2013年9月20日金曜日

[NYへの旅] 4. ヒルダガードの家




【ヒルダガードの住居と前庭。入り口から玄関へのドライブウェイ。左側に何本かの巨木のある広い前庭が見える】

2日目 3月17日(日) その1

昨夜、たっぷり睡眠をとったので、心地よく起床。
カーテンをひくと、夜のうちに雪が降り、鹿やラクーンの足跡が残っている。またヒルダガードが嘆くタネができたことだろう。年ごとの新芽の季節には、鹿と闘争をしている様子が伝えられているのだから。

朝食後、庭に出ると、動物たちの置き土産があちらこちらに堆積している。それも新芽と蕾をつけたクリスマス・ローズの周辺に多い。
「5頭の鹿の群れが、毎晩やって来るのよ」と、ヒルダガードはお手上げ状態なのに、夫は「たくさん来たなあ。置き土産は肥料になるよ」と余計なことを言い、彼女に睨まれた。

数本のマグノリアの大木には、2メートル高さの金網が巻かれている。
ラクーンはテラスの下に巣を作るので、住宅の土台に沿って、これまた立ち入り禁止の金網が張られている。
群生するクロッカスやスノードロップが、見事に咲き誇っている。これらの被害がほとんどないのは、鹿たちの味の好みにあわないのか。

ヒルダガードが住んでいるウエディング・リバー村は、ニューヨーク市から東へ突き出したロング・アイランド(長さは東西189キロメートルある)の中央部辺り。
アメリカ合衆国建国以前にイギリスからやって来た植民者が切り拓き、17世紀後半には村ができた。アメリカとしては古い歴史がある地域だ。海岸は近いし、林は多いし、湖や池が点在する自然環境だから、鳥類、小動物が多く棲んでいる。
北の対岸にはコネチカット州のブリッジポートやニューヘブン港があって、フェリーを利用する通勤客も多い。

かつての植民指導者の広大な林と邸宅が、現在は分譲され、公立のキャンプ場や集会所などの施設、あるいは、ニューヨーク市に住む人たちの週末や夏の住宅になっている。

ヒルダガードは、敷地入口の土地と”馬小屋”を購入した。
まず馬小屋を全面的に改造し、数年後にさらに増築した。それらすべてを手がけたのが、クラウディアの夫で、住宅のメインテナンスも行っている。

「気に入っているの。快適な住まいだから、ぜひ来て・・・」と、だいぶ前から誘われていた。だが、”馬小屋”のイメージが強く、具体的な住居空間は訪れるまで想像できなかった。ひょっとしたら、馬特有の臭いが残っているんじゃないかと思ったこともあったが、まったくの杞憂だった。
「これが馬小屋だったなんてねえ・・・・」とびっくりし、愚かな想像をしたことを恥じた。

増改築には、馬小屋の古い資材が活かされ、貫禄のある飴色の太い柱や梁が、白い壁に映えて、素晴らしい。
柱に沿う細いパイプに触りながら、「これ、なんだかわかる?」と聞かれ、「はてね?」と戸惑った。セントラル・ヒーティングで家中の暖房をするので、スチームを通す管だった。
台所には、IHヒーターやオーブン、食洗機など、最新の電化機能を備えている。
ベッドルーム4室、シャワーやトイレは数カ所ある。
緑が溢れるサンルームはコンピューター・ルームを兼ね、目の前に広い庭が広がっている。「ここは増築した部分で、もっとも利用している部屋。とても気に入っているのよ・・・」。

住宅は村の中心部にあるふたつの道に面しているけれど、大きな樹木がぐるりと囲んで、閑静だ。

「こんなに広いと、ひとり暮らしでは、維持がたいへんねえ・・・」と心配した。
「そうなのよ。家のメインテナンスは、クラウディアに相談してやってもらうし、庭の手入れは、近所に住んでいるグァテマラから来た人に頼んでいるの。お隣りの境界にある垣根は、だいぶ前にシンジが刈り込んだことがあるのよ」と笑う。
「あそこだったの?」。
20数年前、留学中の次男が感謝祭の休暇を彼女の家で過ごし、「垣根をきれいに刈り込んだ・・・」と便りにあった。日本の自宅の庭では、一度もそんなことをしなかったのにと、呆れたことを思い出した。



2013年9月18日水曜日

[NYへの旅] 3, ロングアイランド高速道を走る




【ロングアイランドの地図、左端にNYCの中心、マンハッタンがある】

1日目 3月16日(土)その2

JFK空港に降り立つと、ヒルダガードともう一人の女性が待っていた。出発前の連絡で、リムジンを利用することになっていたので、てっきり運転手だと思った。
「ハアーイ。やっとアメリカにやって来たわ。お元気?・・・」
「もちろんよ。すべて順調だった? こちらはミヤコとマサシ。クラウディアが家まで運転してくれるの」。
再会を喜び、矢継ぎ早に話す。ハグを交わす様子を、ニコニコとしながら眺めている女性が、クラウディアだった。

ロングアイランド高速道(495号線)沿いに人家が増え、防音壁が延々と続いている。林の中にポツンポツンと点在していた家々が見えなくなって、無粋な風景に変わっている。

大都会の住民が眠る広大な墓地が現れる。
「墓地は変わらないなあ。初めて見たときは、強烈な印象だったけれど・・・」と、妙に安堵しながら、呟く。

以前は中央分離帯は広い草地だったが、それが消えて片道3車線に増えている。
マンハッタン島からしばらくはかなりの交通量で、様変わりしている。

クラウディアが言う。「1人だけ乗っている車は、左端の追越し車線は走れないのよ。私たちは4人乗っているから、大丈夫。見て。あちらの車線は混雑して、スピードは遅いでしょ。ガソリンを節約するためのエコを奨励する交通法で、1台の車に複数の人を乗せるためなの」と言いながら、スピードをあげる。
見ていると、ほとんどの車は運転者だけだ。追越し車線を走る車はとても少ないから、ますますスピードが出る。

犬を連れ、道路脇に立っている数人の警察官が、やって来る車を停めている。
横目で眺めながら、「事故じゃないのよ。ときどき見かける麻薬取締官ね。通報があったのでしょ」と説明する。アメリカの何でもありの現実の一端だが、この国だけではないな。最近の日本でも監視カメラが多くなって、犯罪には効果的だし・・・。

1時間ほど走った頃、昔懐かしい風景になり、やがて馴染んだ高速道路出口を降りたので、ホッとした。

12時半にヒルダガードの家に到着。
クラウディアが「またお会いしましょう」と、帰っていった。「私たちのために、1時間半の距離を運転するなんて・・・」と恐縮した。
ヒルダガードは、「彼女と私は、お互いに頼まれたり、頼んだりの間柄なの。私は、歳をとってからニューヨークへは電車かバスを利用して、車では出かけないの。大きな荷物があるのだから、これがいい方法だと思ったの」と、目配せした。

後になって、空港から家まで運転したクラウディアは、同じ村に住んでいる建築家の夫人だと知った。ヒルダガードが新しい住居(馬小屋!)を買い、その増改築を依頼したのがクラウディアの夫だった。
クラウディアが花屋を営んでいたので、現在も近辺の公共施設やホテルの花の飾りつけをしているとか。それに、50歳代後半!と若い。

到着後、滞在中の過ごし方を相談。
すでに毎日何らかの予定がある。その様子は追い追い日記に書く。
昼食と夕食を除けば、就寝まで、次々に話が続き、とうとう「今晩は早めに寝たいわ」と立ち上がった。

2013年9月15日日曜日

【NYへの旅】2. ニューヨークへ旅立つ




【ケネディ空港着陸直前。眼下に見えているのは、ジャマイカ湾の南端を縁取るロッカウェイ地区】

1日目 3月16日(土)その1

長い1日だった。成田空港発が11時で、諸手続きに時間がかかる。逆算すると、当日水戸から出かけるには慌しい。昨日は空港近くのホテルに泊まった。
日本出発前夜の恒例で、無事な旅を祈って和食で乾杯した。

夫は5年ぶり、私は15年ぶりだから、久しぶりのアメリカへの旅になる。
9、11事件以後は、どこの空港でも出入国審査に時間がかかっている。だが、アメリカ行きの、聞きしに勝る厳しい審査には驚いた。
通関手続きでは、旅券を念入りに眺め、顔写真を撮り、指紋を押し・・・。
どこの空港でもやることだから、まあ、これはお仕事だと理解する。

さて、出国審査の第1段階。コート、カーディガン、帽子、ベルト、靴、手荷物など、ひとつづつトレイに乗せ、ベルトコンベヤーで運ばれてX線でチェック。
人間は裸足になって、手を上げる降参スタイルでX線を通ると、頭から足先まで長い棒(探知機か)と手で、ボディチェック。
第2段階。X線で確認されたはずのパソコンは、今度はケースから出し、起動のスイッチを入れさせられた。もちろん手荷物のすべてを広げ、ひっくり返して隅々まで確認。どうやら人によってチェックの難易があるらしく、夫はスイスイと手続きを終え、もたついている私の様子を眺めている。

チェックが終わると、靴を履き、コートを纏い、荷物を元に収め・・・。
上気した顔と汗だくの身体の不快さで、次第に旅立つ気持ちが萎えていった。
テロを回避するためには当然だろうし、致し方ないか。だが人間不信丸出しのチェックには気が滅入った。
「アメリカへは、もう出かけることはないだろう・・・」と感じながら、搭乗口へ向かった。

日本時間では昼食だが、たぶん夕食になるらしい食事が終わると、後はひたすら飛行に身を委ねるだけだ。

映画「リンカーン」を観ているうちに、集中力が途切れて眠くなり、1時間ほど仮眠した。東への飛行は日付変更線を越えるし、ずっと夜が続く。機内も夜のムードで、大半の乗客は眠っている。ニューヨーク時間に時計を合わせると、朝の6時10分を差しているのに、空は暗い。予定では10時半着だから、まだ4時間もある。

7時半、機内のライトがついたが外は闇だ。すでにサマータイムが始まっているから、なおさら日の明けるのが遅い。眼下には、家々の灯りが瞬たいている。車のライトから道路の方向が掴める。

8時。窓外が仄かに明るくなって、朝焼けの地平線の丸みが、広がっている。
アメリカでは朝食になるサービスが始まると、食いしん坊の夫は「夕食が抜けたなあ」とぼやいている。「食べるだけで動かないのだから、ブロイラーになる」と冷やかす。

目の前のパネルで、飛行ルートを眺めていると、意外に地名が面白い。
いつ頃、誰が、どんな背景で名付けたのだろうかと、想像が拡がって行く。
「グラスゴー」がある。スコットランドからの植民者が出自を留める望郷の念からか。
人を食ったような地名が次々に現れる。「デビルス」のつく地名は、たいへんな経験をした人々の気持ちが込められている感じだし、「リサーチャー」は文字通り、開拓者の調査探検を表したのだろう。「クレイジー」なんて、ここに住む人がやけっぱちになっているようで笑ってしまう。
「ニュー」をつけた単純な地名は、植民者の出身地に違いない。
訪れるニューヨークは、17世紀初頭からオランダが進出してニューネーデルランドを領有し、拠点として1626年にニュー」アムステルダム市を建設したのが始まりだ。その後の何度かの英蘭戦争でイギリスが勝ち、1664年にイギリス領になった。当時のイギリス王ジェームズ2世(ヨーク公)に因んで、ニューヨークになった。

地名から連想して、そこに住む人に対して想像力を逞しくし、アメリカの開拓・植民時代の歴史に思いを馳せて、退屈しなかった。

2013年9月14日土曜日

ニューヨークへの旅日記 『はじめに』





2013年3月16日(土)〜3月29日(金)
(成田空港近くのビューホテルに、15日に前泊し、29日は後泊。水戸の自宅には3月30日に帰着)

ひょんなことから、ニューヨークへ出かけた。
昨年(2012年)秋、ニューヨーク郊外ロングアイランドに住むヒルダガードと賭けをしたのだ。「アメリカ大統領選挙でオバマが再選されたら、ニューヨークへ出かける」と。

賭けをする伏線はあった。
ここ数年来、繰り返されてきたヒルダガードの誘いが、気になっていた。
今実現しなければ、おそらく再会の時期を失うかもしれない。そんな予感がした。
元気に旅をすることが当たり前だと思っていたのに、旅をする気構えに変化が現れている。気持はまだまだでも身体はそろそろで、無理が効かない。日本を旅立つと「ひょっとして、この旅が最後になるかもしれない」と思うようになった。
それが、賭けという形で後押しをしたのだ。

2012年11月20日。オバマの大統領当選が決まるとすぐ、アメリカ訪問の気持をメールでヒルダガードに知らせた。早速、メールがあった。
「3月21日(木)には、私が企画する2012年度最後のオペラ”のファウスト”があるの。以前、ドレスデンで一緒に観たグノーの”ファウストの劫罰”とは違うけれど、それを一緒に観ませんか」と。
ヒルダガードは、地区の図書館で十数年にわたってオペラ鑑賞や美術展の企画をしている。折に触れて、企画内容の詳細は伝えられ、興味があった。

こうして3月16日からロングアイランドのヒルダガードの家に8泊し、後の5日間はニューヨーク・マンハッタンの「パレス・ホテル」に滞在する。オペラ鑑賞前後のニューヨーク行の話が、具体化して行った。

5月初めの新緑の頃のニューヨークは素晴らしい。その季節に出かけたいと考えたが、オペラに拘って3月半ばの出発を決めた。
案の定、滞在中に雪が何度も降り、氷点下になる日が多く、寒かった。
だが、以前からの友人との再会や、ヒルダガードの知人・友人との知己を得て、温かい楽しい時間となった。

その間の詳細が日記にあるので、「ニューヨークへの旅日記」として整理したものを、これから紹介する。

2013年4月10日水曜日

7月31日(火)〜8月1日(水)「さようなら、インスブルック」

帰国を意識して興奮したらしく、早々と目覚めてしまった。4時半には起床。シャワーを浴び、忘れ物がないかと念には念を入れた。
スーツケースを部屋の前に出し、6時半に朝食へ。ゆっくりと最後の食事を楽しんだ。

8時半にロビー集合後、直ぐにバスで出発。
玄関前に並んだホテルのスタッフが、「また来年の夏も来てくださいね」と、見送ってくれた。スタッフは人懐こい人が多かった。

インスブルック空港は街外れにあるから10分ほどで到着し、簡単なセキュリティ・チェックを済ませると、後は離陸を待つのみ。予定よりずっと早い。

ルフトハンザ航空の70人乗りのプロペラ機で、乗り継ぎのフランクフルト空港まで飛んだ。
離陸するとまもなく、アルプスの山々が俯瞰できた。意外に低空飛行だから、岩山にハイキングルートがくっきりと見える。目を凝らすと、ロープウエイの鉄柱や山小屋も見える。ハイキングで辿ったあれこれを想いながら、苦労した道やあっけなく歩いた道の残影を探したが、地形に通じているわけでもなし、無理だった。
やがて、緑の平野に街が点在し、蛇行する川の流れに沿う住宅が、箱庭のように続く。ドイツ上空だろうか。耕やされた畑の多い農耕地帯に変わった。
晴天に恵まれた飛行は、飽きることなく、1時間余があっという間に過ぎた。飛行中、機体がガタガタと軋む音が響き、ちょっと不気味な感じだったけれど・・・。

フランクフルト空港は広大な敷地にターミナルがあり、飛行機が着陸してから降りるまで20分かかった。乗り換えのゲートへの移動は、歩く、歩く・・・。ハイキングで鍛えた?とはいえ、ウンザリする距離だ。出国審査は非常に厳しく、延々と列が続いていた。乗り継ぎには2時間以上もあったのに、搭乗に必要な諸手続きと移動で過ぎた。

フランクフルトから成田までおよそ11時間。「夢去りぬ」の気持と緊張の疲れでガックリしたが、いつの間にかぐっすり眠った。
8月1日(水)朝の8時に成田着。無事に旅は終わった。

(付記)
旅行社が企画した「アルプスの古都インスブルック長期滞在の旅」は、昨年から始まって今年は2回目だった。毎月送られてくる旅行社の雑誌で見つけ、偶々参加を決めた旅だった。
帰国後、旅行社の担当者から「企画が高く評価された旅行でした」と、弾んだ連絡があった。

毎年9月に開催されるアジア最大の旅の博覧会で、今年は106点がノミネートされ、この旅行社の企画が「従来の常識を覆す革命的な作品」として、”ツアーグランプリ2012”に選ばれ、さらに”国土交通大臣賞”とダブル受賞したという。

インスブルック滞在の旅を充分に楽しんだし、それだけでも満足していた。
参加した企画が評価されたことは、旅の喜びを、さらに忘れ難いものにした。

以上 完

7月30日(月)滞在の打ち上げは「チロルの夕べ」

夕方6時にロビーに集合。バスで20分ほどのナッタース村のビルトハウスへ、旅行社が主催する「チロルの夕べ」に招待されて出かけた。

なだらかな草原が広がる庭で、ウエルカム・ドリンクを傾けながら、しばし談笑した。どこから現れたのか、すぐそばにウサギがひょいと立ち上がって、好奇心満々で私たちの様子を見ている。夕方になるとお相手を求める鳥の囀りが、賑やかに響き渡っている。

その後、広いホールに移動して、インスブルック滞在中のツアー・グループ毎に着席したが、たくさんの日本人がいる。街を歩いていても、滅多に日本人に会わなかったから、どこに散らばっていたのだろうと驚いた。

可笑しかったのは、ビアーレストラン「スティフツ・ケラー」でチロル民謡を奏でていた3人のグループが、今夜の音楽担当だったことだ。彼らはインスブルックを拠点に、観光シーズンは大忙しとのこと。

インスブルック観光局のダニエル氏と旅行社の現地駐在員の篠原さんの挨拶があり、乾杯前にチロルの民謡2曲が演奏され、やがてビルトハウスのオーナーが歓迎の挨拶をし・・・。ヨーデルが歌われ、「乾杯の歌」が響き、次第に陽気に盛り上がった。

夫は楽団員から声をかけられ、「私たちが歌うのにあわせて、口パクでもいいから一緒に歌おう」と言われ、飛び入りで「乾杯の歌」を熱唱?。 呑み助に相応しいし、ドイツ語で歌える歌だし、ワインの酔いもあったらしい。パチ、パチ、パチ。

夕食後、旅行社の添乗員のチロリアン・ダンスが披露され、それに加わるお仲間が増え、熱気に包まれた旅の最後の宴が続いた。

窓外を見ると、ここで飼われているクジャクが歩いている。
次第に明るさが薄れて行く草原の彼方に、散策している若いカップルが手をつないで現れ、ズームアップするかのように次第に近づいてくる。気がついた仲間が「写真になりますな・・・」と、目を細める。

瞬時、室内の賑わいを忘れ、アルプスの自然に溶け込んだ長閑な風景を眺めながら、滞在の日々のあれこれを、走馬灯のように想起した。思い出に残る愉しいチロルの夕べだった。

7月30日(月)インスブルック滞在の最終日

6時頃起床。ノルトケッテの山並みを眺めながら、1ヶ月の滞在の数々を辿った。
もうずいぶん前の出来事に「長かったなあ」と思う一方で、アッという間に時間が過ぎて「速かったなあ」という気持が往来する。

朝食にいくと、ワサワサしたざわめきが満ちている。昨夜、中国人の団体客がチェックインし、ビュッフェに群がっていたのだ。大声でしゃべり、皿に盛り上げた料理を食べ残し、果物やパンをたくさん抱えて出て行く。傍若無人のいただけないマナーを眺めながら、自国の習慣・尺度はともかく、人間としての民度のレベルアップが大事だと痛感。

午前中、イン川沿いを歩いた。パステルカラーの壁や、美しい装飾のある建物を眺めたり、ウインドー・ショッピングをしたり。市場も覗いて、賑わいを肌に感じた。

昼食は中華料理店「カントン」へ行く。
夫はワンタンスープ、私はフカヒレスープ。それに春巻を添え、ヴァイスビールとラドラーも。美味しかった。人気を聞いてやって来たのだろうか。欧米の観光客が多かった。

帰路、最後まで懸案だった買物をした。最近は、日常の買物をするのも意欲が乏しくなり、「いずれ・・・」と先延ばしをする傾向だ。「買物を億劫がるのは、ボケの始まり」だそうだから、あぶない、あぶない。旅のお裾分けのお土産を買うのも、最終日にやっと間に合った。

午後、本格的にスーツケースのパッキング。

2013年4月8日月曜日

7月29日(日)買物と休養の日

ゆっくりと朝寝坊。

朝食後、スーツケースに入れる荷物まとめを、ボチボチ始める。
滞在はあと二日で終わる。

昼頃、昼食をとるために、ついでに買物を予定して外出。

インスブルックのビアーホールともお別れだと、昼食は「スティフツ・ケラー」へ。何回出かけたことか。すっかり馴染んだ場所だ。
数種類のソーセージの盛り合わせとチーズを注文し、ヴァイスビアーとラドラーで乾杯した。

1時間ほど小さな買物をし、ホテルへ。

持参の日本食の夕食。
疲れて食欲がないとき、外へ食べに出かけるのが億劫になったときに大いに助かった。予定通りに片付いたし・・・。
滞在中は料理をすることもなく、楽チンだったが、それも間もなく終わりだ。

夜、久しぶりにメールを書き、気持は日本へ。




7月28日(土)ブレッサノーネへ

第一次世界大戦でオーストリアが敗北し、南チロル地方はイタリア領になった。
チロル人は、いつかは同じ国になると期待して、さまざまな交流を続けている。
そんな背景を持つチロルの姿を見たいと、ブレッサノーネ(ドイツ語ではブリクセン、後で知ったのだが、イタリア領南チロルに住む人の中には、地名をドイツ語で表現するとか)へ出かけた。

インスブルックから国際特急ユーロスターのヴェネチア行に乗り、フォルテッツァで乗り換えた。ヨーロッパの南北を結ぶブレンナー峠を過ぎると、イタリア領チロルに入り、2時間近くかかってブレッサノーネへ到着。
同じチロルなのに、インスブルックから訪れると地理的には遠いが、心理的には、とても近い感じがするから不思議だ。

南チロルには、ドイツの古典派詩人・作家のゲーテ(1749〜1832)が、イタリアへの旅の途中に泊まったし、ナポレオン1世率いるフランスの軍隊がブレンナー峠を越えている。
特にブレッサノーネには、オーストリアの音楽家モーツアルト(1756〜91)も足跡を残しているし、現在はローマ法王の夏の避暑地になっている。ローマ時代から峠越えの重要な道が通じていたのに、ブレッサノーネは古い歴史をとどめた小さな村だった。

観光の中心はドゥオモ広場だ。広場に面した13世紀建造の大聖堂が、カトリック信仰の威容を示している。聖堂の天井の見事な骨組み。回廊の微細な彫刻の佇まい。長い年月を刻み込んで、どっしりとした石造りの構えが、素晴らしい。大聖堂のパイプオルガンで、モーツアルトも演奏したと聞いた。

王宮庭園を歩き、咲き誇る草花や樹木の美しさに息を飲んだ。司教の館もまた、圧倒されるほどに堂々としている。それらを見上げながら、人々のつつましい暮らしと、その支えになっている大聖堂の佇まいを対比し、「信仰とは何ぞや」と思った。

「少し歩こうよ」と、ドゥオモ広場から延びる通りに入った。
雪の季節を凌ぐ天井のあるポルティコ(アーケード)が延びている。今日のような陽射しの強い季節には影になって、有難い。傾斜の大きい屋根は、もちろん雪の滑りをよくするためだし、小さな出窓の飾りが意匠を凝らして楽しい。
気候風土に根ざす暮らしの工夫の数々を確かめながら、イタリア・ブルガ川が流れる岸辺まで歩いた。
滔々と流れる川の水が、雪解け水のせいだろう。白濁したパステルグリーンで輝いている。ホッとしてしばし眺めた。

再び広場に戻る途中、露天が軒を連ねる細い通りを歩いた。
綺麗なラベルが貼られた瓶が並んでいるので覗き込むと、アルコール類を売っている。「グラッパがあるよ」と夫は目敏く見つけ、「ブレッサノーネはイタリアだから、その記念に・・・」と購入。
50歳代と思しき売り子の女性と、英語でいろいろと話した。夫が「この辺りの住民はイタリア語を話すのですか?」と聞くと、「住民の70%はドイツ語ですよ」とのこと。

チロルの英雄として敬愛されているホーファーは、南チロルで生まれている。チロル人の絆は南チロルにある。南チロルがオーストリアから切り離された歴史を思いだし、日常生活にその影響が色濃く残っていることを改めて感じた。

ホテル「ゴールデナー アドラー」のレストランで遅い昼食をし、3時過ぎの国際特急で帰路に着いた。コンパートメントはおろか、廊下まで超満員だった。やっと廊下のベンチに座った。
今日のイタリアへの旅は、いわば消化企画の感あり。お疲れさんでした。

参加者一同が揃う夕食は、ホテルのレストランで。
シェフが、この夕食のために腕によりをかけて準備したという。
インスブルック滞在が順調に過ぎ、思い出の数々を振り返りながら、歓談した。
お互いの大胆な?スケジュールが披露されたし、谷あいによって古い伝統が維持されているチロル地方の保守的な暮らしの心地よさや、人懐っこいチロル人の優しさを、異口同音に納得した。
「もっと滞在したいなあ・・・」と、名残を惜しむ時間となった。

2013年4月6日土曜日

7月27日(金)休養日の出来事

午前中、「旧市街で散歩しながら、お土産を買おう」と出かけた。
ゆっくり買物がしたいのに、夫は「滞在中に、”市の塔”に登るつもりが、まだ実現していないし・・・」と、あんまり気乗りしない様子。
高所恐怖症の私は、「どうぞ一人で登って・・・・」と、気が進まない。

結局、別行動して、待ち合わせることにした。
旧市街には古くからの老舗があって、ウインドウ・ショッピングだけで充分楽しんだし、夫は市の塔からの展望を堪能して、満足した。

街の老舗のデパートメントストア”カウフハウスチロル”で、お土産を探したが、「買物は最後にまとめて済ませようよ」と、店を出た途端、事件に出くわした。

アラブ系の少年が、大きいビニール袋を脇に抱え、脱兎のごとく走って来た。
ほとんどぶつかる直前の勢いに、「危ない!」と叫んだ。数メートル先に、老夫婦が呆然と立ち尽くしている。言葉にならない声をあげ、腕を振り上げて、少年の走り去る方向を指している。
「ひったくりだ!」と直感。一瞬の出来事で、少年の姿はたちまちに見えなくなった。通行人も気がつき、「泥棒だ!」とざわめいたが、追いかける者はいない。
少年が走り去った道のところどころに、下着・靴下・シャツなどの衣類が落ちている。
おそらく、老夫婦はホテルに滞在中の観光客で、コインランドリーで洗濯を終え、大きな袋に納めていたのを狙われたのだろう。

「インスブルックの観光は、治安のよさを強調しているのに・・・。最近はそうもいかなくなったのだろうなあ・・・」と話しながらホテルを目指した。
途中に衣類が点々と落ちているのに気づき、少年はこの道を走り続けたと理解した。

ホテル滞在が長くなるにつれて、気になっていた。ホテルはインスブルック中央駅前にあり、正面玄関の角を曲がったレストラン出入口付近に、若者がたむろしているのだ。彼らはなにをするでもなく、通行人を眺めている。何度か、警察官が若者に話しかけているのを見かけていたが、相変わらず、仲間内でふざけたり、歩道に座っている。その前を歩くのはちょっと不気味だったが、日本人には「ニーハオ」と笑顔で挨拶するから、ときには「こんにちは」と返して来た。

今日の事件を見て、確信に変わった。仕事がない若者が、観光シーズンを目当てに、よからぬ目的で出稼ぎに来たのではないか。
旅行社は「ひったくり・スリ・泥棒などを正業にする者が多いから注意するように」と、観光客に警戒を呼びかけているし・・・。

明るい陽射しが溢れている帰路だったが、それまでに抱いていたインスブルックの印象に陰りを感じた。EU圏では、シェンゲン協定で国境を越える移動が自由になっている。最近は、ヨーロッパの経済問題が深刻だし、失業に伴う出稼ぎが増え、治安問題が日常生活に影響している。そんなことを考えさせる出来事だった。

7月26日(木)台所でクヌーデル作り

マルチンさんが「ようこそ、いらっしゃいました」と挨拶して乾杯。その後、クヌーデル作りをした。
マルチンさんは、夏はハイキング・ガイドを、冬はスキー・インストラクターをしながら、農牧畜業、林業などの力仕事を担当し、今日はクッキングの先生だ。

「都市化した町はともかく、チロルに住んでいる人々は、生きていくための労働はなんでもします」と、マルチンさんは言う。

玉ねぎを刻んで炒め、茹でたジャガイモを潰し、ヨーグルトやバター・塩・コショウで味付けし、全部を捏ねてお団子にする。泥遊びのお団子を連想して、なんと無邪気な楽しい作業だったことか。マルチンさんの手際のよさに、一同感嘆した。

驚いたのは、一見、ごく普通の調理台なのに、薪を使っていることだ。
調理台のいちばん下の引出しは、短く切った丸太の貯蔵庫兼乾燥庫。
その上の段は、空気を取り入れて薪の火力調節をし、燃えかすが溜まる場所。
3段目で、薪を燃やす。
その上の調理台の表面で、湯を沸かしたり、鍋で調理したり、場所によっては温度の違いを利用して、鍋やヤカンを置いて保温している。
ガスや電気は一切使わないけれど、なんの問題もなく、調理ができる。
高齢世代の多い仲間は、「薪の調節は大変だったけれど、竈の仕組みと同じねえ」と、数十年前の日本の台所を懐かしんだ。

味付けされたクヌーデルのスープ、オーブンで焼き上げた牛肉、サラダ。
持ち寄ったワインを傾け、素晴らしいディナー・パーティーだった。

食後の片付けでびっくりしたのは、皿やグラスを食器用洗剤に漬け、そのまま洗わずにふきんに伏せたこと。口に入れても問題ない洗剤を使っているのだろう。
「日本人は、食器をゆすがないなんてことできない・・・」とお互いに呟いた。
うん。エコの奨励や、衛生・清潔などの感覚には、国民性・思想が色濃く現れる。日本人は、なんでも「水に流す」のがお得意な民族だし・・・。

夏時間で8時を過ぎても、まだ明るい太陽が頑張っている。別れを惜しみながら、駅までマルチンさんが見送ってくれた。
下車した時には気づかなかったけれど、ライフェンは無人駅で、私たちのグループ以外の人影はない。

汽車が来るまで、夫はマルチンさんから駅周辺の様子を聞いた。
ホームの目の前の林は国有地だが、マルチン家が管理する権利を先祖代々、世襲で受け継いでいる。

ただ、鉄道沿線に沿う幅10メートルほどは、安全な列車運行をする鉄道会社の責任で、樹木が風や雪で倒れると、本当は鉄道会社が片付けなくてはならない。実際はそれが難しいので、代わりにマルチンさんが人を雇って伐採し、それに必要な人件費を鉄道会社に要求して支払ってもらう。
管理している林の木を伐ると、同じ本数の木を補充して植えることになっている。マルチンさんの裁量で伐採した木材は、出荷したり、自家用にしたりして、マルチンさんの収入になる。

下草が刈られ、手入れされた森林の管理が、こうした林業の仕組みで行われていることを知り、興味深かった。古くからの伝統を守る生活が維持され、過疎化とは無縁だからこそ、こうした林業も健在なのだと感じた。

2013年4月3日水曜日

7月26日(木)マルチンさん宅訪問

添乗員の鈴木さんは、昨年のインスブルック滞在でも添乗員をし、ハイキング・ガイドのマルチンさんを知った。その関わりから、鈴木さんのアイディアで稀有な体験をした。

鈴木「もうすぐ滞在を終えるグループに、特別な思い出になるプログラムがないかしら・・・」。
マルチン「12名の小さなグループなら、夕食にお招きしましょう」。
鈴木「でも、招かれるだけでは申し訳ないし・・・」。
マルチン「だったら、オーストリアの伝統料理クヌーデル(ジャガイモの団子)を一緒につくって、食べましょう」。
こんなやり取りがあったという。
その結果、思いがけず、典型的なチロル地方の暮らしに触れる機会ができた。

ドイツ語通訳の柳瀬さん(モラス夫人)を加えた総勢14名が、夕方4時過ぎ出発。
インスブルック中央駅から30分のLeifhen駅で降りると、マルチンさんと息子ユリア(もうすぐ3歳)に歓迎され、すぐに彼らの家までの道が興味津々の舞台となった。

道路沿にある木材の集積所からは、霜降り松の香りが漂よっている。
マルチンさんが「この木材は最近、弟が伐ったものですよ」と、指差す。
古い小さな教会がある。毎日曜日、住民がミサに集まってくる共同体の拠点だ。
朝、放牧され、夕方には小屋に導かれている牛の群が、従順に歩いている。
この地方の伝説だというの巨人の家がある。
見慣れない日本人グループに笑顔いっぱいの挨拶をしながら、仕事を終えて家路を急ぐ村人たち。

「僕の両親の家、弟の家族の家、お祖母さんが住んでいる家、妻の両親が住んでいる家はこちら、あちらはおじさんの家・・・」。
次々に指差すマルチンさん宅の向こう3軒両隣は、みんな親類縁者だ。
マルチンさん宅の入口に、集落の責任者の印が掲げられている。隣接して、共同で使っているパン焼き小屋、燻製小屋がある。

池では、番いのアヒルや鴨がノンビリと泳いでいたが、人の姿を見ると、猛烈なスピードで岸辺を目指し、餌をねだっている。

緩やかなスロープの下のトランポリンでは、ユリアが早速飛び跳ねて、得意な演技を披露する。

夕方の柔らかい光を浴びながら、1時間ばかり周辺の牧場へ歩いたり、農家の佇まいを観察したり。
生まれたばかりのエマニエルを抱いて、夫人が現れて挨拶し、母親も姿を見せる。

遠い昔、日本の田舎にも、穏やかな暮らしがあった。そんな雰囲気に通じるものを感じて、懐かしい。



7月26日(木)チロル独立の古戦場ベルクイーゼルへ

午前中、バスを利用して10分ほどのベルクイーゼルへ出かける。
インスブルックの街の背後に広がるノルテケッテ、シュトゥーバイタール、パッチャーコーフェルを望む絶好のスポット展望台があり、観光客が群がって順番待ちをしている。その先に、ホーファー(1767〜1810)の墓地と銅像があって、特別な場所になっている。

ホーファーにまつわる歴史は・・・。
およそ200年前、ナポレオン1世はヨーロッパ支配を目論み、フランス軍を率いてオーストリアへ侵入。チロルに隣接するバイエルンは早々とナポレオン1世に協力し、その功績で、チロル地方統治を任せられた。

それに対してチロル人は反抗し、ホーファーの指導で、1809年に蜂起。多勢に無勢ながらチロルはベルクイーゼルでの2回の戦いに勝ったのだ。
シェーンブルンの和解後もバイエルンの支配は続き、戦いが再燃。ホーファーは捕虜となった。手を焼かせるチロル人憎しから、ナポレオン1世はホーファーの処刑を命じ、1810年2月20日に銃殺された。チロルの農民は、闇夜を利用して葬られた遺体を掘りおこし、ベルクイーゼルに運び、手厚く埋葬した。
ナポレオン1世が失脚すると、ベルクイーゼルにフランス軍が残した大砲を利用してホーファーの銅像が造られて、墓地に立てられた。

登り下りのある小さな山を望み、茂みを歩きながら、ホーファーはチロル独立の英雄であり、ベルクイーゼルの丘は独立の古戦場である謂われを知った。
最上階の喫茶室で360度のパノラマを眺めながら、メレンゲコーヒーで一休み。

古戦場のベルクイーゼルには、スキージャンプ台がつくられて、各種の国際的なスキー競技が開催されている。インスブルックで開催された冬季オリンピック(1954年と1972年の2回)の舞台にもなっている。ジャンプ台の銘板に優勝した選手の名前が刻まれ、1972年のオリンピックで活躍した日本の笠井選手の名前を見つけた。

ジャンプ台斜面の草原で、グラスファイバー・スキーをしている数人は、スキー愛好者か、冬に備えての選手のトレーニングなのか。観客席に座って、興味深く眺めた。

余談。ベルクイーゼルの丘を歩いている途中で、メモをとる紙がないのに気づいた。旅の習慣で、説明や感想を書きつける大切な紙切れだ。周囲を見渡したがない。
一回り観光した後も諦めきれず、未練がましく、途中にあるゴミ箱の全てを、ときにはゴミを動かして確かめながら下った。そして、出口近くのゴミ箱を覗いたとき、あった!
大事な紙切れは無事に戻ったが、ゴミ箱を覗き漁る姿は奇異なものだったろうと赤面し、同時に、紙切れを拾ってゴミ箱に収める人がいることに感心した。

2013年3月13日水曜日

7月25日(水)休養日

朝寝坊して、8時頃に朝食へ降りていくと、1泊旅行に出かけている日本人が多いせいか、閑散としている感じだ。

午前中、ホテル前のコインランドリーへ。だいぶ溜まっていたのでさっぱりした。

1時頃、昼食はピザ屋の「マンマ・ミーア」で。
先日ピザを食べたので、カルボナーラを注文。ヴァイスビールとラドラーも添えて。これはお茶代わり。飲まないと忘れ物をした気分で物足りない?。

食後、お土産を物色するつもりで旧市街の店を覗く。夫がかなり疲れた様子なので、3時過ぎにはホテルへ戻った。

「年を取るほど、ゆっくり疲れがやって来る・・・」と、昨日の悲鳴はどこへやら、憎まれ口をきいたが、ほんとうは、夫は買い物に付き合うのが嫌い。それに昨日のハイキングでは、だいぶ気苦労をしたし。こんな条件下では、買い物をする方が・・・だね。

夕食は部屋で済ませて、早々と就寝。


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7月24日(火)行きはよいよい、帰りはこわい

夫は、「同じ道を下るのは面白くないよ。地図で見ると、山上駅への別ルートがあるし、上りよりは下りはたいしたことないから・・・」と言う。「それもそうねえ」と、上りの道を思い出しながら、1時40分に下り始めた。

ところが、想像を裏切って”たいしたこと”だったのだ。
歩き出すと間もなく、下を見れば目が眩むような崖のつづら折りの道になった。特に折り返す部分は絶壁で、一歩踏み外せば、谷に落ちて行くような錯覚で、恐怖だ。すれ違う人がいると、やっとのことで山側にへばりつく。大小の岩や砂礫で滑る道だから緊張する。大きな岩のある段差を降りるために、脚をいっぱいに伸ばしても届かない。滑るように足場を探って、やっと進む。

喉の渇きすら忘れて、緊張しながら50分ほど歩いた頃、復路半ばにある山小屋「ボッシュエーベン・ヒュッテ」が現れ、ホッとした。
この山小屋は夏の時期だけの営業で、尾根を行くハイカーが宿泊する設備があるし、食事を提供している。
そこで飲んだアップルジュースの美味しかったこと! さっきまでの必死な気持ちは失せ、周囲をのんびり眺める余裕が生まれ、人心地を取り戻した。

ところが、山小屋前の道に急ぎ足の4人の親子連れが現れ、「あと40分で、最終のゴンドラが出るよ」と言いながら、たちまちに遠ざかって行った。
さあ、それからは必死に歩いた。地図を見るとかなりあり、弱音を吐く暇もない。息を切らせ、歩きに歩き、とうとう、「インスブルック行きに乗れなくてもいい」と居直った。同じように先を急ぐグループが、次々にやって来る。
夫は「こんなにたくさんの人がいるのだから、ゴンドラが待っているよ。頑張れ」と叱咤激励する。

発車ぎりぎりに間に合ったゴンドラは、満員だった。
「もうハイキングは金輪際しない」と呟いたが、満足気な人々を眺めながら、スリルに満ちた素晴らしいハイキングだったとも感じていた。夫はしみじみと「あんたさんには、たいしたことだったねえ。大誤算だったけれど、結果はよかったでしょ」と笑った。

5時過ぎにホテルに無事に帰り着いた。
膝や踝が痛み、太腿からふくらはぎにかけて脚がつる。日焼けでお猿のお尻状態に赤くなった顔。シャワーを浴び、湿布をペタペタ貼り付け、疲れ果てて、夕食を食べる元気も出ない。なんとも大変な1日だった。

改めて地図を見直すと、午後のハイキングの道が、7月6日午後に出かけたトゥールファインアルムからフィガーシュビッツェを経て、ボッシュエーベンヒュッテに通じていることがわかった。ツィルベンヴェーク(霜降り松の道)として人気があるハイキングコースで、その半分を歩いたのだと知り、苦行?の成果を理解した。

7月24日(火)パッチャーコーフェルへ出かける

7時に朝食へ。久しぶりに仲間と会って、懐かしく挨拶。
今日から1泊で、イタリアのブレッサノーネへ出かける人が多い。滞在も終盤になって、まだ残している計画を実行しようと張り切っている。

パッチャーコーフェル・バーンのゴンドラの運転開始のニュースを聞く。
ゴンドラ経営会社とインスブルック市の交渉が、やっと解決したのだ。
ハイキングで利用する観光客の多いシーズンなのに、いつまとまるか不明だった。ほとんど諦めていたから、帰国前の解決は有り難い。早速、出かけることにする。

インスブルック中央駅前から、10時発のバスに乗り、パッチャーコーフェル山麓駅のあるイーグルス(標高900メートル)まで15分。
そこからゴンドラに乗ってパッチャーコーフェル山頂駅(標高1964メートル)へ。
標高差1000メートル余りを15分で登った。リフトやゴンドラにも慣れ、最初の頃ビクビクしていたことが不思議に思えてくる。

眼下のインスブルックの街の広がり。朝な夕なに見上げる向かい側の山並みはノルテケッテだ。ひとつひとつ記憶の奥に留めようと見渡す。何度眺めても飽きることなく、見事な風景だ。

さて、山頂駅からのハイキングのルートは二つ。右へ歩くか、左へ行くか。
地図を見ると、右は、パッチャーコーフェル(標高2246メートル)まで1時間。年配の夫婦や子ども連れの家族が右へ歩いて行く。左はツイルベンヴェークを縫って距離は長い。ハイキングに慣れたグループや若い人が向かっている。私たちは、右が相応しいと判断した。

山腹を大きく巻く道は、車が通れる幅で整備されて、ときおり車が下って行く。
歩き始めは緩やかな勾配の坂道で、「楽チンなハイキングだわねえ」と、いささか拍子抜けする雰囲気だ。
カーブを大きく回るにつれて、これまでの風景がゆっくりと変化し、360度のパノラマが拡がっていく。インスブルックは、こんなに身近にハイキングを堪能できるのだからじつに羨ましいし、素晴らしいと、歓声をあげ続けた。

揃って元気いっぱいに右手に歩き出した人たちは、跳ねるようにどんどん先を行く子どもたちも、大地を踏みしめるかのようにぐいぐいと歩幅を重ねて歩いている老夫婦も、何時の間にか姿が見えなくなっている。後から来た人たちも、次々と追い越して行く。「庭を歩くような気分で、山の坂道なんて平気なのね。凄いなあ・・・」と驚き、感心しながら、マイペースで歩き続ける。

次第に歩幅が狭くなり、心臓の鼓動が高鳴って、「まだあるの?」と悲鳴をあげ始め、それから何度「ちょっと、ひと休み・・・」を繰り返したことか。
1時間をはるかに超えてパッチャーコーフェルの頂上に立ったとき、それまでの弱音はどこへやら、 「やったあ・・・」と歓声をあげ万歳した。
「インスブルック滞在中に、たくさんの頂上に立ちたい」と話していたが、パッチャーコーフェルは七つ目の快挙?になった(はずだったが・・・)。

頂上近くの山小屋で食べた、骨付のフランクフルターとスープの昼食の美味しかったこと!
オーストリアの旅行社のガイド2人と同じテーブルになった。彼らは、老若男女25人のグループを案内し、「ロシア、アメリカ、ドイツ、オーストリア、オランダから参加している国際的なハイキンググループです」とのこと。
周囲のテーブルを見まわすと、寛ぎながらお喋りしている参加者は、いずれも日に焼けて、逞しい。食事が終わると、英語の案内で、出発していった。

2013年3月12日火曜日

7月23日(月)リュフィコプス展望台で

5時半起床。
空は快晴だが、山には朝霧が深く漂っている。夫は写真を撮るために早々と出かけ、1時間以上、周囲を歩いて戻ってきた。

レッヒの中心部は標高1444メートルだけれど、オーバーレッヒは丘の中腹にある集落で、標高1750メートル。ロープウエイで下に降り、昨日出かけたリュフィコプス展望台へのぼった。

雲ひとつない快晴で、周囲の広がりが素晴らしい。展望台の東西南北のパネルには、連なる山々の高さと形が書かれ、その間に、パリ、モスクワ、東京、ニューヨークなどの大都会の方角が刻まれている。山と都市の名前を確かめていると、意外に世界の広がりが親近感をもたらすから不思議だ。

そんな感慨にふけっているとき、10歳前後の小学生のグループがやって来た。
先生が山の名前を言いながら指差し、生徒はパネルに書かれた標高を確かめながら眺めている。
そのうち、「東京って書いてあるよ」と声を上げた男の子に、「日本の首都だよ」と先生が話している。
先生の近くでその様子を眺めていたから、やり取りを耳にし、ちょっと会話に加わりたくなった。「私は東京で生まれて、近くの県に住んでいます。レッヒには観光で訪れましたよ」と言うと、先生は「そりゃあ、ラッキーだ。東京はどんな都会ですか?」と、逆にいろいろ質問されてしまった。

日本の政治の中心都市で人口が多いこと、日本各地と鉄道や飛行機で通じ、都内では地下鉄の路線も多くて、交通網が整備されていること、気候が温暖で四季の変化があること、文化・娯楽などの楽しみが多いことなどを話す。
先生は生徒にドイツ語で話し、生徒からの質問を私に英語で聞き、通訳している。
臨機応変に学習をする機会をつくる先生の様子に感心し、昔の経験が役立って協力することができたけれど、好奇心が強くてお節介をしたのは、冷や汗ものになった。

12時45分、山麓駅前広場に集合。
ホテル「アールベルク」の庭で、揃って昼食した。ダイアナ妃がご愛用だったレストランだとか。クラブ・サンドイッチを注文。ラドラーとビールも忘れない。

アールベルクは、レッヒ川を挟んで村のメインストリートに面している。川のせせらぎを聞きながら、周囲の山並みにすっぽり囲まれた木陰の2時間は、至福のひとときだった。

特に、インスブルック滞在の旅で、地元の若い旅行社社長であり、企画・案内を担当したモラスさんと、個人的な雑談をした。
母親が東京のオーストリア大使館に勤務していたので、オーストリア人と結婚した。いろいろあったけれど、幼い頃からオーストリアで暮らしている・・・。
このときの話でモラスさんは35歳だと知った。若い。外国で育った青年には、ときに日本の同世代よりも礼儀正しく、成熟していると感じることがある。モラスさんもそういったひとりだった。
滞在の日が経つにつれ、私たち夫婦は何度も言ったものだ。
「日本の旅行社の企画だけれど、モラスさんのゆき届いた素晴らしい気配りあってこその旅だと思う。インスブルック滞在の大半は、モラスさん抜きでは、こんなに満足しなかっただろう」と。

3時発の「ランゲン行」のポスト・バスに乗車したが、入口の発券機が故障している。運転手が「乗りなさい」と手を振り、全員無料になった。のんびりしたものだ。
3時25分着。ランゲン・アム・アールベルクですぐに乗り換えて、3時30分発の
ウイーン行特急列車に乗った。5時頃、インスブルック駅帰着。
7月22日(日)エコとハーブのレッヒ村
1990年までのレッヒ村では、年間800万リットルの灯油を消費し、雪が汚れて問題になって来た。以前の生活空間を守る努力をしなくてはと、エコの考えが様々な面で検討された。

ひとつは木質バイオマスで集中暖房する施設をつくったこと。各家庭への配管で熱湯が供給されている。レッヒ村に到着してすぐに、建物の屋根から白い蒸気がもうもうと立ち上っていたのが気になったけれど、「ここで熱湯がつくられています」と聞いた。村内には同じ施設が4カ所あるとか。

ふたつ目は、排気ガスを減らすために、電気自動車を積極的に採用していること。

その他、山の中に道路を造らない、すでにある道にも一般車は立入禁止、川の上流は土地開発をしないなど、自然保護のために、徹底した規制が行われている。
その結果、川の水が飲めるように回復したし、空気がきれいになって、花の色が美しくなった。
地元の有機栽培農家が育てる食材で料理をし、地元の建材で家を建てるなど、自給自足しながら暮らしの質を高める工夫がされた。
そうした成果が着実に実ったレッヒは、自然保護の模範的な村になっている。
ホテルやレストランなどの玄関前に、「環境保護賞」を意味する花の形の輪があって、個数は受賞回数を表している。個数が多いほど、村の自然を大事にしている証拠だ。

11時近く、オーヴァーレッヒにあるホテル「ブルグヴァイタル」に到着。今晩はここに泊まる。
荷物を置くと、早速ハーブ園を歩いた。ちょうどハーブの成長の盛りで、花々が咲き乱れている。日本語のハーブのパンフレットがあり、採集と保存、使い方、効能などが写真入りで説明されて、わかりやすい。スギナ、ヨモギ、ナズナなど日本でもお馴染みの野草がハーブティとして利用されているのも、楽しい。
思い出した。「日本人は草花や樹木の名前をよく聞きます。この国では、草、花、木というだけで、済みますが・・・」と苦笑したトルコのガイドがいたっけ。きっと、ハーブについても質問が多いのだろう。

ハーブ園を一巡後、シェフのルシアンさんがハーブをつかった料理を説明。
ハーブ入りの焼きたてのパンと一緒にワインを試飲し、続く昼食は、ホテルの人気メニューだった。

メニュー ルシアン氏の庭のサラダ
地元産のチキンのソテー、マッシュルームとパンダンプリング添え
デザートはイーストダンプリング
この辺りで代表的な赤ワインの「SEPP MOSAR」を注文。

ロープウエイでレッヒの中心部へ降り、ぶらぶら歩く。レッヒ川に沿ってホテルや商店、レストランが建っている。ヘミングウエイが滞在した「ホテル・クローネ」。ダイアナ妃のお気に入りのホテル「アールベルク」など、有名人が足跡を留めた話を聞きながら、ロープウエイ山麓駅へ。
そこから、宿泊ホテルから眺められる向かい側の山々のひとつ、リュフィコプフ(2362メートル)の展望台へのぼった。

レッヒ川の流れを挟んで、こじんまりとした村を見下ろしながら、山の恩恵を与えられ、それを育てている村人の暮らしを想った。
生憎雲が多くて遠景は霞んでいるし、日帰りグループの出発時刻もある。もっとゆっくりと眺めたかったのだが、ロープウエイで降りた。明日の天気を期待して、自由時間にもう一度来よう。

その後、14世紀のフレスコ画が残る聖堂や、その前にある郷土博物館を覗く。
古いけれど、どこにでもあるような印象で、たいして感興は湧かず。レッヒは自然と人々の暮らしぶりが財産だと感じた。

5時頃、ホテルにチェックイン。
夫は付設のプールへ出かけ、元気おじさんぶりを発揮。7時からの夕食まで寛ぐ。
7月22日(日)レッヒへ1泊の旅
数日前、ホテル・ロビーの掲示板に「フォアアールベルク州のレッヒへの1泊の旅」の案内が出た。
「冬は雪深いのでスキーが盛んなヨーロッパの高級リゾート地。王族・貴族の社交の場になっています。夏は斜面を辿るハイキングが盛んです。ハーブの宝庫で、それらを使った美味しい料理もあり・・・」。

早速ガイドブックや地図を眺めると、レッヒのあるフォアアールベルク州はオーストリアの西のはずれで、領域は狭い。北側にはドイツ、西の一部にはリヒテンシュタイン、西から南にかけてはスイスの国境が迫っている。

700年前には人が住んでいなかったアールベルクの谷間(レッヒ)に、スイスの農民がやって来て定住し、文化的にはスイスの影響が強いという。
「スイスねえ・・・」と、10年前の滞在を思い出した。スイス人は働き者だし、利に聡い民族だし。ハプスブルク家の支配から独立を勝ち取って以来、小国ながら独自の歴史を辿っている。レッヒにやってきた開拓農民には、そのDNAが流れているのだろう。彼らはオーストリアに定着したゲルマン民族とは異なる一派で、今でも言語が違うという。

レッヒは辺境の山奥の村だから、ヨーロッパ国際特急列車(EC)に乗ってザンクト・アントンまで行き、バスに乗り換えても時間がかかる。個人で出かけるよりはツアーに参加した方が便利だ。スイスの影響やハーブの宝庫という惹句に興味を持ち、申し込んだ。

往きは貸切バスで、9時にホテル出発。もう一つのホテル「クラウアー・ベアー」に滞在している参加者がすでに乗っている。日帰りの参加者は、帰りもこのバスを利用する。1泊参加者11名は、バスと列車を乗り継いで帰ることになっている。

往きの車中では、オーストリアやレッヒを紹介する映像が流れ、訪れる土地の事情がわかって面白かった。チロル州議会見学での説明では、「環境保護」はオーストリアの大事な政策だった。映像は、その具体的な例を次々に映し出した。

買い物を入れるビニール袋はトウモロコシの枝や葉で作られ、1枚20セント(滞在中の1ユーロ=100セントは100円前後だから20円)で売られ、何回も利用されている。
空瓶は1本50セント(50円)、ペットボトルは35セント(35円)を価格に上乗せしているが、返却すれば現金が戻ってくる。
生鮮食料品は原則としてバラ売りで、自分で秤にかけるか、レジで計ってくれる。野菜類は有機栽培が多い。
車の利用を抑えるために、身分証明書を提示すれば1時間以内は無料で自転車を貸し出している。電気自動車の充電スタンドが、どこの自治体にも設置されている。
コンテナによるゴミ分別が徹底し、衣類は発展途上国へ送っている。

現在のレッヒ人口は1400人。観光客で増える時期でも、無駄なゴミを出さない生活を徹底すれば、街が綺麗になると強調する映像を眺めながら、その方針に沿った暮らしには、住民の意識が土台になっていることを痛感した。

次第に標高が高くなって、耳鳴りがする。バスは深い霧の中をひたすら走って行く。
やがて、片側に窓があり、屋根が張り出している長いトンネルに入った。チロル州とフォアアールベルク州の境界に造られたアールベルク車両トンネルで、14kmほど続く。州境のアールベルク峠(1793メートル)は、古くから交易路の難所だった。トンネルの開通によって、レッヒ村などオーストリア西部へのアプローチが大きく変わり、山岳高級リゾート地になったという。
小さな窓からは、走って来た道や、白く弾けた水が崖から筋条に落ちている様子が、ちょうどまわり燈籠のように変わりながら、覗き見える。

窓外の曇天を気にしながら風景を眺め、ツルス村を通過すると、急坂の下りになった。10時35分頃、レッヒ村(標高1444メートル)の入り口に到着。一山越えて辿り着いた感じがした。

7月21日(土)王宮へ出かける

昨日は不覚にも昼寝をたっぷりしたのに、起床は7時。
元気な日々だけれど、体は正直に疲れを感じているらしい。明日から1泊旅行の予定だから、体力確保をしなくっちゃと、ゆっくり、のんびりと休養することに。

午後、快晴に誘われて王宮へ出かけた。
王宮は、1460年にジークムント大公によって建造され、ハプスブルク家の繁栄に伴って拡張し、マリア・テレジア時代(1754〜73にかけて)に改修されて、ロココ調の大広間や礼拝堂が造られた。

この王宮で、マリア・テレジアの三男(後の神聖ローマ皇帝)レオポルト2世が、スペイン王女ルドヴィカと結婚式を挙げている。マリア・テレジアは、スペイン王家との姻戚関係の強化で、レオポルドの婚姻にはとりわけ満足だったらしい。凱旋門まで建造しているのだから(7月19日記述)。
礼拝堂では婚姻のミサが執り行われ、大広間では祝宴の舞踏会が行われたのだろうと、華麗な舞台に思いを馳せながら辿った。

マリア・テレジアの治世の始まりは、決して安泰だったわけではない。
父王カール6世(1685〜1740、在位1711〜40、ハプスブルク家男系最後の王)には、娘しか生まれなかった。案じたカール6世が、家訓の男系家督相続を改めて、女性の家督相続を可能にした。父王の死で1740年にマリア・テレジアが即位すると、「そんなの認められませーん」と、プロイセン・フランス・スペインが猛反対し、「オーストリア継承戦争(1740〜48)」が勃発。一度は鉾を納めたが、さらに「7年戦争(1756〜63)」が続いた。
これらの戦争は、マリア・テレジアの即位に反対する枠を超え、ヨーロッパの絶対主義諸国(王家)の野心の対立を示していた。

マリア・テレジアは、夫フランツ1世(1708〜1765、神聖ローマ皇帝在位1745〜65)と名義上の共同統治をし、国難を乗り切ろうとしたが、人がよいだけで政治的には頼りなかった。取り柄は愛妻家だったから、マリア・テレジアは子どもを”産めよ、殖やせよ”と16人出産し、彼らをヨーロッパ王室外交の人材として巧妙な姻戚拡大を展開していった。

また、インスブルックの王宮が、大事な舞台になった時期がある。
1848年のフランスの二月革命の余波で、オーストリアでは三月革命が起こった。
自由主義・民族主義の嵐が吹き、メッテルニヒが失脚し、ウイーンに代わって、ハプスブルク家はインスブルックの王宮に移ったのだ。

インスブルック王宮の背景を知ると、出かけるのが俄然楽しくなる。

王宮の「大広間=リゼンザール」が素晴らしかった。広い空間のところどころに鏡が設置され、天井に描かれた画を反射して鑑賞できる仕組みになっている。見上げるのは首が疲れるから、いいアイディアだし、微妙な淡い色合いを身近に眺められるのだから、有難い。
ハプスブルク家の肖像画では、男性よりもマリー・アントワネットやエリザベート(愛称はシシー、1837〜98)の愛らしい姿に興味をひかれ、マリア・テレジアの威風堂々とした恰幅のよい肖像画を見て「さすが・・・・」と感じた。

エリザベートは、現代風にいえば、スタイルの維持にエクササイズに励んだらしい。化粧室や寝室のそばに、マシーン?もどきの器具があった。彼女はハプスブルク朝オーストリア皇帝のフランツ・ヨゼフ1世(1830〜1916、1848〜1916皇帝在位、1867〜1916ハンガリー国王在位)と1854年結婚し、オーストリア皇后やハンガリー王妃でありながら、貧しい庶民へ関心が強く、最後はジュネーブ滞在中に暗殺された。ハンガリーを訪れたとき、今でも人々の記憶には、エリザベートのスタイルと美貌、彼女の人生が強烈に残っていることを感じたが、王宮のマシーンを眺めながら、人気の在り方を改めて思った。

一見素朴なつくりだが、製造年代によって、微妙に形が変化している椅子のコレクションがあった。背もたれの優美な曲線と装飾は、ロココ調なのだろうか。マリア・テレジア時代のものも含め、インスブルックの椅子製造の親方がつくったと説明あり。

気晴らしには程よい王宮見物だったし、久しぶりに世界史を思い出した。

2013年3月11日月曜日

7月20日(金)質疑応答のいくつか。

⑴ 原子力発電をしているか。
電力の80%は水力発電で、20%はドイツから購入している。ドイツから買った電力に原子力発電があるかもしれない。原発はしていない。
チロルの人は今の生活に満足し、自然を破壊するダムはこれ以上造らないと決めている。自然を破壊すれば、動物も減少する。

⑵ 専門家に御用学者の問題はないのか。
若い世代からの教育で、それを防ぐことができると考えている。
議員は立場が違っても、意見を聞き、主張し、討論する。選挙民が見張っている。

⑶ EUとの関わりはどうか。
チロル州では、EUの問題に半数は不満をもっている。治安・失業率・生活の質については、今までは満足していたが、最近は変化が出始めている。

⑷ 最近の日本では、健康面を考えて喫煙者へ厳しくなっている。街中で喫煙する人を多く見かけるし、吸殻もたくさん捨てられている。規制はしているか。
80m2以上の建物では禁煙になっているが、建物の出入口の外では、自由に吸える。自己責任で喫煙している。
(と言いながら、ハウワー氏はポケットからタバコを取り出し、「私も外では喫煙します。多分、来年みなさんが再びインスブルックにいらしても、変化がないでしょう」と。一般にドイツ系の人には、喫煙者が多い感じがする・・・)

議場を出ると礼拝堂があるのに気がついた。13世紀に造られたものだとか。
礼拝堂入口に、ラディン語(ラテン語)のモニュメントがあり、オーストリアの少数民族ラディン族(約2万人)が、2年前に設置したものだという。テーマは「未来への期待」をあらわしているそうな。
礼拝堂は普段は使われていないが、州議会の開会前に、州議会議員とその家族が集まってミサをおこなっている。

旧州庁舎前で解散し、1時頃ホテルへ戻る。ちょうど部屋の掃除中。
ロビーで、1日遅れの朝日新聞の海外版を読んで待つ。PCで朝日新聞をダウンロードして読んでいるのだが、全面が一目で見られるレイアウトがいいし、紙の感触がいい。書籍や週刊誌、天気予報を眺めるだけで、世間の動きがわかるのだから。アナログ人間の証拠だ。

午後、PCに向かうつもりだったのに、次第に眠くなってベッドにもぐりこんだ。
ウトウトしているうちに深く眠り、気がついたら5時半。

終日、降ったり止んだりの梅雨を思わせる雨で、窓からのノルテケッテは全く見えず。


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7月20日(金)議会活動のあれこれ

⑴ オーストリア共和国には首都ウイーンと8の州があり、行政の権限は主に州にある。以前から、中央集権と地方分権の立場の違いは、ドイツの影響では国が強いし、スイスの影響では州が強い。例えば税金をみると、国と州の分担の違いが州によって異なっている。

⑵ 州議会議員の選挙は5年に1度行われ、チロル州では16歳以上に選挙権がある。
16歳の選挙権を認めることについては、激しい議論があった。選挙は州の政治に影響するのだから、権利と責任を伴うが、16歳はまだ未熟だと。そこで、家庭で選挙や政治について話す機会を多くし、16歳でも責任を果たすことができるという世論ができた。若者の考えが政治に反映するので、チロル州住民の安定につながっている。他の州に比べて地元を離れる者が少ないから若者の失業率が低いし、犯罪が少なくて治安がよい。
(これは逆にいえば、谷毎の共同体はお互いによくわかるし沢山の目があるので、保守的な面があるとも言える)

⑶ 選挙権については複雑な事情があって、オーストリア国籍を持つ者となっているが、最近は地方自治体ではEU国籍を認めている。

⑷ 前回2008年実施のチロル州議会選挙では、36名の議員を選出した。そのうち10名が女性。平均年齢は54歳。投票率は78%だったが、それ以前は80%以上だった。
16年間、オーストリア民主党が実権を握り、他に自由党・社会保障党・みどりの党などの議員がいる。

⑸ 議員は議会会期中に、最低2回の発言機会がある。だれかが準備した原稿の読み上げは許されない。自分の意見をはっきりと言い、その様子はカメラに収められてインターネットで放映される。議会の議論は、静かに聴くことに徹し、ヤジは嫌われる。
(日本の国会議員に聞かせたいなと、思った。)

⑹ その他に、ウイーンの国会にチロルを代表する議員がいて、活躍している。
オーストリア共和国の発展の柱は、観光資源、社会福祉、環境保護の3点。
法律制定の材料を説明する専門家がおり、その助言に基づいて議員が討論し、法律ができる。
専門家は将来を考える人たちで、環境・防衛・社会福祉・エネルギーなどの各分野で活動し、議会と深く結びついている。

7月20日(金)チロル州議会見学

10時。地元旅行社の特別企画・旧州庁舎内にあるチロル州議会見学へ。
滞在中の日本人が30人近く参加した。街の様子がある程度つかめてきたので、時期を得た勉強になった。

州議会責任者ホフ・ハウワー氏が「議会見学をする日本人は初めてですよ」と歓迎の挨拶をし、先ず旧州庁舎や議会内部の装飾・彫刻などを解説しながら案内してくれた。

現在の旧州庁舎は、チロルで最も重要なバロック宮殿のひとつで、1725年から4年かけて建設され、部分的にはそれ以前の古い部分も残っている。

議会の天井画は、ウイーンで活躍していた画家が、1735年に描いたものだ。

議場の前面の壁の右側に聖職者、左側に貴族、後ろの壁にはブドウを持つ農民の彫像がある。

「チロルの農民は、比較的早く領主から自立して土地を持ちましたよ」と語りながら指差す壁を見ると、天使がひとりの人物の首を切っている。「”農民が束になれば力になる”ことを、あらわしているのです・・・」。
天使に仮託して、農民の立場を象徴的に示しているらしい。それだけ農民の怒りが大きかったのだろうが、呆気に取られた。

議場の壁面には、他にも聖書と結びつけてチロルの物語(歴史)を描いた絵や彫刻が多い。13世紀にチロルのキリスト教をまとめた人物像が描かれていて、左手を差し伸べているのは優しさを、右手に握る劔は厳しさを表しているとか。

チロル一帯では、1340年代には支配者と市民との話し合いがあったし、1363年からのハプスブルク家の支配では、市民の権利を認めていたという記録がある。こうした流れが、実質的な議会の始まりになったらしい。

インスブルックに到着して時間が経つにつれ、チロルの人たちが地域の伝統に対して非常に誇りを持っていることを、いろんな場面で感じていた。
議会の歴史や絵画・彫像の具体的な説明を聞きながら、チロル人の誇りは、こうした背景から育ったのだと感じ、なるほどと思った。

その後、州議会の議場の椅子に座って話を聞き、質疑にも丁寧に答えてくれた。チロル州の歴史、州議会の役割、その他、1時間余り。
具体的な議会活動に関連する話は興味深く、ときに笑いを誘ったり、感嘆の声があがったり。通訳をしたモラスさんは、ホフ・ハウワー氏を州議会議長と紹介したけれども、わかりやすい説明と聞き手を飽きさせない話術から、ひょっとして議会の事務方のベテランで、案内や説明に慣れた担当者ではないかとさえ思った。
面白くて楽しんだ。

7月20日(金)「PENZ」の朝食、行政の発想

「PENZの料理は素材が良くて、美味しいんですよ」。
そんな評判を地元の人から聞いた。毎日食べているオイローパホテルの食事は美味しいけれど、目先を変えて比べてみたい。それに好奇心もある。
そこで、今日の朝食は「PENZ」ホテルの屋上テラスへ出かけた。

市庁舎の隣りに、最近できたばかりの近代的なホテルがある。
その最上階のレストランは、眺めが素晴らしい。ノルテケッテとパッチャーコーフェルの山並みに朝もやがかかり、なにものかに吸い込まれるように、どんどん消えていく。しばし自然の絶妙な躍動を眺める。これもご馳走の内だろう。

ヴァイキング式の朝食は、料理の種類が多い。なにを選ぼうかと、迷ってしまう。まずはゆっくりと眺めて楽しむ。
珍しい南国の果物、多彩なチーズとハム、野菜、ジャム類が並んでいる。
反対側のテーブルには、調理された数々の料理があり、注文するとできたての皿が供される。オレンジジュースの絞りたての爽やかさと、マッシュルーム入りの焼きたてのオムレツの香ばしさ。
期待に違わず満足して、優雅な1日の始まりとなった。

すぐ隣りの建物に市長室があるのだから、インスブルックの市長も朝食の常連で、仕事前にやってくるのだとか。

朝食の話のついでだが、市庁舎の立地が面白いし、発想が素晴らしい。
市長が街の行政を考えるには、実に理にかなっているのではないかと思ったので、記録しておこう。

街の暮らしに仲間入りしてすぐ、町歩きのガイダンスで初めて訪れたのが、ショッピングセンターだった。「ここに市庁舎がありますよ」と説明されて、びっくりした。
街の再開発で最近完成したばかりの建物の内部には、洒落た店、予約しないとはいれない評判のレストランが並んでいる。窓に飾られている品々。店内のレイアウト。色彩の素晴らしさとデザインのセンスの良さ・・・。それぞれの店が競うように洗練されているし、個性を感じさせる佇まいが良い。
「でも、どこが市庁舎なの?」と辺りを見回し、やっと理解した。
市が土地とビルを提供し、レベルの高い店を店子にして観光名所にした。店の大家は市長だったのだ。市長室は、建物の最上階にある。

ビルの建築費は家賃から還元されていく。住民にしても、街中に買い物に来たついでに、市庁舎に気軽に行かれる。
市長自ら、毎日、店の様子や人の動きを見ることだろう。否応なしに人々の暮らしぶりを感じるだろうし、観光面の経済状態をチェックすることにもなろう。
市長の皮膚感覚が、行政に生かされるに違いない・・・・。
そんなことを想像し、すべてはいいことづくしとはいかないだろうけれど、この建物自体が、インスブルック経済の動向を反映していると感じたのだった。

7月19日(木)休養日

昨夜は我が家に戻った気分でやれやれと寛ぎ、今朝はゆっくりと起床。
朝食時に、久しぶりに会ったお仲間と情報交換。

午前中コインランドリーへ。自宅だと洗濯機を設定すると他の家事が待っているけれど、ここでは持参の文庫本を読みながら待つ。

午後、凱旋門からマリア・テレジア通りに向かい、旧市街を2時間ほど散歩。
凱旋門は、ハプスブルク家のマリア・テレジア(1717〜1780、神聖ローマ帝国女帝在位1740〜80))が、息子のレオポルド(1747〜92、後の皇帝レオポルド2世、在位1790〜92)とスペイン王女の結婚を記念して建造を命じた。ところが、マリア・テレジアと共治していた夫フランツ1世(1708〜1765、在位1745〜65))が1765年、観劇中に急逝したので、門の北側は「死と悲しみ」、南側は「生と幸福」をあらわす装飾が施されたという。

「凱旋」は戦いに勝って帰ることだが、息子の結婚を記念して門を造らせたことには、深い意味がある。銃火を交えずして、スペイン王家との姻戚関係で領土を拡大したのだから、凱旋に相応しいとガイドブックにも紹介されていた。

16人の子どもを産んだマリア・テレジアは、絶対主義体制の確立に子どもを政略結婚させ、末娘のマリー・アントワネット(1755〜1793)を、後のフランス王ルイ16世(1774〜92在位)と結婚させ(1770年)たのもそのひとつ。彼らはフランス革命でギロチンにかけられた。

ラム入りの生チョコレートを買い、デパート「カウフハウスチロル」でTシャツを物色後、ホテルへ戻った。

夕食は「そろそろお寿司を食べたいね」と、18時を目指して「ケンジ」へ。
「和食でないと、どうも力が出ないんだなあ。寿司、刺身のネタが新鮮ですよ。酢の物や野菜の煮物もあるし、味噌汁もあって、安心できるし・・・。昼食には弁当メニューがたくさんありますよ」と、毎日のように出かけている仲間から聞いていたからだ。

開店は6時からだったので、少々早くついてしまった。躊躇している様子の私たちを見て、「そろそろ時間ですから、中へどうぞ」と案内された。
路地に面している入口のテラス席では、すでに数人の客がビールを飲みながら開店を待っていたので、「食前酒という手もあった・・・・」と囁く。

「ケンジ」は韓国料理中心だけれど、日本料理も豊富で、中華料理もある。
経営者(店主)は韓国人で日本語を多少話し、入り口で愛想良く客を迎えている。
ドイツ語と英語が堪能な若い息子が、客席をまわって注文を聞いている。
そのうちに、仕事帰りのグループ、日本人の夫婦連れ、観光客が次々にやってきて賑わってくる。

注文は、前菜数種類、刺身、寿司に添えて、ビール、ラドラー、ワインで乾杯。
息子が「如何でしょうか?」と尋ねるので、「新鮮でとても美味しいですよ。この刺身や寿司の原料は、どこから仕入れるのですか」と聞く。
「サーモンはノルウエーから冷凍されたのを仕入れます。マグロやイカ・タコは、とれたてのものが地中海から運ばれてきます」とのこと。
日本で食べるマグロには地中海産、特にクロアチアからの輸入品が多いことを話題にする。
久しぶりの和食をたっぷり食べて、満足した。

2013年2月20日水曜日

7月18日(水)ミュンヘンからの帰りの車中で

そもそも大都会のミュンヘンを、わずかな時間で観光するのは無理だ。
それでも、レジデンツと古絵画館では、ミュンヘンの歴史の中でヴィッテルスバッハ家が担った役割を理解し、楽しんだ。
観光には、自然を愛でるタイプと、人間臭い歴史を知るタイプがある。
インスブルック滞在では自然環境は申し分なく、ゆったりした時間を楽しんでいるから、ミュンヘンを訪れて過去を遡る観光は、刺激的だった。

1時間あまり、ミュンヘン中央駅のコンコースを歩いたり、2階のカフェでアイスクリームを食べたり。階下のホームを眺めると、大きななナップザックを軽々と背負った若者が多いし、家族連れも目立つ。今は夏休みだし・・・。
そもそもゲーテ(1749〜1832)の著作「イタリア紀行」が、ヨーロッパの観光ブームに火をつけたと聞いたことがある。ドイツ人が旅好きなのは、その伝統なのだろう。それに、ドイツ職人の徒弟制度の流れは、各地を歩く必然性でもあったと理解する。

ミュンヘン中央駅発15時31分のIC83列車で、帰途に着く。
指定席のコンパートメントにいくと、若い2人の女性がいる。初対面の好奇心からすぐに、話が始まった。
ひとりは英語が達者で、それも正確な発音だから、非常にわかりやすい。
もうひとりはイタリア語中心で、連れが通訳し、話が弾んだ。

彼女たちはイタリアのパドヴァ大学の2年生で、観光コースを専攻中だとか。
卒業すると、イタリアを訪れる観光客を案内したり、イタリア人の観光客を引率して他の国へ行ったりする仕事をしたい。それで、夏休みを利用してヨーロッパのあちらこちらを旅行している。ミュンヘン訪問は2回目・・・。
「たくさんの国の歴史や地理など、たくさん勉強することがあって大変だけれど、面白いです・・・」と。
旅をするときに出会う現地ガイドがどんなふうに育っていくか。その背景を知る機会となった。

彼女たちが学んでいるパドヴァ大学の話を聞きながら、思い出した。
13世紀に創立された名門大学で、ルネッサンス・宗教革命の動きが新しい時代を切り開いていくときに、重要な人材を輩出した大学だったのだ。

7月18日(水)美術館巡り

9時にホテルをチェックアウトし、ミュンヘン中央駅へ。コインロッカーに荷物を預けて身軽になった。
今日は、「アルテ・ピナコテーク=古絵画館」を見学し、後は自由に近辺の美術館巡りなどの予定になっている。

「アルテ・ピナコテーク」は、14世紀から18世紀にかけての絵画7000点余を所蔵している。ミュンヘンを芸術の都にしたルートヴィッヒ1世が、1836年、ヴィッテルスバッハ家のコレクションを収めるために建造を命じた。名画の宝庫としてヨーロッパの六大美術館(ルーブル美術館、エルミタージュ美術館、美術史美術館・・)のひとつだとか。
全部を観るのは無理だから、案内図でお目当ての絵画のある部屋を辿った。

ボッスの「ヒエロニムス」を見つけ、譬喩的な奇想天外な表現が楽しい。こんな題材を鋭く細密に描写しているのに、明るい色彩が印象に残る。興味を持つ画家に、早々と出会った。

デユーラーの「四使徒」が何気なく掲げられている。同じような構図で何枚か腕や手の動きが表現され、下描きか、習作なのだろう。イタリアでティチアーノと交流してイタリア的な画風だったのに、神聖ローマ皇帝マキシミリアン1世の宮廷画家になって、ドイツ的な画風になったとか。「毛皮をまとう自画像」は、まっすぐに遠くを見つめる眼が、静謐、ストイック、優しさなどを感じさせ、異常な雰囲気を醸し出している。キリストを模して描いたと聞き、合点。

ルーベンスの作品が多い。フランドル派の大画家だし、バロック絵画の代表的な画家だし、歴史・宗教・風景・人物など、いろんな分野を題材にしている。「カバとワニの狩り」は力強い躍動感に溢れ、外交官の体験が背景に覗いているのが面白かった。小説「フランダースの犬」には、ルーベンスが描いた絵が登場していたと、思い出した。

ドイツを代表する熱心な宗教改革派のクラナッハの「磔刑図」。先日、インスブルックの「聖ヤコブ大聖堂」でも、「聖母子像」を見たばかり。

ティチアーノ、ヴァンダイク、ベラスケス、ブリューゲル・・・。

ヨーロッパ諸侯・王族たちが有名画家を雇って、家族を含めた一族の肖像画を描かせた。画家が活動していた当時から関心のある作品に目を付け、財力を惜しみなく注ぎ、宮殿内の装飾に励んできた。コレクションの質の高さと量の豊かさは、よっぽど芸術に造詣深い担当者・目利きがいたに違いないと感じた。

課外活動の小学生や中学生のグループが訪れている。名画と言われる作品や特定の画家の作品の前で、館員が説明をし、生徒が質問しながら鑑賞している。外国の美術館ではよく見かける風景だ。絵画に馴染む機会は、きっと大人になってからも残るだろう。

昼食後、すぐ近くにある「ノイエ・ピナコテーク=新絵画館」へ。
1981年、新しい作品を展示する目的で建造されて、建物の佇まいも現代的だ。こちらも案内図を片手にポイント観賞をした。
19世紀末から20世紀初頭のドイツの画家の大作が揃っているのは、国家意識の昂まりが反映しているのだと感じた。
フランスの印象派の作品の多さに驚く。ゆっくりと観たいけれど美術館は足が疲れる。体力勝負だなと限界を感じ、古絵画館ほど集中できず。

2013年2月5日火曜日

7月17日(火)ミュンヘンのシェラトンホテルにて

ホテル近くを歩いていると、服装や肌の色から、アラブ系とおぼしき人がたくさんいる。観光客とは違い、ちょっと意外な感じがする。
ガイドの鈴木さんが、「ここは以前は高級住宅街だったのです。古くなった建造物を壊して再開発され、最近はお金持ちのアラブ系居住者が多い地域なのですよ」と。中東のオイルマネーが、ミュンヘンの居住環境を変えるほどに進出しているらしい。

チェックインしたホテルのロビーは、天井が高くて明るく、広々としている。イスラム風の草花模様の壁に囲まれ、テーブルに置かれた飾り物も凝った模様。
白の長い衣装を着てベール姿の数人の男性が、ソファーにゆったりと座っている。ときに秘密の話をするかのように顔を寄せ、談笑している。女性の姿はない。
受付で働いている人は、背広姿あり、白のアラブ人独特の衣装あり。
街の風景の延長で、アラビアンナイトの世界に迷い込んだような、不思議な第一印象だった。後で、シェラトンホテルのオーナーがアラブ人だと聞き、道理で、第一印象の謎が理解できた。

ホテルには、アラブ人の美容整形の医療・治療目的の長期滞在者が多い。それも家族ぐるみでやって来るので、有名らしい。
「ベールだから、目だけでは外からはわからないのに、わざわざ美容整形手術をするのねえ・・・」と感心する者。
「人前で肌を出しちゃいけないと厳しくしても、家の中ではスッピンになるのよ。美人かどうか、もろにわかるんでしょう」と物知り顏で断言する者。
「だから、男性のお気に入りの夫人になるには、美容整形は大事なことかもしれないわよね」と分析する者。

女性たちの無責任な井戸端会議がひとしきり盛り上がり、「アラブの男性はたくさんの奥さんがいるから、手術代も楽じゃないわよね」と結論。
そばにいる殿方が「一人でもたいへんなのに・・・」とニヤニヤしている。

アラブ人の家族には、第◯夫人、第△夫人がいるから、子どもも多い。
エレベーターの乗降や廊下での騒がしさは、自分たちが主人だと言わんばかりの傍若無人ぶりだ。1週間前にツェル・アム・ツィラーのホテルで、サウジアラビアの家族集団と一緒になった体験を思い出した。(「7月10日、ポストホテルにて」をご覧ください)。

数人のメイドが、賑やかな子どもの面倒をみている。大半はインド・インドネシア・フィリッピンなどのアジア系だという。言うことを聞かない子どもをコントロールしようと、メイドが大声を張り上げ喧騒を撒き散らしている。母親たちが揃って整形手術をする間のお仕事なのか。イスラム社会の家族、特に女性の立場の現実を垣間見た気がした。

7月17日(火)ホウフ・ブロイハウスの夜

ミュンヘンと言えば、ビール。「乾杯」を歌いながら、酒場でビールを飲むのも旅の目的のひとつ。
中学の地理の授業で、ビールの美味しい土地は「札幌・ミュンヘン・ミルウォーキー」と習った。アルコールには縁のない年齢なのに、しっかりと記憶に残ったのは、語感のリズムのよさからか。ビールの味に拘って飲むようになってから、この三都市がほぼ同じ緯度にあり、ビール醸造の好条件を備えていることを再認識したのだけれど・・・。

あらかじめ、鈴木さんから「初日の観光が終わってから、ビールを飲みましょう。どこかご希望がありますか」と聞かれ、夫は「ミュンヘンの酒場なら”ホウフ・ブロイハウス”に、ぜひ行きたい」と希望を出した。
その念願が叶えられ、3組の夫婦と鈴木さんの総勢7名が、ホウフ・ブロイハウスで大いに盛り上がって、一夜を過ごした。

入り口を入った途端、民族衣装姿の従業員が目の前を急ぎ足で過ぎる。両腕いっぱいにジョッキを抱え、赤く上気した顔。
ビールを飲んでいる人々の陽気なおしゃべりをかき消すように、民謡を演奏する音響が溢れている。
楽団の舞台を取り囲んで通路が四方に延び、そこにブロック席が面している。ほとんど空席はなく、人、人、人・・・。いったい、どの位の人がいるのだろう。

これじゃ、みんな揃って席を確保するのは厳しい。殿方が散って席探しを始める。
通路を一回りして最初に戻ってきた人曰く「無理だなあ。空いている席にバラバラに座るしかないなあ・・・」。
「この混みようじゃあね・・・・」と周りの席を見回すと、ひとつ、ふたつなら空席はある。「せっかくなのにね・・・」と諦めかけたとき、最後に戻ってきた夫から朗報あり。「庭まで見たけれど、なかった。そこまで戻って来たとき、まとまって座れるコーナーがあったんだよ」と。
「楽団のいる舞台の真後ろのコーナーに、ひとりの若い男性だけが座っている。”このテーブルは空いていますか”と聞いたんだよ。”どうぞ”って言うから、”グループで相席するのですが・・・”と言ったら、”大丈夫”だって・・・」。

揃って席を確保すると、殿方は1リットルジョッキのビールを、女性はラドラー1リットル1杯を注文して3人で分け、「乾〜杯!!」。
ミュンヘン名物のヴァイスブルスト(白ソーセージ)や、肉団子、ポテトフライ、酢漬けのきゃべつを炒めたものなど、夕食代わりになる皿を頼んだ。

周囲の混雑と喧騒とは全く関わりがないかのように、ひとりで座っていた青年は
ベトナム人だった。青年の隣りに座った夫が話しかけると、「ぼくの人生は、長い長い物語りです・・・」と言い、ポツリポツリと家族の体験を語った。
ベトナム戦争で両親が国外に脱出し、最後はアメリカに辿り着いたこと。
やがて小さな事業を始め、順調に発展したこと。
事業が軌道に乗った頃に、青年が誕生し、アメリカで教育を受け、大学を卒業したこと。「僕はベトナム戦争を経験していないけれど、両親の苦労は知っています。アメリカが家族を救ってくれた・・・」と言い、大学卒業後、アメリカに進出しているスイスの企業に就職し、ほどなくスイス駐在になった。
今日は休暇でミュンヘン観光に来て、初めてこの酒場を訪れた。云々。

この席が空いていたのは、陽気な観光客が青年に近寄り難い空気を感じたのかもしれない。ひとり疎外感を味わっていたときに、思いがけずに声をかけられ、賑やかなグループと休暇のひとときを一緒に過ごせたらしい。
青年は「ありがとう。よい思い出になりましたよ。ミュンヘンを楽しんでください」と言い、帰って行った。

民謡は絶え間なく演奏されている。何度も何度も「乾杯」のメロディが響き、それに唱和して、陽気な歌声が広がる。観光客がビールを提供し、演奏する人たちも、代わる代わるにビールのジョッキを飲み干して、赤い顔をしている。

近くの席では、誕生パーティーをしている。演奏者がやって来て、何やらお祝いの挨拶をし、「ハッピー・バースデイ」の曲を奏でると、パーティー参加者ばかりか近くの人たちも一緒に歌い出す。私たちも歌った。なんと賑やかなこと。

「トイレでは、入り口から行列ができているよ。ビールを飲めば当然の生理現象だけどね。それに中は 意外に広くて、ズラリと並んでいるのは、壮観だったなあ」。
愉快なトイレの様子を聞いて、大笑いした。

ミュンヘンの酒場で、旅仲間は、飲んだり、食べたり、歌ったり、青春気分で盛り上がった。そうだった。この酒場で、ヒットラーが演説したのだ。
陽気で和やかな空気を身体いっぱいに感じながら、これこそ酒場本来の姿だと思った。
ベトナムの青年が帰った後、「ベトナム戦争末期の頃は、無茶苦茶に働いていたなあ」と、呟いた男性たち。企業戦士として、日本の高度経済成長を支えた。

旅先で出会った人や訪れた場所を通し、自分たちの生きている時代の体験を、遠い過去の出来事として忘れてはいけないなと、改めて思った。

7月17日(火)新市庁舎の仕掛け時計

レジデンツから新市庁舎へ歩く途中、大きな交差点を渡った。
「ここでマキシミリアン通りを横切りました。ミュンヘンっ子は、この通りを”ざあます通り”って言っています。高級品が並んで、値段も高級。お金持ちが来る通りです」。
なにしろミーハー度は高い。ガイドの説明を聞き、慌てて引き返して通りを見渡す。市電が走る通りの両側に、ティファニー、プラダ、ルイ・ヴィトン、シャネルなどのブランドを扱う店舗が軒を連ねている。東京の銀座通りにもこれらの店があるし、女性に人気があるのは確かだが、「”ざあます”ねえ」と思う。東京の銀座の方が庶民的な感じがした。日本人が分相応以上にブランドに拘って買い物をし、必ずしもお金持ちに限らないからだろう。

4時40分頃、マリエン広場の新市庁舎前に着くと、5時から10分間の「仕掛け時計」を見る観光客が群れ、なおも四方八方から押し寄せて来る。ひとたび立ち止まると、行く手が塞がって動くのが難かしい。大人気のほどがわかる混みように驚きながら、少しでもよく見える場所を探す。
「くれぐれも持ち物に気をつけてくださーい。スリがいますから・・・」と鈴木さんが声をかけている。

新市庁舎は1867年から1908年にかけて、ネオ・ゴシック様式で建造され、庁舎中央の塔に、仕掛け時計「グロッケンシュピール」が造られた。当時のバイエルン王国の意気込みを現して、ドイツでいちばん大きいという。

開始時刻の鐘が響き渡ると、一瞬張りつめた静寂な空気が流れ、人間と等身大の人形が現れた。
下段は庶民の人形で、桶職人が踊りながらクルリと回る。
上段には貴族。ラッパを吹く男の合図で王と王妃の結婚式が進行して行く。馬に乗った騎士が試合をしている。
人形は全部で32体。人形はゆっくりと移動しながら役を演じ、やがて姿を消した。巧妙な仕掛けに感嘆のざわめきが起こって、10分間はあっという間に過ぎた。面白かったし、楽しかった。

6時半集合を約束して解散。
ペーター教会の夕べのミサを覗き、街角の女性四重奏を聴き、ドイツ語で話しかけて来た男性と身振り手振りで話し、お土産を物色し、記念にとワインオープナーを求めた。

7月17日(火)ヴィッテルスバッハ家のレジデンツ(宮殿)

「レジデンツ」は、ヴィッテルスバッハ家の宮殿だ。
ヴィッテルスバッハ家は、バイエルン公から神聖ローマ帝国選帝候へ、さらにバイエルン王へと権勢を高めた。それに伴って、14世紀後半から建造されてきた宮殿が広げられ、歴史の舞台になった。宮殿全体が過去の栄光を閉じこめて、博物館になっている。

入館すると間もなく、「祖先画ギャラリー」へ。レジデンツの栄光を担った歴代の面々が肖像画に収まっている。120人以上も並んでいるのだから、だれがだれだかわからない。どんなに立派に描かれた肖像画でも、ほとんど関心を引かず面白くない。「ごめんなさいね」と足早に通り過ぎる。

印象深かったのは「アンティクヴァリウム」だ。トンネル状の丸天井や壁に描かれたフレスコ画が美しい。壁に沿って飾られている古代彫刻に、天井の窓から差し込む陽射しが照り映えて、明るく華麗な空間になっている。その素晴らしさに圧倒された。

神聖ローマ帝国の選定侯になった記念に造られた「バロック様式の間」は、高揚したヴィッセルバッハ家の権威が窺え、レジデンツの存在を如何なく示している。
謁見の間、鏡の間、ベッドルーム、皇帝の間・・・と、豪華な部屋が並び、一族の宮廷内の生活を彷彿させる。
ベッドルームには、1961年、イギリス女王エリザベス2世(1952〜在位中)が泊まったとか。第二次世界大戦では、イギリス本土がドイツの空爆にさらされ、イギリス空軍のドイツ猛爆も激しかった。半世紀前の若かりし女王は、どんな気持ちだったろう。もっともエリザベス女王の系統はドイツのハノーヴァー家に遡るから、お里帰り?の意識もあるだろうか。両国の関係を考えながら、いい時代になったとも思った。
王宮ではいちばん大きい部屋「皇帝の間」は、建造当時から国家行事の舞台で、現在も宴会場として使われていると聞いた。

「冬の庭園」は、周囲をガラスで覆ったテラスで、厳しい冬でも草花に囲まれ、貴族がお茶のひとときを過ごしたという。ゼラニュームの鉢が並んでいる。贅沢な空間を暖房するのは、どんな仕組みがあったのか。さぞ大変だったろうと、余計なことを思う。

ヨーロッパ諸国の王室が、古くから経済的交流を盛んに行っていることも知った。ベルギーやオランダで製作された絨毯、オランダを通して中国からもたらされた陶磁器などに、その様子を偲んだ。

ヨーロッパ諸国の王が、惜しみなく財力を注いで宮殿を建造し権勢を誇った。例えばヴェルサイユ宮殿やシェーンブルク宮殿。ミュンヘンのレジデンツも同じだ。
すでに宮殿の主の影はないが、宮殿そのものが重要な観光資源になっている。「虎は死して皮を残し、王は去りて宮殿を残した」のだから、無駄ではなかったのだ。

およそ1時間半、入り口で貰ったパンフレットを手に、ルートを確認しながら辿った。部屋が次々に複雑に続いているし、仲間がいるから遅れないようにと気遣うし、ときには他の観光グループに紛れ込む心配もあり、ゆっくりと眺めるわけにはいかない。
展示品はあまりにも膨大だから、急ぎ足の鑑賞で疲れ、次第に重苦しくなった。威容を誇る宮殿を楽しむためには、体力が勝負だと痛感し、触りだけの観光終了。

外に出ると、すぐ近くに「バイエルン州立オペラ歌劇場」が見える。
19世紀初頭のミュンヘンは、ルートヴィッヒ1世の尽力で芸術の都として輝き、その証が王立劇場の建設だった。先の大戦の空爆で破壊され、1963年に再建されている。内部を見たかったけれど、先を急いで断念。


7月17日(火)国境を越えて、南ドイツのミュンヘンへ

今日から1泊のオプショナル・ツアーで、ミュンヘンへ出かける。
ヨーロッパ・アルプスの南側のオーストリアから、その北側のドイツへ国境を越えるけれど、陸続きだから列車に乗るだけの便利さだ。
国際急行列車(EC82)で、10時36分のインスブルック中央駅発だと、ミュンヘンには12時25分に到着する。

イエンバッハ、クフシュタイン、ローゼンハイムと、緑が輝く山なみを車窓に眺めながら、遠足気分が高まっていく。
ミュンヘン到着後、荷物を置いて身軽になるために、宿泊する「シェラトン・ホテル」に向かった。地下鉄(U4)に乗り継いで10分ほどの場所にあった。

部屋にチェックインすると、真っ先に飛び込んできたのが、広い窓からの眺めだった。眼下に旧市街も新市街も展望でき、ミュンヘンの街の広がりが素晴らしい。
早速地図や資料を広げて、特徴的な教会の尖塔や大きい通りを確かめながら、街の様子を確認する。

ベッド周辺の機能的な設備、バスルームの贅沢な空間は、新しく建設したホテルだからだろう。夫はwifiが繋がるのを確かめて、「こりゃいい」と喜んでいる。旅先の満足を左右する設備なのだ。

2時半、再び地下鉄U4に乗ってオデオン広場へ。そこから徒歩でテアティーナー教会、レジデンツと歩き、マキシミリアン通りを抜けて新市庁舎へ。キョロキョロと眺める典型的お上りさんになった。

鈴木さんが要所のガイドをするから、下調べをしたイメージが具体化していく。
たくさんの場所を訪れたけれど、ミュンヘンの800年の歴史を体現した「レジデンツ」の印象が強く、あとは、ミュンヘン観光のおまけの感じになった。



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7月17日(火)観光前にバイエルン・ミュンヘンの歴史を少々

南ドイツとオーストリアは、神聖ローマ帝国(962〜1806)時代にはハプスブルク家に支配され、地理的・歴史的に深い関わりがあった。
今はどうなっているのだろう。また、現代史の舞台になったミュンヘンの現在も知りたい。そんな興味から歴史の流れを辿った。

ヨーロッパ諸国では、古くから諸侯・王家の関係が深く、巧妙な駆け引きによって、支配者の失脚や国の統合・滅亡が繰り返され、ときの強者が席巻してきた。
訪れるミュンヘンの歴史的な位置づけを辿りながら、諸侯の野心を知れば知るほど権謀術数が面白く、感心した。

そもそも”ミュンヘン”の地名は、古いドイツ語”ムニヘン=べネディクト会の修道士”に由来しているという。8世紀頃の修道士たちが、辺りに点在する集落をもとに、ミュンヘン建設の基を拓いたらしい。

この地方の政治的発展の端緒は、10世紀に、南ドイツの貴族ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公の称号を得てからだ。ヴィッテルスバッハ家は、お家騒動を繰り返しながらも、第1次世界大戦のドイツ敗北の1918年まで続いた。

1158年は、ミュンヘン誕生の年とされている。
1158年のアウグスブルク帝国議会で、バイエルン公フリードリッヒ(1129〜95)は塩取引の関税徴収権を承認されたからだ。それまでは塩取引の徴税権は司教が握っていた。フリードリッヒはムニヘンが拓いた場所に都市を建設して司教に対抗し、経済の実権を奪った。現在のバイエルン州と州都ミュンヘンの関係は、中世の重要な商品「塩」の経済力が出発点になった。

16世紀、宗教改革が展開した頃、神聖ローマ帝国のバイエルン公(ヴィッテルスバッハ家)は、カトリック陣営を支持。続く大小300余の諸侯相乱れるドイツ三十年戦争(1618〜48)では、カトリックのリーダーとして政治的に重要な立場をとった。その活躍によって、1623年に選帝候に昇格し有力諸侯になった。

フランス皇帝ナポレオン1世(1769〜1821、皇帝在位1804〜14・15)がヨーロッパ支配を展開していた頃、バイエルン公はその片棒を担いで、バイエルン王の称号を得た。1806年以降、バイエルンは王国に昇格し、ミュンヘンが王国の首都になった。

バイエルン王ルートヴィッヒ1世(1786〜1868、王在位1825〜48)がミュンヘンを芸術の都に育てたので、以後、ドイツの文化的・知的活動の拠点のひとつになった。

孫のルートヴィッヒ2世(1845〜86、王在位1864〜86)の物語は、王家内の人間模様を窺わせる。音楽を愛した王は作曲家のワーグナー(1813〜83)のパトロンとなり、あるいはノイシュヴァンシュタインなどの築城に夢中になり、莫大な費用で財政を脅かした。そのため、周囲から精神病を患っていると王位を追われ、その3日後、シュタルンベルク湖で侍医と一緒に溺死体で発見された。自殺・他殺・事故死と謎が多い。
余談だが、この未解決事件は、小説(森鴎外の「うたかたの記」1890年著)や映画(ヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ神々の黄昏」1972年)の題材になっている。不運な狂気王の話題性が形を変え、新たな文芸・芸術として再生した。

さて、20世紀前半の二つの世界大戦に、ミュンヘンは大きな役割を持った。ヒットラー(1889〜1945)登場の舞台となったのだ。
第一次世界大戦後の1919年、ヒットラーはミュンヘンでナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に入党し、党勢拡大に貢献して党首(1921年)になった。
日夜ミュンヘンの酒場で仲間と協議を重ね、1923年にミュンヘン一揆を起こしたが失敗し、有罪判決。出獄後は、敗戦と世界大恐慌の大打撃の中にあるドイツで、ナチスのリーダーとして全体主義的大衆運動の実権を握った。首相(1933〜45)・総統(1934〜45)のヒットラーに率いられて、ドイツが第ニ次世界大戦へ突き進んだ。

20世紀後半。第二次世界大戦敗戦のドイツは東西に分断され、ミュンヘンには、時代の先端をいく科学技術が根をおろすきっかけとなった。ドイツの代表的な重工業企業のジーメンス社が、本社・主力工場・研究所をベルリンからミュンヘンへと拠点を移し、乗用車BMW工場の生産はミュンヘンで行われている。

ミュンヘンは、現在ドイツ第3の大都市に変貌している。中世以来の歴史をみると、強かに時代を生きてきた都市の背景がわかる。
清も濁も飲み込んだ歴史だから、ビールと一緒に、現在のミュンヘンを味わおう。

2013年1月31日木曜日

7月16日(月) 滞在型の旅から感じたこと

今朝、クロイツヨッホへ出かける前のロビーで、8日間滞在を終えて帰国する名古屋グループを見送った。

「あっという間だったわ。もっと居たかった。まだ先があるなんて羨ましいなあ」。
「夫が仕事をしているので、やり繰りしてやっと旅に出たのよ。ちょっと悪い気がするけれど・・・」。
「外国へ出かけるのが嫌いな夫に、長い留守番をさせるのもたいへんなの。1人で出かけるしかないし・・・」。

ツアーに参加すると、男性よりも女性の方が旅には積極的だと感じる。名古屋グループの参加者も、女性が断然多かった。
夫婦で別々に旅をすることがほとんどない私たちは、旅の楽しみを共有することに徹しているのだろうと気付いた。
旅をする度に聞かされるセリフだけれど、夫に言わせれば、「1人のお客のために下調べをし、交渉し、ガイドをするんだから、努力しているんだよ。気楽な身分はいいよねえ・・・」。ふふふっ。充分に感謝してますよ!

因みに、私たちが参加した30日間滞在のグループは、5組の夫婦と1組の姉妹だった。旅慣れて、好奇心旺盛で、冒険心に富むという共通点があった。
長期滞在では、オプショナル・ツアーに参加することはあっても、添乗員にお任せするような時間の束縛がない。健康状態と相談しながら、予定を立て、物事をポジティブに考える元気な高齢者が揃っていた。

例をあげると、ホテルに到着早々にイタリアに出かけたご婦人の話。
成田からの機中で、イタリアのヴェネチア近くで開催される音楽祭に参加するグループに会った。興味を持った彼女は、鉄道の路線を調べると、インスブルックからはヴェローナ経由で行けると知った。インスブルック到着後、すぐに音楽祭のチケットを手配し、泊りがけで出かけた。
また、日本出発前にユーレイル・パスを求め、最大限に有効利用する計画を立てていた。出かけた先で現地の観光ツアーに参加し、集合時間と場所を確認して、自由行動をこなした。
「もし、遅れたら困るでしょ。何度もガイドに頼んだのよ。”Don't forget me”って・・・。それに一緒になった外国人が、親切に念押しをしてくれ、集合時間には、”日本のご婦人はいるよ”と、チェックしてくれたし・・・」。
それを聞いた仲間はからかった。「Don't forget meの表現は、意味深だなあ。去っていく恋人に気持ちを伝える言葉じゃないの?」。
喜寿を過ぎたご婦人の心身の若さ!だ。

多彩な6組のグループの滞在の旅は、それだけでも、面白い物語になる。日本へ帰る頃には、お互いにすっかり打ち解け、それぞれの持ち味や個性が理解できた。
こうした人との出会いが、旅の大きな副産物だ。

7月16日(月)シュトゥーバイタールのクロイツヨッホは、ハイキング教育の拠点




【クロイツヨッホの頂上(標高2210m)、巨大な十字架を背にして、登ってきた登山路を見おろす】

村はずれのクロイツヨッホ鉄道の駅(標高1000m)まで少々歩く。ハイキングを楽しむアプローチのほとんどは山の麓にあるゴンドラ(リフト)乗り場だ。結構歩くからきついけれど、これもハイキングのはじまり。

さて、ゴンドラで中継駅フローネーベン(標高1350m)へ。
ここで、尾根伝いに本格的なハイキングコースを辿る数人の重装備のグループが下車して行く。

さらに2100メートルの頂上駅へおよそ10分、ゴンドラに揺られる。
岩山が迫ってくる。眼下の尾根を辿る登山者が見える。緑の谷間の集落が点在し、牛が放牧されている。眺望を見逃すまいと目を凝らす。

ハイキングに出かけると、どんなに標高が高くても、緑の草原が広がる限り牛が群れ、人々の暮らしが息づいている。彼らの先祖は、ゴンドラのなかった時代からずっと住んでいたのだろうか。
「厳しい生活だろうな・・・。特に冬は、ここの暮らしは出来ないな・・・」。
問つ追いつ考えながら、乗り物の恩恵を受けて観光する者には、絶好の舞台だ。

ゴンドラに乗る前にもらった地図によると、頂上駅からクロイツヨッホへのハイキングコースは、シュトゥーバイタールのハイキング教育の拠点として整備され、人気があるらしい。クロイツヨッホ周辺の眺望を楽しみながら、尾根を歩いたり、緩やかな斜面を上り下りしたり、アルプスの高山植物が群生する一帯を観察しながら辿ったり。
コースを一回りすると、いろいろなハイキング体験ができるようになっている。詳しい地図が添えられているので、参考にしながら歩くことにした。

山上駅からクロイツヨッホまでの登りがきつかったことよ。



【登山路を外れ、高山植物のある草原を横切った。背景は2500mを超える峰々が連なるカルクケーゲ山脈】

歩き始めて数分でハアハアと息が弾み、ひと休み。再び歩き出して数分、またひと休み。なにしろ若い頃から坂道には弱い。どんどん追い越して行くハイカーをよそ目に、マイペースで30分、「シュトゥーバイタールのクロイツヨッホ(標高2210m)」に到着した。

登山の普及に連れて、あちらこちらの頂上に十字架が立てられたのが、クロイツヨッホ(十字架のある頂上)で、目印になっている。日本でも山の頂上に神社や祠があるのに似ている。アルプスには、クロイツヨッホはいくつあるのだろう?

クロイツヨッホで周辺を眺めると、絶景なのは確かだが、足がすくんでジンジンする。夫は「あんたさんは苦手だろうね」と笑うが、そう言う内心はビクついていることを知っている!

向かい側の山肌に見事な褶曲の線が刻まれている。太古の昔、地球が造られていく過程の造山活動の痕跡が、見事に残っている。それに比べると、大自然に抱かれた人類の歴史は、なんと小さいことよ。

1時近く、ゴンドラ乗り場に戻って、昼食。
夫はパン付きのソーセージにエーデルワイズ・ヴァイスビール。
私はヌードルスープにラドラー。体が温まって、ハイキングの昼食の定番だ。

フルプメス駅前に戻ると2時。予定していたノイシュタット行は小一時間待たなければならないので、帰路に着く。

市電の往復の路線が違ったので、未知の窓外を眺めながら、インスブルックへ帰着したのが3時半頃。ほどよいハイキングで、お疲れさんでした。

7月16日(月)市電でシュトゥーバイタールのフルプネスへ。




【シュトゥーバイタールはインスブルックから南に延びるヴィッツタールから枝分かれてして南西方向に延びる支谷。フルプメスまでトラムが走っている。そこからロープウェイを2段登って2千m超えのクロイツヨッホへ出かけた】

昨日、シュトゥーバイタール方面へ出かけたグループがいた。雨だったので参加しなかったが、今朝は快晴。
朝食後、昨日のオプショナル・ツアーでガイドをした篠原さんに会った。
「駅前から市営の路面電車(STB)に乗れば、簡単に行けますよ。車中から眺める風景も、ぜひお薦めです」とのこと。
いつかは訪れようと予定していたので、早速出かけることにした。

インスブルック始発のシュトゥーバイタール方面行の市電は、終点がタール(谷の意)の入り口の村フルプメスだ。インスブルックの南西の方向で1時間弱。1時間に2本運行している。

停車場の時刻表を見ると、「フルプメス」行以外にもいくつかの路線がある。次々にやって来る電車を待つ人が群れていて、どれに乗ったらいいのかわからない。近くにいる青年に「この電車はフルプメス行ですか?」と戸惑いながら尋ねると、「これじゃないですよ」と言いながら、わざわざ時刻表を見に行き、「9時45分があります。もう少しで来ますよ」と教えてくれた。

ここからの乗客は、たったの4人。西駅を過ぎ、ジャンプ台近くを通り、15分程で街中を抜け、やがて、電車はつづら折りに上り始めた。まるで登山電車だ。
インスブルックの街を右手に展望し、トンネルを抜けると一変して牧草地帯になった。左手の遥か遠くに、再びインスブルックの街が広がっている。
ノルテケッテとパッチャーコーフェルの山並みを屏風にして、谷間の街インスブルックの姿が視点を変えて現れ、鳥瞰図を辿って行く感じだ。

目の前にブレンナー峠へ向かう高速道路が見え、往来する大型トラックで混雑している。それを眺めながら、スーパーマーケットで購入する生鮮食料品の原産国が多彩で、イタリアのトマトやキウリ、フランスのアスパラガスや魚介類を思い出す。オーストリアとイタリアを結ぶ峠は、陸続きのEU圏の経済活動を担っているのだと、改めて実感。
その脇をイン川がゆったりと流れている。この川も、かつては物資運搬に大事な任務を負っていたのだなあと思う。

小さな実をたわわにつけたリンゴ、杏、梨の樹木が続き、トウモロコシ畑が現れる。
次第に、電車が「フワーン・・・」と汽笛を鳴らすのは、「次の駅が近いですよ」と合図するのだとわかって来る。
終点に近づくにつれ登山姿の人々が乗降するが、乗客は相変わらず少ない。
市電は、オーストリア・アルプスに暮らす人々を支える大事な乗物か、観光用に開発されたのか。乗客が少ないので気になる。

谷間のわずかな平地にへばりつく小さな集落が現れ、立派な教会を囲む村落の駅に停車。間もなく、終点・フルプメス(標高936m)に10時50分到着。



【フルプメス駅についたトラム。普通にインスブルック市内を走っているトラムだが、登山電車でもある】

途中の景色に夢中になっていたから、あっという間だった。眺望に感激すると同時に、山々に囲まれた環境の厳しさをも思った。
降り立つと、外は意外に涼しく、インスブルックとの標高差を感じた。
駅前には、どこからやって来たのかと思うほど、たくさんの人で賑わっている。観光客を迎えるホテルが並んでいるし、商店街が続く。

駅前からはノイシュテフト行のバスが出る。ノイシュテフトからはシュトゥーバイタールに迫る氷河が近いから、時間があれば出かけようと時刻を確認すると、毎時54分にある。

2013年1月9日水曜日

7月15日(日)午後 ホフガルテン(宮廷庭園)散策




【宮廷庭園には樹齢の長い樹木が茂っている。背景はノルトケッテ】

ミサの後、クラウアー・ベア・ホテルへ寄った。
ホテルの出入口上方の壁に、トレードマークの熊が万歳をしている姿が描かれている。周囲の様子を眺めていると、滞在期間駐在の篠原さんがロビーに現れた。
「どんなホテルか、偵察に寄りましたよ・・・」。
建造から年月を経たせいか、ロビーは狭くて暗い。増設をして細長く迷路のように奥に続いているけれど、宿泊客でないので、その先は遠慮した。

ホテルは旧市街の入り口にあるし、王宮には徒歩3分。市内観光には絶好のロケーションだが、駅まで歩くのは遠い。ここに泊まっている日本人が、「鉄道で観光に出かけると、帰りが辛いですよ」と話していたことを思い出した。

12時半頃、ビアホール・レストラン「スティフツ・ケラー」前を歩く。
キリスト教国では、聖日の午前中はアルコール類のサービスはない。待ち構えていた客がビールを注文し、ウエイトレス・ウエイターが両手いっぱいにジョッキを握り、配り始めている。かなりの腕の力だと感心していたら、チロル民謡の生演奏が始まった。そんな様子につられて、先ずは喉を潤そうとテラス席に座った。
1曲終わるとビールを掲げて乾杯。また演奏が始まり、陽気な30分を過ごした。



【スティフツ・ケラーの屋外ビヤーガーデン。左端には郷土音楽を奏でる楽団】

天気がよくなった。「ここまで来たのだから、ホフ・ガルテン(宮廷庭園)へ行ってから帰ろうよ」と、歩き出す。
ホフガルテンの出入り口近くには、客待ちの観光馬車が連なっている。
御者が「ここから旧市街一周ができますよ」と、盛んに誘っている。女性の御者もいて、チロル風の衣装が楽しい。

庭園には濃い緑の葉を広げた巨木が多い。この地に根を下ろした年月を感じる。珍しい樹木の数々に、贅を尽くして庭園が造られた繁栄と栄光の時代を偲ぶ。
たくさんの花々が咲き乱れ、とりわけ気品を漂わせているピンクのアスチルベ。
いろんな種類の紫陽花が、多様な色彩を誇っている。古くからジャポニズムの象徴として、日本渡来の紫陽花を好む欧米人が多いと聞いたっけ。

池の噴水の周囲に、つがいのカモが泳いでいる。

雀が寄って来て靴先を突つく。まあ、なんと慣れているんだろう。餌のおねだりだろうかと手を出すと首を傾げて、しばらく周囲を飛び回り、肩に止まった。「ごめんね。君が食べるものを持っていないのよ」。

木立の間からヒョイと姿を現した、芸達者の雄鶏に驚く。
まっすぐに近づいて来て、片脚をあげてジッと佇み、様子を窺う。
「どうしたの?」と声をかけると、まるで「このポーズの写真を撮ったら・・・」と言わんばかりに、決まったポーズを続けている。
「私はね、片脚で立ち続けるのは、とっても苦手なのよ。君はご立派・・・」と言いながらカメラのシャッターを押すと、「それでよし・・・」と動き出す。
人を怖れず、ホフガルテンのガイドをしている感じが可笑しい。



・・・・・・・・・【王宮庭園を闊歩する雄鶏】

東屋のコーナーで、チェスをしている男性が2人。ヨーロッパの街角では、こんな商売をしているから、多分、客待ちだろう。
松の大木が伸び、木立の間からノルテケッテの山並みが見え、快晴の山々が輝いている。ここは、ノルテケッテの展望スポットだと後になって、聞いた。
ホフガルテン散策に満足し、途中スーパーマーケットで昼食用の食べ物を求め、ホテルへ帰った。
のんびりとした日曜日。

7月15日(日)午前、 雨の聖日はイエズス会のミサへ。




【イエズス会聖堂正面の聖壇、他のカトリック教会に比べて簡素な印象】

朝から雨が降り、参加予定のゼーフェルト行きは中止になった。トラッツベルク城とシュトゥーバイタールへは、予定通りに決行するとか。

ヨーロッパの旅では、日曜日には「聖日礼拝」へ行く気持ちになる。門前の小僧の習性か・・・。
市内地図を眺めると、旧市街にいくつかの聖堂や教会がある。
「観光客でいつも賑わっている大聖堂は、聖日の午前中は観光客お断りだろうね」と、その近くのイエズス会の聖堂へ出かけることにした。
「日本にキリスト教を伝えたのは、”イエズス会”のフランシスコ・ザビエル(1506〜1552)だったから・・・」という、極めて単純な理由だ。
それに、日本人が長期滞在しているもうひとつのホテル「クラウアー・ベア」のまん前にあるから、ついでに寄ってみよう、と。

10時半過ぎに聖堂内に入ると、男性が独唱中。静謐な空間に朗々と歌声が響いて、まだミサは始まっていなかった。

11時。パイプオルガンの前奏に合わせて、乳香の煙を盛大に振りまき鈴を鳴らしながら、数人の僧侶に先導されて薄緑のガウンをまとった司祭が現れた。
お祈りをし、聖書を読み、司祭の話があり、補助役の女性が話し・・・。
その合間には、会衆一同で起立して讃美歌を歌った。着席した場所に讃美歌の本が置いてあり、柱にあるパネルには、次に歌う讃美歌の番号が表示される。
歌った讃美歌は640、463、464、530、469、470、637番。ミサの始まり、主題の説教に合わせ、終わりの讃美歌へと、進行の様子が理解できた。

後半は聖餐式。信者が祭壇前に出ていき、両手でパンをおし頂いて口へ入れ、席に戻ってくる。聖餐を受ける長い列が続いたのは、街の住民だけではなく、観光客もいたのだろう。
12時過ぎ、参列者が前後左右の人たちと握手して 挨拶を交わし、ミサは終了。

改めて聖堂内を見回すと、木彫の装飾が中心で、落ち着いた質素な佇まいだ。
聖堂内はほぼ満席で、ざっと100人から150人は集まっているだろうか。
圧倒されるような装飾で溢れる大聖堂のミサに比べると、雰囲気はずいぶん違うだろうと想像した。カトリックのイエズス会のミサは、プロテスタントの礼拝に通じる印象だった。

日常の暮らしの節になる聖日に、こうしてミサに連なっている人々の姿を眺めながら、思った。
洋の東西を問わず、宗教の違いを超え、なにものかを信ずる生き方とは何だろうと。宗教を熱心に説く人々が、立場を異にする者を退け、ときに争いや暴力を肯定する。彼らの信仰の具体的な姿が、理解できない。一方では、信仰とは関わりなく、人生を丁寧に生きている人々がいる。ある宗教が成立する時代の必然は理解できるし、その宗教の始祖は偉いと思う。だが、その教えが組織化されるにつれて、膿んでいく気がする。堕落が始まると。