゴンドラで降りると、陽射しが強く、ホテルへトボトボと歩く道のりの長かったこと。目的が果たせなかったこともあって、下界の暑さが身にこたえた。

この部分は現地滞在中に夫が、旅行記を書いています。以下をご参照ください。
7月10(火)-12(水)ツィラータールへの旅、その1

7月10日(火) ②ツィラタール鉄道の蒸気機関車




【ツィラタール鉄道、蒸気機関車に牽かれる列車。「アルプス・チロルの鉄道」(JTB出版)から転載】

インスブルック8時52分発のOBB(オーストリア連邦鉄道)に乗り、イェンバッハでツィラタール鉄道に乗り換え、アルプスの山あいの谷を南に辿って行く。北へ向かうアッヘンゼー鉄道とちょうど反対方向だ。

7月8日の日記に書いたアッヘンゼー鉄道の蒸気機関の列車は、標高差約440メートルの山岳地帯を走っている。横綱が豪快な押出し相撲を決めるのに似て、蒸気機関車は、進行方向の前に連結した車両を押す力持ちだ。急勾配でもボイラーを水平に保つために、前のめりの傾斜がついていて、蹴躓いたときの「オッ、トッ、ト」の感じだった。乗客を観光地に運ぶだけでなく、蒸気機関車そのものの夢を運ぶ趣があった。

ツィラタール鉄道は、イェンバッハからマイヤーホーフェン間のほぼ平坦な谷あいの32kmを走る。軌道は760mmで、世界でいちばん狭い。創業以来100年を超え、沿線住民の生活に密着した鉄道だ。観光シーズンには、日に2往復蒸気機関車を走らせ、週末には一部の区間で、運転体験のプログラムを組むサービスもある。

乗車ホームの外れにある給水タンクの前で、蒸気機関車への給水が行われている。
”きわめて、まともな小さな蒸気機関車”だが、「また、蒸気機関の列車に乗る」と、子どものように単純に期待した。

列車内の向かい合う椅子席の間の小さなテーブルに、「時刻表」が印刷されている。それを見ると数駅毎に停車駅がある。その間の途中駅はスキップすることになっているのに、実際はほとんどの駅に停車している。
「どうしたのかしら?」と訝ったが、やがて徐々に様子がわかってきた。スキップ駅から、列車の車掌に連絡すると停まる。乗客が降りたい駅があれば、列車内にあるボタンを押せば、停車する。そんな仕組みだった。
それでも決まった停車駅には、ほぼ時刻表どおりに着く。鉄道は単線だから、すれ違う駅で停車し、早く着いてもすれ違う列車が来なければ、前に進めない。
要点をおさえた時刻表は実に合理的で、住民の利便性に配慮しているなあと、感心した。

実に滑稽な話だが、私は蒸気機関の列車に乗ったと思っていた。
帰国後、夫から「あのときは、ディーゼルの普通車に乗ったんだよ。あんたさんには参るなあ・・・」と呆れられ、大笑いになった。
どうやら、イェンバッハでの乗換えホームで給水中の蒸気機関車をみたことが、原因だったらしい。列車は「ピーッ」も「フォーッ」もなく、静かに発車したし、臨機応変に停車したのも、日常的に利用されている沿線住民の足だったからだ。
その段階で気付かなかったことに愕然とし、夫が二人旅の企画をして詳細はすべてお任せだったことが、思い込みを助長したらしい。いや、はや。

7月10日(火) ①ツィラタール二人旅の朝




【これから1泊個人旅行で出かけるツィラタールの鳥瞰図。「チロル・パノラマ展望(新潮社、とんぼの本)から転載】

今朝は4時半頃目が覚めてしまった。もう少し寝ていたかったのに・・・。
仕方がないので、持参したパソコンを開き、録画してきたNHKの朝6時25分から10分間のテレビ体操を見ながら、体を動かす。夜明けのホテルの一室の可笑しな夫婦の姿!。

昨夕刻から荒れ模様の天候になり、夜半には稲妻が走り、雷鳴が轟いて大雨が過ぎた。2度、停電。まだ降っている。
テレビをつけると、どこかの山の上の家が燃え、消防士が長いホースを引っ張って消火する姿が映し出されている。続いて、土砂崩れの線路を点検する鉄道員の姿も。映像を見ながらテロップで流れる地名を地図で確かめて、「近いよ」「離れた場所だ」と判断する。だいぶ被害が出たらしい。

天気予報は、テレビのチャンネルによって著しく違う。インスブルックでも、最高・最低気温はかなり違うし、風向きもまちまちだから、どれも当てにならない。今日・明日の天気予報は、どのチャンネルも、晴、曇、雨のマークが全部揃っている。晴れることを祈るのみ。

到着後の遠出は、旅行社が企画するプログラムを選んで参加してきたから、ツアー仲間の連れがいた。今日からの1泊の山行きは夫と二人旅だ。早く起きてしまったのも、天気が気になるのも、当然か?

旅行社の現地駐在員になる篠原さんが、日本から昨夕到着予定と聞いていた。今朝ロビーで見かけたら、少々お疲れのご様子。昨夜の嵐で4時間もフライトが遅れ、夜半12時過ぎに、やっとホテルにチェックインできた由。

2012年11月4日日曜日

7月9日(月) 午後 インスブルック旧市街へ




【黄金の小屋根前の広場。右端が黄金の小屋根。左端から二つめがロココ調のヘルブリングハウス】

12時近く、昼食がてら旧市街を歩く目的でホテルを出る。
お目当ては、ビヤーホールレストラン「スティフツ・ケラー」。王宮脇にある老舗で、大きな木を囲んでたくさんのテラス席があり、いつも賑わっている。
夫は、大ジョッキのビールと牛肉のパプリカスープ煮込みの「グヤーシュ」。
私は、ラドラーに「ウインナー・シュネッツェル」を注文。
叩いて薄くのばした仔牛肉のカツレツの大きいこと!。大皿を占領している。
夫の皿にも大きな肉の塊がふたつ。
両方とも、サラダやフライドポテトが添えられ、2人でも1皿で充分の感じだ。お互いの料理を味わいながら、乾杯。
ここには、滞在中、昼食や散策途中の足休めに立ち寄って気軽に利用し、馴染みの店になった。

ところで、旅行社は日本語の小冊子「レストランガイド」を用意していた。
担当者が現地視察で食べ歩き、お勧めの各国料理のレストランを15店選び、場所、メニュー(現地のものを翻訳した詳細な内容)をまとめたものだ。
その日の気分によって、食べたい料理を選ぶ参考になったし、異なったレストランを利用したお仲間が、それぞれの評価を披露して情報交換し、出かけるとこともあった。

昼食後、旧市街を歩く。
路地を歩きながらひょいと見上げれば、「黄金の小屋根」前の一角だ。
その斜め前に「ヘルブリングハウス」があるのに、カメラを構える観光客が大勢佇んで、ゆっくりとは眺められないし、歩くこともままならない。
ヘルブリングハウスは、ロココ調の繊細な装飾を壁面いっぱいに刻んで、貴族の邸宅だったとか。建物の淡いピンク色はかつての栄華を偲ばせているが、年月を経て色彩を失っている。

全身を銀色に塗り、ポーズをとって彫刻のように微動だにしない人が、ときどき口に加えたバラの花をかざす。幼い男の児がはにかみながら、籠にコインを入れている。

「市の塔」を見上げ、夫は「あそこには、いずれ登るよ」と言う。元は14世紀に造られた火の見櫓だから、街の展望にはいいのだろう。望楼に大勢の人がいて、アリンコのように動いている。

観光客が多くて、雑踏を抜けるのに苦労するので、「今日は欲張らないで、クラナッハのマリアの絵を観ることに絞ろう」と、「聖ヤコブ大聖堂」へ向かう。ルーカス・クラナッハ(1472〜1553)が描いた聖母画で有名な大聖堂だ。




・・・・・・【聖ヤコブ大聖堂の正面】

クラナッハは当時の熱烈な宗教改革派で、宗教改革者のルター(1483〜1546)やメランヒトン(1497〜1560)などの肖像画なども描いている。ドイツで始まった宗教改革の波がアルプスの地へ広がり、その足跡が、インスブルックの聖ヤコブ大聖堂の聖母画に行きついたのだろう。もっとも聖母マリアの絵は、18世紀になってから捧げられているけれど・・・。

ここでもまた、祭壇中央の聖母画の前に人が群れている。特に車椅子の集団が目立ち、熱心に祈る姿にマリア信仰の一端を感じた。大聖堂は、18世紀初頭にバロック様式に改築されて、煌びやかに輝く内陣はどっしりしているけれど、周囲の窓からの太陽の光が意外に明かるく溢れている。



【聖ヤコブ大聖堂の祭壇。真ん中に小さくあるのがクラナッハの聖母子画】

マリアテレジア通りは、どこに佇んでも周囲の山並みが素晴らしい。
帰路、スーパーマーケットでビールとラドラー、木ノ実数種類、ハム、リンゴなどを買い、街角ウオッチングをしながら、ホテルに戻った。
夕食に再び外出するのは億劫になるだろうと食料を買ったのはご正解で、日本から持参の食べ物にプラスして、部屋で寛ぎながら食べた。

7月9日(月)午前 雑用をする休養日に




・・【ホテルに近いコインランドリーにはお世話になった】

昨夜は天気が崩れ、雷と稲妻を伴う大雨になり、雹が降り、停電もあった。
水戸の自宅を出てから、もう1週間、いや、まだ1週間か。時間の過ぎるのが速い。昨日はアッヘン湖への観光をし、明日はツィラタールへ出かけるので、今日は溜まった雑用をする休養日にした。

まず、ホテルの部屋から見える目の前のコインランドリー「バブル・ポイント」を利用しようと計画。到着後の洗濯は手洗いしてきたが、意外に時間がかかるし、外出が続くとヒマがない。

そのコインランドリーの初体験は・・・。
利用方法が壁に掲示されている。コインを入れてその通りにするのに、動かない。「どうしちゃったの?」と、何度もボタンを押したがビクともせず。仕方がないので、別の洗濯機に変えたが、こちらもダメ。
備え付けの電話で店の連絡先に何度も問い合わせても、お話し中。

途方にくれているところに地元の人がやってきて、いとも簡単に洗濯を始めた。
「これとあの洗濯機は、コインを入れたのに動かないのよ」と言うと、ガチャガチャ試みた挙句、「機械は気まぐれだからねえ」と笑いながら、自分のプリぺイト・カードを使って他の洗濯機を動かしてくれた。
常連は「○番はよく故障する」と心得ているらしい。

小型(7キロ対応)洗濯機は、コインでは4ユーロだが、カードだと2・5ユーロだ。親切に感謝して4ユーロを渡すと、かえって恐縮して「ダンケ、ダンケ・・・」を繰り返す。飲み込まれた8ユーロはコインランドリー利用の授業料と思うことにする。電話までお話中だから、気持ちは納得出来ないけれど・・・。

雑用のもうひとつは、ATMから現金を下ろすこと。
ヨーロッパの多くの都市に共通して、ATMは街の賑やかな通りに多い。インスブルックでも、マリアテレジア通りの商店の軒先にあるし、その他のATMも人通りが多い場所にある。夫が操作している間、ひったくられないように周りを見回した。
今回の旅では、ATMで現金化するたびに、”円高ユーロ安”の恩恵を実感。