2013年1月31日木曜日

7月16日(月) 滞在型の旅から感じたこと

今朝、クロイツヨッホへ出かける前のロビーで、8日間滞在を終えて帰国する名古屋グループを見送った。

「あっという間だったわ。もっと居たかった。まだ先があるなんて羨ましいなあ」。
「夫が仕事をしているので、やり繰りしてやっと旅に出たのよ。ちょっと悪い気がするけれど・・・」。
「外国へ出かけるのが嫌いな夫に、長い留守番をさせるのもたいへんなの。1人で出かけるしかないし・・・」。

ツアーに参加すると、男性よりも女性の方が旅には積極的だと感じる。名古屋グループの参加者も、女性が断然多かった。
夫婦で別々に旅をすることがほとんどない私たちは、旅の楽しみを共有することに徹しているのだろうと気付いた。
旅をする度に聞かされるセリフだけれど、夫に言わせれば、「1人のお客のために下調べをし、交渉し、ガイドをするんだから、努力しているんだよ。気楽な身分はいいよねえ・・・」。ふふふっ。充分に感謝してますよ!

因みに、私たちが参加した30日間滞在のグループは、5組の夫婦と1組の姉妹だった。旅慣れて、好奇心旺盛で、冒険心に富むという共通点があった。
長期滞在では、オプショナル・ツアーに参加することはあっても、添乗員にお任せするような時間の束縛がない。健康状態と相談しながら、予定を立て、物事をポジティブに考える元気な高齢者が揃っていた。

例をあげると、ホテルに到着早々にイタリアに出かけたご婦人の話。
成田からの機中で、イタリアのヴェネチア近くで開催される音楽祭に参加するグループに会った。興味を持った彼女は、鉄道の路線を調べると、インスブルックからはヴェローナ経由で行けると知った。インスブルック到着後、すぐに音楽祭のチケットを手配し、泊りがけで出かけた。
また、日本出発前にユーレイル・パスを求め、最大限に有効利用する計画を立てていた。出かけた先で現地の観光ツアーに参加し、集合時間と場所を確認して、自由行動をこなした。
「もし、遅れたら困るでしょ。何度もガイドに頼んだのよ。”Don't forget me”って・・・。それに一緒になった外国人が、親切に念押しをしてくれ、集合時間には、”日本のご婦人はいるよ”と、チェックしてくれたし・・・」。
それを聞いた仲間はからかった。「Don't forget meの表現は、意味深だなあ。去っていく恋人に気持ちを伝える言葉じゃないの?」。
喜寿を過ぎたご婦人の心身の若さ!だ。

多彩な6組のグループの滞在の旅は、それだけでも、面白い物語になる。日本へ帰る頃には、お互いにすっかり打ち解け、それぞれの持ち味や個性が理解できた。
こうした人との出会いが、旅の大きな副産物だ。

7月16日(月)シュトゥーバイタールのクロイツヨッホは、ハイキング教育の拠点




【クロイツヨッホの頂上(標高2210m)、巨大な十字架を背にして、登ってきた登山路を見おろす】

村はずれのクロイツヨッホ鉄道の駅(標高1000m)まで少々歩く。ハイキングを楽しむアプローチのほとんどは山の麓にあるゴンドラ(リフト)乗り場だ。結構歩くからきついけれど、これもハイキングのはじまり。

さて、ゴンドラで中継駅フローネーベン(標高1350m)へ。
ここで、尾根伝いに本格的なハイキングコースを辿る数人の重装備のグループが下車して行く。

さらに2100メートルの頂上駅へおよそ10分、ゴンドラに揺られる。
岩山が迫ってくる。眼下の尾根を辿る登山者が見える。緑の谷間の集落が点在し、牛が放牧されている。眺望を見逃すまいと目を凝らす。

ハイキングに出かけると、どんなに標高が高くても、緑の草原が広がる限り牛が群れ、人々の暮らしが息づいている。彼らの先祖は、ゴンドラのなかった時代からずっと住んでいたのだろうか。
「厳しい生活だろうな・・・。特に冬は、ここの暮らしは出来ないな・・・」。
問つ追いつ考えながら、乗り物の恩恵を受けて観光する者には、絶好の舞台だ。

ゴンドラに乗る前にもらった地図によると、頂上駅からクロイツヨッホへのハイキングコースは、シュトゥーバイタールのハイキング教育の拠点として整備され、人気があるらしい。クロイツヨッホ周辺の眺望を楽しみながら、尾根を歩いたり、緩やかな斜面を上り下りしたり、アルプスの高山植物が群生する一帯を観察しながら辿ったり。
コースを一回りすると、いろいろなハイキング体験ができるようになっている。詳しい地図が添えられているので、参考にしながら歩くことにした。

山上駅からクロイツヨッホまでの登りがきつかったことよ。



【登山路を外れ、高山植物のある草原を横切った。背景は2500mを超える峰々が連なるカルクケーゲ山脈】

歩き始めて数分でハアハアと息が弾み、ひと休み。再び歩き出して数分、またひと休み。なにしろ若い頃から坂道には弱い。どんどん追い越して行くハイカーをよそ目に、マイペースで30分、「シュトゥーバイタールのクロイツヨッホ(標高2210m)」に到着した。

登山の普及に連れて、あちらこちらの頂上に十字架が立てられたのが、クロイツヨッホ(十字架のある頂上)で、目印になっている。日本でも山の頂上に神社や祠があるのに似ている。アルプスには、クロイツヨッホはいくつあるのだろう?

クロイツヨッホで周辺を眺めると、絶景なのは確かだが、足がすくんでジンジンする。夫は「あんたさんは苦手だろうね」と笑うが、そう言う内心はビクついていることを知っている!

向かい側の山肌に見事な褶曲の線が刻まれている。太古の昔、地球が造られていく過程の造山活動の痕跡が、見事に残っている。それに比べると、大自然に抱かれた人類の歴史は、なんと小さいことよ。

1時近く、ゴンドラ乗り場に戻って、昼食。
夫はパン付きのソーセージにエーデルワイズ・ヴァイスビール。
私はヌードルスープにラドラー。体が温まって、ハイキングの昼食の定番だ。

フルプメス駅前に戻ると2時。予定していたノイシュタット行は小一時間待たなければならないので、帰路に着く。

市電の往復の路線が違ったので、未知の窓外を眺めながら、インスブルックへ帰着したのが3時半頃。ほどよいハイキングで、お疲れさんでした。

7月16日(月)市電でシュトゥーバイタールのフルプネスへ。




【シュトゥーバイタールはインスブルックから南に延びるヴィッツタールから枝分かれてして南西方向に延びる支谷。フルプメスまでトラムが走っている。そこからロープウェイを2段登って2千m超えのクロイツヨッホへ出かけた】

昨日、シュトゥーバイタール方面へ出かけたグループがいた。雨だったので参加しなかったが、今朝は快晴。
朝食後、昨日のオプショナル・ツアーでガイドをした篠原さんに会った。
「駅前から市営の路面電車(STB)に乗れば、簡単に行けますよ。車中から眺める風景も、ぜひお薦めです」とのこと。
いつかは訪れようと予定していたので、早速出かけることにした。

インスブルック始発のシュトゥーバイタール方面行の市電は、終点がタール(谷の意)の入り口の村フルプメスだ。インスブルックの南西の方向で1時間弱。1時間に2本運行している。

停車場の時刻表を見ると、「フルプメス」行以外にもいくつかの路線がある。次々にやって来る電車を待つ人が群れていて、どれに乗ったらいいのかわからない。近くにいる青年に「この電車はフルプメス行ですか?」と戸惑いながら尋ねると、「これじゃないですよ」と言いながら、わざわざ時刻表を見に行き、「9時45分があります。もう少しで来ますよ」と教えてくれた。

ここからの乗客は、たったの4人。西駅を過ぎ、ジャンプ台近くを通り、15分程で街中を抜け、やがて、電車はつづら折りに上り始めた。まるで登山電車だ。
インスブルックの街を右手に展望し、トンネルを抜けると一変して牧草地帯になった。左手の遥か遠くに、再びインスブルックの街が広がっている。
ノルテケッテとパッチャーコーフェルの山並みを屏風にして、谷間の街インスブルックの姿が視点を変えて現れ、鳥瞰図を辿って行く感じだ。

目の前にブレンナー峠へ向かう高速道路が見え、往来する大型トラックで混雑している。それを眺めながら、スーパーマーケットで購入する生鮮食料品の原産国が多彩で、イタリアのトマトやキウリ、フランスのアスパラガスや魚介類を思い出す。オーストリアとイタリアを結ぶ峠は、陸続きのEU圏の経済活動を担っているのだと、改めて実感。
その脇をイン川がゆったりと流れている。この川も、かつては物資運搬に大事な任務を負っていたのだなあと思う。

小さな実をたわわにつけたリンゴ、杏、梨の樹木が続き、トウモロコシ畑が現れる。
次第に、電車が「フワーン・・・」と汽笛を鳴らすのは、「次の駅が近いですよ」と合図するのだとわかって来る。
終点に近づくにつれ登山姿の人々が乗降するが、乗客は相変わらず少ない。
市電は、オーストリア・アルプスに暮らす人々を支える大事な乗物か、観光用に開発されたのか。乗客が少ないので気になる。

谷間のわずかな平地にへばりつく小さな集落が現れ、立派な教会を囲む村落の駅に停車。間もなく、終点・フルプメス(標高936m)に10時50分到着。



【フルプメス駅についたトラム。普通にインスブルック市内を走っているトラムだが、登山電車でもある】

途中の景色に夢中になっていたから、あっという間だった。眺望に感激すると同時に、山々に囲まれた環境の厳しさをも思った。
降り立つと、外は意外に涼しく、インスブルックとの標高差を感じた。
駅前には、どこからやって来たのかと思うほど、たくさんの人で賑わっている。観光客を迎えるホテルが並んでいるし、商店街が続く。

駅前からはノイシュテフト行のバスが出る。ノイシュテフトからはシュトゥーバイタールに迫る氷河が近いから、時間があれば出かけようと時刻を確認すると、毎時54分にある。

2013年1月9日水曜日

7月15日(日)午後 ホフガルテン(宮廷庭園)散策




【宮廷庭園には樹齢の長い樹木が茂っている。背景はノルトケッテ】

ミサの後、クラウアー・ベア・ホテルへ寄った。
ホテルの出入口上方の壁に、トレードマークの熊が万歳をしている姿が描かれている。周囲の様子を眺めていると、滞在期間駐在の篠原さんがロビーに現れた。
「どんなホテルか、偵察に寄りましたよ・・・」。
建造から年月を経たせいか、ロビーは狭くて暗い。増設をして細長く迷路のように奥に続いているけれど、宿泊客でないので、その先は遠慮した。

ホテルは旧市街の入り口にあるし、王宮には徒歩3分。市内観光には絶好のロケーションだが、駅まで歩くのは遠い。ここに泊まっている日本人が、「鉄道で観光に出かけると、帰りが辛いですよ」と話していたことを思い出した。

12時半頃、ビアホール・レストラン「スティフツ・ケラー」前を歩く。
キリスト教国では、聖日の午前中はアルコール類のサービスはない。待ち構えていた客がビールを注文し、ウエイトレス・ウエイターが両手いっぱいにジョッキを握り、配り始めている。かなりの腕の力だと感心していたら、チロル民謡の生演奏が始まった。そんな様子につられて、先ずは喉を潤そうとテラス席に座った。
1曲終わるとビールを掲げて乾杯。また演奏が始まり、陽気な30分を過ごした。



【スティフツ・ケラーの屋外ビヤーガーデン。左端には郷土音楽を奏でる楽団】

天気がよくなった。「ここまで来たのだから、ホフ・ガルテン(宮廷庭園)へ行ってから帰ろうよ」と、歩き出す。
ホフガルテンの出入り口近くには、客待ちの観光馬車が連なっている。
御者が「ここから旧市街一周ができますよ」と、盛んに誘っている。女性の御者もいて、チロル風の衣装が楽しい。

庭園には濃い緑の葉を広げた巨木が多い。この地に根を下ろした年月を感じる。珍しい樹木の数々に、贅を尽くして庭園が造られた繁栄と栄光の時代を偲ぶ。
たくさんの花々が咲き乱れ、とりわけ気品を漂わせているピンクのアスチルベ。
いろんな種類の紫陽花が、多様な色彩を誇っている。古くからジャポニズムの象徴として、日本渡来の紫陽花を好む欧米人が多いと聞いたっけ。

池の噴水の周囲に、つがいのカモが泳いでいる。

雀が寄って来て靴先を突つく。まあ、なんと慣れているんだろう。餌のおねだりだろうかと手を出すと首を傾げて、しばらく周囲を飛び回り、肩に止まった。「ごめんね。君が食べるものを持っていないのよ」。

木立の間からヒョイと姿を現した、芸達者の雄鶏に驚く。
まっすぐに近づいて来て、片脚をあげてジッと佇み、様子を窺う。
「どうしたの?」と声をかけると、まるで「このポーズの写真を撮ったら・・・」と言わんばかりに、決まったポーズを続けている。
「私はね、片脚で立ち続けるのは、とっても苦手なのよ。君はご立派・・・」と言いながらカメラのシャッターを押すと、「それでよし・・・」と動き出す。
人を怖れず、ホフガルテンのガイドをしている感じが可笑しい。



・・・・・・・・・【王宮庭園を闊歩する雄鶏】

東屋のコーナーで、チェスをしている男性が2人。ヨーロッパの街角では、こんな商売をしているから、多分、客待ちだろう。
松の大木が伸び、木立の間からノルテケッテの山並みが見え、快晴の山々が輝いている。ここは、ノルテケッテの展望スポットだと後になって、聞いた。
ホフガルテン散策に満足し、途中スーパーマーケットで昼食用の食べ物を求め、ホテルへ帰った。
のんびりとした日曜日。

7月15日(日)午前、 雨の聖日はイエズス会のミサへ。




【イエズス会聖堂正面の聖壇、他のカトリック教会に比べて簡素な印象】

朝から雨が降り、参加予定のゼーフェルト行きは中止になった。トラッツベルク城とシュトゥーバイタールへは、予定通りに決行するとか。

ヨーロッパの旅では、日曜日には「聖日礼拝」へ行く気持ちになる。門前の小僧の習性か・・・。
市内地図を眺めると、旧市街にいくつかの聖堂や教会がある。
「観光客でいつも賑わっている大聖堂は、聖日の午前中は観光客お断りだろうね」と、その近くのイエズス会の聖堂へ出かけることにした。
「日本にキリスト教を伝えたのは、”イエズス会”のフランシスコ・ザビエル(1506〜1552)だったから・・・」という、極めて単純な理由だ。
それに、日本人が長期滞在しているもうひとつのホテル「クラウアー・ベア」のまん前にあるから、ついでに寄ってみよう、と。

10時半過ぎに聖堂内に入ると、男性が独唱中。静謐な空間に朗々と歌声が響いて、まだミサは始まっていなかった。

11時。パイプオルガンの前奏に合わせて、乳香の煙を盛大に振りまき鈴を鳴らしながら、数人の僧侶に先導されて薄緑のガウンをまとった司祭が現れた。
お祈りをし、聖書を読み、司祭の話があり、補助役の女性が話し・・・。
その合間には、会衆一同で起立して讃美歌を歌った。着席した場所に讃美歌の本が置いてあり、柱にあるパネルには、次に歌う讃美歌の番号が表示される。
歌った讃美歌は640、463、464、530、469、470、637番。ミサの始まり、主題の説教に合わせ、終わりの讃美歌へと、進行の様子が理解できた。

後半は聖餐式。信者が祭壇前に出ていき、両手でパンをおし頂いて口へ入れ、席に戻ってくる。聖餐を受ける長い列が続いたのは、街の住民だけではなく、観光客もいたのだろう。
12時過ぎ、参列者が前後左右の人たちと握手して 挨拶を交わし、ミサは終了。

改めて聖堂内を見回すと、木彫の装飾が中心で、落ち着いた質素な佇まいだ。
聖堂内はほぼ満席で、ざっと100人から150人は集まっているだろうか。
圧倒されるような装飾で溢れる大聖堂のミサに比べると、雰囲気はずいぶん違うだろうと想像した。カトリックのイエズス会のミサは、プロテスタントの礼拝に通じる印象だった。

日常の暮らしの節になる聖日に、こうしてミサに連なっている人々の姿を眺めながら、思った。
洋の東西を問わず、宗教の違いを超え、なにものかを信ずる生き方とは何だろうと。宗教を熱心に説く人々が、立場を異にする者を退け、ときに争いや暴力を肯定する。彼らの信仰の具体的な姿が、理解できない。一方では、信仰とは関わりなく、人生を丁寧に生きている人々がいる。ある宗教が成立する時代の必然は理解できるし、その宗教の始祖は偉いと思う。だが、その教えが組織化されるにつれて、膿んでいく気がする。堕落が始まると。