2013年2月20日水曜日

7月18日(水)ミュンヘンからの帰りの車中で

そもそも大都会のミュンヘンを、わずかな時間で観光するのは無理だ。
それでも、レジデンツと古絵画館では、ミュンヘンの歴史の中でヴィッテルスバッハ家が担った役割を理解し、楽しんだ。
観光には、自然を愛でるタイプと、人間臭い歴史を知るタイプがある。
インスブルック滞在では自然環境は申し分なく、ゆったりした時間を楽しんでいるから、ミュンヘンを訪れて過去を遡る観光は、刺激的だった。

1時間あまり、ミュンヘン中央駅のコンコースを歩いたり、2階のカフェでアイスクリームを食べたり。階下のホームを眺めると、大きななナップザックを軽々と背負った若者が多いし、家族連れも目立つ。今は夏休みだし・・・。
そもそもゲーテ(1749〜1832)の著作「イタリア紀行」が、ヨーロッパの観光ブームに火をつけたと聞いたことがある。ドイツ人が旅好きなのは、その伝統なのだろう。それに、ドイツ職人の徒弟制度の流れは、各地を歩く必然性でもあったと理解する。

ミュンヘン中央駅発15時31分のIC83列車で、帰途に着く。
指定席のコンパートメントにいくと、若い2人の女性がいる。初対面の好奇心からすぐに、話が始まった。
ひとりは英語が達者で、それも正確な発音だから、非常にわかりやすい。
もうひとりはイタリア語中心で、連れが通訳し、話が弾んだ。

彼女たちはイタリアのパドヴァ大学の2年生で、観光コースを専攻中だとか。
卒業すると、イタリアを訪れる観光客を案内したり、イタリア人の観光客を引率して他の国へ行ったりする仕事をしたい。それで、夏休みを利用してヨーロッパのあちらこちらを旅行している。ミュンヘン訪問は2回目・・・。
「たくさんの国の歴史や地理など、たくさん勉強することがあって大変だけれど、面白いです・・・」と。
旅をするときに出会う現地ガイドがどんなふうに育っていくか。その背景を知る機会となった。

彼女たちが学んでいるパドヴァ大学の話を聞きながら、思い出した。
13世紀に創立された名門大学で、ルネッサンス・宗教革命の動きが新しい時代を切り開いていくときに、重要な人材を輩出した大学だったのだ。

7月18日(水)美術館巡り

9時にホテルをチェックアウトし、ミュンヘン中央駅へ。コインロッカーに荷物を預けて身軽になった。
今日は、「アルテ・ピナコテーク=古絵画館」を見学し、後は自由に近辺の美術館巡りなどの予定になっている。

「アルテ・ピナコテーク」は、14世紀から18世紀にかけての絵画7000点余を所蔵している。ミュンヘンを芸術の都にしたルートヴィッヒ1世が、1836年、ヴィッテルスバッハ家のコレクションを収めるために建造を命じた。名画の宝庫としてヨーロッパの六大美術館(ルーブル美術館、エルミタージュ美術館、美術史美術館・・)のひとつだとか。
全部を観るのは無理だから、案内図でお目当ての絵画のある部屋を辿った。

ボッスの「ヒエロニムス」を見つけ、譬喩的な奇想天外な表現が楽しい。こんな題材を鋭く細密に描写しているのに、明るい色彩が印象に残る。興味を持つ画家に、早々と出会った。

デユーラーの「四使徒」が何気なく掲げられている。同じような構図で何枚か腕や手の動きが表現され、下描きか、習作なのだろう。イタリアでティチアーノと交流してイタリア的な画風だったのに、神聖ローマ皇帝マキシミリアン1世の宮廷画家になって、ドイツ的な画風になったとか。「毛皮をまとう自画像」は、まっすぐに遠くを見つめる眼が、静謐、ストイック、優しさなどを感じさせ、異常な雰囲気を醸し出している。キリストを模して描いたと聞き、合点。

ルーベンスの作品が多い。フランドル派の大画家だし、バロック絵画の代表的な画家だし、歴史・宗教・風景・人物など、いろんな分野を題材にしている。「カバとワニの狩り」は力強い躍動感に溢れ、外交官の体験が背景に覗いているのが面白かった。小説「フランダースの犬」には、ルーベンスが描いた絵が登場していたと、思い出した。

ドイツを代表する熱心な宗教改革派のクラナッハの「磔刑図」。先日、インスブルックの「聖ヤコブ大聖堂」でも、「聖母子像」を見たばかり。

ティチアーノ、ヴァンダイク、ベラスケス、ブリューゲル・・・。

ヨーロッパ諸侯・王族たちが有名画家を雇って、家族を含めた一族の肖像画を描かせた。画家が活動していた当時から関心のある作品に目を付け、財力を惜しみなく注ぎ、宮殿内の装飾に励んできた。コレクションの質の高さと量の豊かさは、よっぽど芸術に造詣深い担当者・目利きがいたに違いないと感じた。

課外活動の小学生や中学生のグループが訪れている。名画と言われる作品や特定の画家の作品の前で、館員が説明をし、生徒が質問しながら鑑賞している。外国の美術館ではよく見かける風景だ。絵画に馴染む機会は、きっと大人になってからも残るだろう。

昼食後、すぐ近くにある「ノイエ・ピナコテーク=新絵画館」へ。
1981年、新しい作品を展示する目的で建造されて、建物の佇まいも現代的だ。こちらも案内図を片手にポイント観賞をした。
19世紀末から20世紀初頭のドイツの画家の大作が揃っているのは、国家意識の昂まりが反映しているのだと感じた。
フランスの印象派の作品の多さに驚く。ゆっくりと観たいけれど美術館は足が疲れる。体力勝負だなと限界を感じ、古絵画館ほど集中できず。

2013年2月5日火曜日

7月17日(火)ミュンヘンのシェラトンホテルにて

ホテル近くを歩いていると、服装や肌の色から、アラブ系とおぼしき人がたくさんいる。観光客とは違い、ちょっと意外な感じがする。
ガイドの鈴木さんが、「ここは以前は高級住宅街だったのです。古くなった建造物を壊して再開発され、最近はお金持ちのアラブ系居住者が多い地域なのですよ」と。中東のオイルマネーが、ミュンヘンの居住環境を変えるほどに進出しているらしい。

チェックインしたホテルのロビーは、天井が高くて明るく、広々としている。イスラム風の草花模様の壁に囲まれ、テーブルに置かれた飾り物も凝った模様。
白の長い衣装を着てベール姿の数人の男性が、ソファーにゆったりと座っている。ときに秘密の話をするかのように顔を寄せ、談笑している。女性の姿はない。
受付で働いている人は、背広姿あり、白のアラブ人独特の衣装あり。
街の風景の延長で、アラビアンナイトの世界に迷い込んだような、不思議な第一印象だった。後で、シェラトンホテルのオーナーがアラブ人だと聞き、道理で、第一印象の謎が理解できた。

ホテルには、アラブ人の美容整形の医療・治療目的の長期滞在者が多い。それも家族ぐるみでやって来るので、有名らしい。
「ベールだから、目だけでは外からはわからないのに、わざわざ美容整形手術をするのねえ・・・」と感心する者。
「人前で肌を出しちゃいけないと厳しくしても、家の中ではスッピンになるのよ。美人かどうか、もろにわかるんでしょう」と物知り顏で断言する者。
「だから、男性のお気に入りの夫人になるには、美容整形は大事なことかもしれないわよね」と分析する者。

女性たちの無責任な井戸端会議がひとしきり盛り上がり、「アラブの男性はたくさんの奥さんがいるから、手術代も楽じゃないわよね」と結論。
そばにいる殿方が「一人でもたいへんなのに・・・」とニヤニヤしている。

アラブ人の家族には、第◯夫人、第△夫人がいるから、子どもも多い。
エレベーターの乗降や廊下での騒がしさは、自分たちが主人だと言わんばかりの傍若無人ぶりだ。1週間前にツェル・アム・ツィラーのホテルで、サウジアラビアの家族集団と一緒になった体験を思い出した。(「7月10日、ポストホテルにて」をご覧ください)。

数人のメイドが、賑やかな子どもの面倒をみている。大半はインド・インドネシア・フィリッピンなどのアジア系だという。言うことを聞かない子どもをコントロールしようと、メイドが大声を張り上げ喧騒を撒き散らしている。母親たちが揃って整形手術をする間のお仕事なのか。イスラム社会の家族、特に女性の立場の現実を垣間見た気がした。

7月17日(火)ホウフ・ブロイハウスの夜

ミュンヘンと言えば、ビール。「乾杯」を歌いながら、酒場でビールを飲むのも旅の目的のひとつ。
中学の地理の授業で、ビールの美味しい土地は「札幌・ミュンヘン・ミルウォーキー」と習った。アルコールには縁のない年齢なのに、しっかりと記憶に残ったのは、語感のリズムのよさからか。ビールの味に拘って飲むようになってから、この三都市がほぼ同じ緯度にあり、ビール醸造の好条件を備えていることを再認識したのだけれど・・・。

あらかじめ、鈴木さんから「初日の観光が終わってから、ビールを飲みましょう。どこかご希望がありますか」と聞かれ、夫は「ミュンヘンの酒場なら”ホウフ・ブロイハウス”に、ぜひ行きたい」と希望を出した。
その念願が叶えられ、3組の夫婦と鈴木さんの総勢7名が、ホウフ・ブロイハウスで大いに盛り上がって、一夜を過ごした。

入り口を入った途端、民族衣装姿の従業員が目の前を急ぎ足で過ぎる。両腕いっぱいにジョッキを抱え、赤く上気した顔。
ビールを飲んでいる人々の陽気なおしゃべりをかき消すように、民謡を演奏する音響が溢れている。
楽団の舞台を取り囲んで通路が四方に延び、そこにブロック席が面している。ほとんど空席はなく、人、人、人・・・。いったい、どの位の人がいるのだろう。

これじゃ、みんな揃って席を確保するのは厳しい。殿方が散って席探しを始める。
通路を一回りして最初に戻ってきた人曰く「無理だなあ。空いている席にバラバラに座るしかないなあ・・・」。
「この混みようじゃあね・・・・」と周りの席を見回すと、ひとつ、ふたつなら空席はある。「せっかくなのにね・・・」と諦めかけたとき、最後に戻ってきた夫から朗報あり。「庭まで見たけれど、なかった。そこまで戻って来たとき、まとまって座れるコーナーがあったんだよ」と。
「楽団のいる舞台の真後ろのコーナーに、ひとりの若い男性だけが座っている。”このテーブルは空いていますか”と聞いたんだよ。”どうぞ”って言うから、”グループで相席するのですが・・・”と言ったら、”大丈夫”だって・・・」。

揃って席を確保すると、殿方は1リットルジョッキのビールを、女性はラドラー1リットル1杯を注文して3人で分け、「乾〜杯!!」。
ミュンヘン名物のヴァイスブルスト(白ソーセージ)や、肉団子、ポテトフライ、酢漬けのきゃべつを炒めたものなど、夕食代わりになる皿を頼んだ。

周囲の混雑と喧騒とは全く関わりがないかのように、ひとりで座っていた青年は
ベトナム人だった。青年の隣りに座った夫が話しかけると、「ぼくの人生は、長い長い物語りです・・・」と言い、ポツリポツリと家族の体験を語った。
ベトナム戦争で両親が国外に脱出し、最後はアメリカに辿り着いたこと。
やがて小さな事業を始め、順調に発展したこと。
事業が軌道に乗った頃に、青年が誕生し、アメリカで教育を受け、大学を卒業したこと。「僕はベトナム戦争を経験していないけれど、両親の苦労は知っています。アメリカが家族を救ってくれた・・・」と言い、大学卒業後、アメリカに進出しているスイスの企業に就職し、ほどなくスイス駐在になった。
今日は休暇でミュンヘン観光に来て、初めてこの酒場を訪れた。云々。

この席が空いていたのは、陽気な観光客が青年に近寄り難い空気を感じたのかもしれない。ひとり疎外感を味わっていたときに、思いがけずに声をかけられ、賑やかなグループと休暇のひとときを一緒に過ごせたらしい。
青年は「ありがとう。よい思い出になりましたよ。ミュンヘンを楽しんでください」と言い、帰って行った。

民謡は絶え間なく演奏されている。何度も何度も「乾杯」のメロディが響き、それに唱和して、陽気な歌声が広がる。観光客がビールを提供し、演奏する人たちも、代わる代わるにビールのジョッキを飲み干して、赤い顔をしている。

近くの席では、誕生パーティーをしている。演奏者がやって来て、何やらお祝いの挨拶をし、「ハッピー・バースデイ」の曲を奏でると、パーティー参加者ばかりか近くの人たちも一緒に歌い出す。私たちも歌った。なんと賑やかなこと。

「トイレでは、入り口から行列ができているよ。ビールを飲めば当然の生理現象だけどね。それに中は 意外に広くて、ズラリと並んでいるのは、壮観だったなあ」。
愉快なトイレの様子を聞いて、大笑いした。

ミュンヘンの酒場で、旅仲間は、飲んだり、食べたり、歌ったり、青春気分で盛り上がった。そうだった。この酒場で、ヒットラーが演説したのだ。
陽気で和やかな空気を身体いっぱいに感じながら、これこそ酒場本来の姿だと思った。
ベトナムの青年が帰った後、「ベトナム戦争末期の頃は、無茶苦茶に働いていたなあ」と、呟いた男性たち。企業戦士として、日本の高度経済成長を支えた。

旅先で出会った人や訪れた場所を通し、自分たちの生きている時代の体験を、遠い過去の出来事として忘れてはいけないなと、改めて思った。

7月17日(火)新市庁舎の仕掛け時計

レジデンツから新市庁舎へ歩く途中、大きな交差点を渡った。
「ここでマキシミリアン通りを横切りました。ミュンヘンっ子は、この通りを”ざあます通り”って言っています。高級品が並んで、値段も高級。お金持ちが来る通りです」。
なにしろミーハー度は高い。ガイドの説明を聞き、慌てて引き返して通りを見渡す。市電が走る通りの両側に、ティファニー、プラダ、ルイ・ヴィトン、シャネルなどのブランドを扱う店舗が軒を連ねている。東京の銀座通りにもこれらの店があるし、女性に人気があるのは確かだが、「”ざあます”ねえ」と思う。東京の銀座の方が庶民的な感じがした。日本人が分相応以上にブランドに拘って買い物をし、必ずしもお金持ちに限らないからだろう。

4時40分頃、マリエン広場の新市庁舎前に着くと、5時から10分間の「仕掛け時計」を見る観光客が群れ、なおも四方八方から押し寄せて来る。ひとたび立ち止まると、行く手が塞がって動くのが難かしい。大人気のほどがわかる混みように驚きながら、少しでもよく見える場所を探す。
「くれぐれも持ち物に気をつけてくださーい。スリがいますから・・・」と鈴木さんが声をかけている。

新市庁舎は1867年から1908年にかけて、ネオ・ゴシック様式で建造され、庁舎中央の塔に、仕掛け時計「グロッケンシュピール」が造られた。当時のバイエルン王国の意気込みを現して、ドイツでいちばん大きいという。

開始時刻の鐘が響き渡ると、一瞬張りつめた静寂な空気が流れ、人間と等身大の人形が現れた。
下段は庶民の人形で、桶職人が踊りながらクルリと回る。
上段には貴族。ラッパを吹く男の合図で王と王妃の結婚式が進行して行く。馬に乗った騎士が試合をしている。
人形は全部で32体。人形はゆっくりと移動しながら役を演じ、やがて姿を消した。巧妙な仕掛けに感嘆のざわめきが起こって、10分間はあっという間に過ぎた。面白かったし、楽しかった。

6時半集合を約束して解散。
ペーター教会の夕べのミサを覗き、街角の女性四重奏を聴き、ドイツ語で話しかけて来た男性と身振り手振りで話し、お土産を物色し、記念にとワインオープナーを求めた。

7月17日(火)ヴィッテルスバッハ家のレジデンツ(宮殿)

「レジデンツ」は、ヴィッテルスバッハ家の宮殿だ。
ヴィッテルスバッハ家は、バイエルン公から神聖ローマ帝国選帝候へ、さらにバイエルン王へと権勢を高めた。それに伴って、14世紀後半から建造されてきた宮殿が広げられ、歴史の舞台になった。宮殿全体が過去の栄光を閉じこめて、博物館になっている。

入館すると間もなく、「祖先画ギャラリー」へ。レジデンツの栄光を担った歴代の面々が肖像画に収まっている。120人以上も並んでいるのだから、だれがだれだかわからない。どんなに立派に描かれた肖像画でも、ほとんど関心を引かず面白くない。「ごめんなさいね」と足早に通り過ぎる。

印象深かったのは「アンティクヴァリウム」だ。トンネル状の丸天井や壁に描かれたフレスコ画が美しい。壁に沿って飾られている古代彫刻に、天井の窓から差し込む陽射しが照り映えて、明るく華麗な空間になっている。その素晴らしさに圧倒された。

神聖ローマ帝国の選定侯になった記念に造られた「バロック様式の間」は、高揚したヴィッセルバッハ家の権威が窺え、レジデンツの存在を如何なく示している。
謁見の間、鏡の間、ベッドルーム、皇帝の間・・・と、豪華な部屋が並び、一族の宮廷内の生活を彷彿させる。
ベッドルームには、1961年、イギリス女王エリザベス2世(1952〜在位中)が泊まったとか。第二次世界大戦では、イギリス本土がドイツの空爆にさらされ、イギリス空軍のドイツ猛爆も激しかった。半世紀前の若かりし女王は、どんな気持ちだったろう。もっともエリザベス女王の系統はドイツのハノーヴァー家に遡るから、お里帰り?の意識もあるだろうか。両国の関係を考えながら、いい時代になったとも思った。
王宮ではいちばん大きい部屋「皇帝の間」は、建造当時から国家行事の舞台で、現在も宴会場として使われていると聞いた。

「冬の庭園」は、周囲をガラスで覆ったテラスで、厳しい冬でも草花に囲まれ、貴族がお茶のひとときを過ごしたという。ゼラニュームの鉢が並んでいる。贅沢な空間を暖房するのは、どんな仕組みがあったのか。さぞ大変だったろうと、余計なことを思う。

ヨーロッパ諸国の王室が、古くから経済的交流を盛んに行っていることも知った。ベルギーやオランダで製作された絨毯、オランダを通して中国からもたらされた陶磁器などに、その様子を偲んだ。

ヨーロッパ諸国の王が、惜しみなく財力を注いで宮殿を建造し権勢を誇った。例えばヴェルサイユ宮殿やシェーンブルク宮殿。ミュンヘンのレジデンツも同じだ。
すでに宮殿の主の影はないが、宮殿そのものが重要な観光資源になっている。「虎は死して皮を残し、王は去りて宮殿を残した」のだから、無駄ではなかったのだ。

およそ1時間半、入り口で貰ったパンフレットを手に、ルートを確認しながら辿った。部屋が次々に複雑に続いているし、仲間がいるから遅れないようにと気遣うし、ときには他の観光グループに紛れ込む心配もあり、ゆっくりと眺めるわけにはいかない。
展示品はあまりにも膨大だから、急ぎ足の鑑賞で疲れ、次第に重苦しくなった。威容を誇る宮殿を楽しむためには、体力が勝負だと痛感し、触りだけの観光終了。

外に出ると、すぐ近くに「バイエルン州立オペラ歌劇場」が見える。
19世紀初頭のミュンヘンは、ルートヴィッヒ1世の尽力で芸術の都として輝き、その証が王立劇場の建設だった。先の大戦の空爆で破壊され、1963年に再建されている。内部を見たかったけれど、先を急いで断念。


7月17日(火)国境を越えて、南ドイツのミュンヘンへ

今日から1泊のオプショナル・ツアーで、ミュンヘンへ出かける。
ヨーロッパ・アルプスの南側のオーストリアから、その北側のドイツへ国境を越えるけれど、陸続きだから列車に乗るだけの便利さだ。
国際急行列車(EC82)で、10時36分のインスブルック中央駅発だと、ミュンヘンには12時25分に到着する。

イエンバッハ、クフシュタイン、ローゼンハイムと、緑が輝く山なみを車窓に眺めながら、遠足気分が高まっていく。
ミュンヘン到着後、荷物を置いて身軽になるために、宿泊する「シェラトン・ホテル」に向かった。地下鉄(U4)に乗り継いで10分ほどの場所にあった。

部屋にチェックインすると、真っ先に飛び込んできたのが、広い窓からの眺めだった。眼下に旧市街も新市街も展望でき、ミュンヘンの街の広がりが素晴らしい。
早速地図や資料を広げて、特徴的な教会の尖塔や大きい通りを確かめながら、街の様子を確認する。

ベッド周辺の機能的な設備、バスルームの贅沢な空間は、新しく建設したホテルだからだろう。夫はwifiが繋がるのを確かめて、「こりゃいい」と喜んでいる。旅先の満足を左右する設備なのだ。

2時半、再び地下鉄U4に乗ってオデオン広場へ。そこから徒歩でテアティーナー教会、レジデンツと歩き、マキシミリアン通りを抜けて新市庁舎へ。キョロキョロと眺める典型的お上りさんになった。

鈴木さんが要所のガイドをするから、下調べをしたイメージが具体化していく。
たくさんの場所を訪れたけれど、ミュンヘンの800年の歴史を体現した「レジデンツ」の印象が強く、あとは、ミュンヘン観光のおまけの感じになった。



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7月17日(火)観光前にバイエルン・ミュンヘンの歴史を少々

南ドイツとオーストリアは、神聖ローマ帝国(962〜1806)時代にはハプスブルク家に支配され、地理的・歴史的に深い関わりがあった。
今はどうなっているのだろう。また、現代史の舞台になったミュンヘンの現在も知りたい。そんな興味から歴史の流れを辿った。

ヨーロッパ諸国では、古くから諸侯・王家の関係が深く、巧妙な駆け引きによって、支配者の失脚や国の統合・滅亡が繰り返され、ときの強者が席巻してきた。
訪れるミュンヘンの歴史的な位置づけを辿りながら、諸侯の野心を知れば知るほど権謀術数が面白く、感心した。

そもそも”ミュンヘン”の地名は、古いドイツ語”ムニヘン=べネディクト会の修道士”に由来しているという。8世紀頃の修道士たちが、辺りに点在する集落をもとに、ミュンヘン建設の基を拓いたらしい。

この地方の政治的発展の端緒は、10世紀に、南ドイツの貴族ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公の称号を得てからだ。ヴィッテルスバッハ家は、お家騒動を繰り返しながらも、第1次世界大戦のドイツ敗北の1918年まで続いた。

1158年は、ミュンヘン誕生の年とされている。
1158年のアウグスブルク帝国議会で、バイエルン公フリードリッヒ(1129〜95)は塩取引の関税徴収権を承認されたからだ。それまでは塩取引の徴税権は司教が握っていた。フリードリッヒはムニヘンが拓いた場所に都市を建設して司教に対抗し、経済の実権を奪った。現在のバイエルン州と州都ミュンヘンの関係は、中世の重要な商品「塩」の経済力が出発点になった。

16世紀、宗教改革が展開した頃、神聖ローマ帝国のバイエルン公(ヴィッテルスバッハ家)は、カトリック陣営を支持。続く大小300余の諸侯相乱れるドイツ三十年戦争(1618〜48)では、カトリックのリーダーとして政治的に重要な立場をとった。その活躍によって、1623年に選帝候に昇格し有力諸侯になった。

フランス皇帝ナポレオン1世(1769〜1821、皇帝在位1804〜14・15)がヨーロッパ支配を展開していた頃、バイエルン公はその片棒を担いで、バイエルン王の称号を得た。1806年以降、バイエルンは王国に昇格し、ミュンヘンが王国の首都になった。

バイエルン王ルートヴィッヒ1世(1786〜1868、王在位1825〜48)がミュンヘンを芸術の都に育てたので、以後、ドイツの文化的・知的活動の拠点のひとつになった。

孫のルートヴィッヒ2世(1845〜86、王在位1864〜86)の物語は、王家内の人間模様を窺わせる。音楽を愛した王は作曲家のワーグナー(1813〜83)のパトロンとなり、あるいはノイシュヴァンシュタインなどの築城に夢中になり、莫大な費用で財政を脅かした。そのため、周囲から精神病を患っていると王位を追われ、その3日後、シュタルンベルク湖で侍医と一緒に溺死体で発見された。自殺・他殺・事故死と謎が多い。
余談だが、この未解決事件は、小説(森鴎外の「うたかたの記」1890年著)や映画(ヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ神々の黄昏」1972年)の題材になっている。不運な狂気王の話題性が形を変え、新たな文芸・芸術として再生した。

さて、20世紀前半の二つの世界大戦に、ミュンヘンは大きな役割を持った。ヒットラー(1889〜1945)登場の舞台となったのだ。
第一次世界大戦後の1919年、ヒットラーはミュンヘンでナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に入党し、党勢拡大に貢献して党首(1921年)になった。
日夜ミュンヘンの酒場で仲間と協議を重ね、1923年にミュンヘン一揆を起こしたが失敗し、有罪判決。出獄後は、敗戦と世界大恐慌の大打撃の中にあるドイツで、ナチスのリーダーとして全体主義的大衆運動の実権を握った。首相(1933〜45)・総統(1934〜45)のヒットラーに率いられて、ドイツが第ニ次世界大戦へ突き進んだ。

20世紀後半。第二次世界大戦敗戦のドイツは東西に分断され、ミュンヘンには、時代の先端をいく科学技術が根をおろすきっかけとなった。ドイツの代表的な重工業企業のジーメンス社が、本社・主力工場・研究所をベルリンからミュンヘンへと拠点を移し、乗用車BMW工場の生産はミュンヘンで行われている。

ミュンヘンは、現在ドイツ第3の大都市に変貌している。中世以来の歴史をみると、強かに時代を生きてきた都市の背景がわかる。
清も濁も飲み込んだ歴史だから、ビールと一緒に、現在のミュンヘンを味わおう。