2013年4月10日水曜日

7月31日(火)〜8月1日(水)「さようなら、インスブルック」

帰国を意識して興奮したらしく、早々と目覚めてしまった。4時半には起床。シャワーを浴び、忘れ物がないかと念には念を入れた。
スーツケースを部屋の前に出し、6時半に朝食へ。ゆっくりと最後の食事を楽しんだ。

8時半にロビー集合後、直ぐにバスで出発。
玄関前に並んだホテルのスタッフが、「また来年の夏も来てくださいね」と、見送ってくれた。スタッフは人懐こい人が多かった。

インスブルック空港は街外れにあるから10分ほどで到着し、簡単なセキュリティ・チェックを済ませると、後は離陸を待つのみ。予定よりずっと早い。

ルフトハンザ航空の70人乗りのプロペラ機で、乗り継ぎのフランクフルト空港まで飛んだ。
離陸するとまもなく、アルプスの山々が俯瞰できた。意外に低空飛行だから、岩山にハイキングルートがくっきりと見える。目を凝らすと、ロープウエイの鉄柱や山小屋も見える。ハイキングで辿ったあれこれを想いながら、苦労した道やあっけなく歩いた道の残影を探したが、地形に通じているわけでもなし、無理だった。
やがて、緑の平野に街が点在し、蛇行する川の流れに沿う住宅が、箱庭のように続く。ドイツ上空だろうか。耕やされた畑の多い農耕地帯に変わった。
晴天に恵まれた飛行は、飽きることなく、1時間余があっという間に過ぎた。飛行中、機体がガタガタと軋む音が響き、ちょっと不気味な感じだったけれど・・・。

フランクフルト空港は広大な敷地にターミナルがあり、飛行機が着陸してから降りるまで20分かかった。乗り換えのゲートへの移動は、歩く、歩く・・・。ハイキングで鍛えた?とはいえ、ウンザリする距離だ。出国審査は非常に厳しく、延々と列が続いていた。乗り継ぎには2時間以上もあったのに、搭乗に必要な諸手続きと移動で過ぎた。

フランクフルトから成田までおよそ11時間。「夢去りぬ」の気持と緊張の疲れでガックリしたが、いつの間にかぐっすり眠った。
8月1日(水)朝の8時に成田着。無事に旅は終わった。

(付記)
旅行社が企画した「アルプスの古都インスブルック長期滞在の旅」は、昨年から始まって今年は2回目だった。毎月送られてくる旅行社の雑誌で見つけ、偶々参加を決めた旅だった。
帰国後、旅行社の担当者から「企画が高く評価された旅行でした」と、弾んだ連絡があった。

毎年9月に開催されるアジア最大の旅の博覧会で、今年は106点がノミネートされ、この旅行社の企画が「従来の常識を覆す革命的な作品」として、”ツアーグランプリ2012”に選ばれ、さらに”国土交通大臣賞”とダブル受賞したという。

インスブルック滞在の旅を充分に楽しんだし、それだけでも満足していた。
参加した企画が評価されたことは、旅の喜びを、さらに忘れ難いものにした。

以上 完

7月30日(月)滞在の打ち上げは「チロルの夕べ」

夕方6時にロビーに集合。バスで20分ほどのナッタース村のビルトハウスへ、旅行社が主催する「チロルの夕べ」に招待されて出かけた。

なだらかな草原が広がる庭で、ウエルカム・ドリンクを傾けながら、しばし談笑した。どこから現れたのか、すぐそばにウサギがひょいと立ち上がって、好奇心満々で私たちの様子を見ている。夕方になるとお相手を求める鳥の囀りが、賑やかに響き渡っている。

その後、広いホールに移動して、インスブルック滞在中のツアー・グループ毎に着席したが、たくさんの日本人がいる。街を歩いていても、滅多に日本人に会わなかったから、どこに散らばっていたのだろうと驚いた。

可笑しかったのは、ビアーレストラン「スティフツ・ケラー」でチロル民謡を奏でていた3人のグループが、今夜の音楽担当だったことだ。彼らはインスブルックを拠点に、観光シーズンは大忙しとのこと。

インスブルック観光局のダニエル氏と旅行社の現地駐在員の篠原さんの挨拶があり、乾杯前にチロルの民謡2曲が演奏され、やがてビルトハウスのオーナーが歓迎の挨拶をし・・・。ヨーデルが歌われ、「乾杯の歌」が響き、次第に陽気に盛り上がった。

夫は楽団員から声をかけられ、「私たちが歌うのにあわせて、口パクでもいいから一緒に歌おう」と言われ、飛び入りで「乾杯の歌」を熱唱?。 呑み助に相応しいし、ドイツ語で歌える歌だし、ワインの酔いもあったらしい。パチ、パチ、パチ。

夕食後、旅行社の添乗員のチロリアン・ダンスが披露され、それに加わるお仲間が増え、熱気に包まれた旅の最後の宴が続いた。

窓外を見ると、ここで飼われているクジャクが歩いている。
次第に明るさが薄れて行く草原の彼方に、散策している若いカップルが手をつないで現れ、ズームアップするかのように次第に近づいてくる。気がついた仲間が「写真になりますな・・・」と、目を細める。

瞬時、室内の賑わいを忘れ、アルプスの自然に溶け込んだ長閑な風景を眺めながら、滞在の日々のあれこれを、走馬灯のように想起した。思い出に残る愉しいチロルの夕べだった。

7月30日(月)インスブルック滞在の最終日

6時頃起床。ノルトケッテの山並みを眺めながら、1ヶ月の滞在の数々を辿った。
もうずいぶん前の出来事に「長かったなあ」と思う一方で、アッという間に時間が過ぎて「速かったなあ」という気持が往来する。

朝食にいくと、ワサワサしたざわめきが満ちている。昨夜、中国人の団体客がチェックインし、ビュッフェに群がっていたのだ。大声でしゃべり、皿に盛り上げた料理を食べ残し、果物やパンをたくさん抱えて出て行く。傍若無人のいただけないマナーを眺めながら、自国の習慣・尺度はともかく、人間としての民度のレベルアップが大事だと痛感。

午前中、イン川沿いを歩いた。パステルカラーの壁や、美しい装飾のある建物を眺めたり、ウインドー・ショッピングをしたり。市場も覗いて、賑わいを肌に感じた。

昼食は中華料理店「カントン」へ行く。
夫はワンタンスープ、私はフカヒレスープ。それに春巻を添え、ヴァイスビールとラドラーも。美味しかった。人気を聞いてやって来たのだろうか。欧米の観光客が多かった。

帰路、最後まで懸案だった買物をした。最近は、日常の買物をするのも意欲が乏しくなり、「いずれ・・・」と先延ばしをする傾向だ。「買物を億劫がるのは、ボケの始まり」だそうだから、あぶない、あぶない。旅のお裾分けのお土産を買うのも、最終日にやっと間に合った。

午後、本格的にスーツケースのパッキング。

2013年4月8日月曜日

7月29日(日)買物と休養の日

ゆっくりと朝寝坊。

朝食後、スーツケースに入れる荷物まとめを、ボチボチ始める。
滞在はあと二日で終わる。

昼頃、昼食をとるために、ついでに買物を予定して外出。

インスブルックのビアーホールともお別れだと、昼食は「スティフツ・ケラー」へ。何回出かけたことか。すっかり馴染んだ場所だ。
数種類のソーセージの盛り合わせとチーズを注文し、ヴァイスビアーとラドラーで乾杯した。

1時間ほど小さな買物をし、ホテルへ。

持参の日本食の夕食。
疲れて食欲がないとき、外へ食べに出かけるのが億劫になったときに大いに助かった。予定通りに片付いたし・・・。
滞在中は料理をすることもなく、楽チンだったが、それも間もなく終わりだ。

夜、久しぶりにメールを書き、気持は日本へ。




7月28日(土)ブレッサノーネへ

第一次世界大戦でオーストリアが敗北し、南チロル地方はイタリア領になった。
チロル人は、いつかは同じ国になると期待して、さまざまな交流を続けている。
そんな背景を持つチロルの姿を見たいと、ブレッサノーネ(ドイツ語ではブリクセン、後で知ったのだが、イタリア領南チロルに住む人の中には、地名をドイツ語で表現するとか)へ出かけた。

インスブルックから国際特急ユーロスターのヴェネチア行に乗り、フォルテッツァで乗り換えた。ヨーロッパの南北を結ぶブレンナー峠を過ぎると、イタリア領チロルに入り、2時間近くかかってブレッサノーネへ到着。
同じチロルなのに、インスブルックから訪れると地理的には遠いが、心理的には、とても近い感じがするから不思議だ。

南チロルには、ドイツの古典派詩人・作家のゲーテ(1749〜1832)が、イタリアへの旅の途中に泊まったし、ナポレオン1世率いるフランスの軍隊がブレンナー峠を越えている。
特にブレッサノーネには、オーストリアの音楽家モーツアルト(1756〜91)も足跡を残しているし、現在はローマ法王の夏の避暑地になっている。ローマ時代から峠越えの重要な道が通じていたのに、ブレッサノーネは古い歴史をとどめた小さな村だった。

観光の中心はドゥオモ広場だ。広場に面した13世紀建造の大聖堂が、カトリック信仰の威容を示している。聖堂の天井の見事な骨組み。回廊の微細な彫刻の佇まい。長い年月を刻み込んで、どっしりとした石造りの構えが、素晴らしい。大聖堂のパイプオルガンで、モーツアルトも演奏したと聞いた。

王宮庭園を歩き、咲き誇る草花や樹木の美しさに息を飲んだ。司教の館もまた、圧倒されるほどに堂々としている。それらを見上げながら、人々のつつましい暮らしと、その支えになっている大聖堂の佇まいを対比し、「信仰とは何ぞや」と思った。

「少し歩こうよ」と、ドゥオモ広場から延びる通りに入った。
雪の季節を凌ぐ天井のあるポルティコ(アーケード)が延びている。今日のような陽射しの強い季節には影になって、有難い。傾斜の大きい屋根は、もちろん雪の滑りをよくするためだし、小さな出窓の飾りが意匠を凝らして楽しい。
気候風土に根ざす暮らしの工夫の数々を確かめながら、イタリア・ブルガ川が流れる岸辺まで歩いた。
滔々と流れる川の水が、雪解け水のせいだろう。白濁したパステルグリーンで輝いている。ホッとしてしばし眺めた。

再び広場に戻る途中、露天が軒を連ねる細い通りを歩いた。
綺麗なラベルが貼られた瓶が並んでいるので覗き込むと、アルコール類を売っている。「グラッパがあるよ」と夫は目敏く見つけ、「ブレッサノーネはイタリアだから、その記念に・・・」と購入。
50歳代と思しき売り子の女性と、英語でいろいろと話した。夫が「この辺りの住民はイタリア語を話すのですか?」と聞くと、「住民の70%はドイツ語ですよ」とのこと。

チロルの英雄として敬愛されているホーファーは、南チロルで生まれている。チロル人の絆は南チロルにある。南チロルがオーストリアから切り離された歴史を思いだし、日常生活にその影響が色濃く残っていることを改めて感じた。

ホテル「ゴールデナー アドラー」のレストランで遅い昼食をし、3時過ぎの国際特急で帰路に着いた。コンパートメントはおろか、廊下まで超満員だった。やっと廊下のベンチに座った。
今日のイタリアへの旅は、いわば消化企画の感あり。お疲れさんでした。

参加者一同が揃う夕食は、ホテルのレストランで。
シェフが、この夕食のために腕によりをかけて準備したという。
インスブルック滞在が順調に過ぎ、思い出の数々を振り返りながら、歓談した。
お互いの大胆な?スケジュールが披露されたし、谷あいによって古い伝統が維持されているチロル地方の保守的な暮らしの心地よさや、人懐っこいチロル人の優しさを、異口同音に納得した。
「もっと滞在したいなあ・・・」と、名残を惜しむ時間となった。

2013年4月6日土曜日

7月27日(金)休養日の出来事

午前中、「旧市街で散歩しながら、お土産を買おう」と出かけた。
ゆっくり買物がしたいのに、夫は「滞在中に、”市の塔”に登るつもりが、まだ実現していないし・・・」と、あんまり気乗りしない様子。
高所恐怖症の私は、「どうぞ一人で登って・・・・」と、気が進まない。

結局、別行動して、待ち合わせることにした。
旧市街には古くからの老舗があって、ウインドウ・ショッピングだけで充分楽しんだし、夫は市の塔からの展望を堪能して、満足した。

街の老舗のデパートメントストア”カウフハウスチロル”で、お土産を探したが、「買物は最後にまとめて済ませようよ」と、店を出た途端、事件に出くわした。

アラブ系の少年が、大きいビニール袋を脇に抱え、脱兎のごとく走って来た。
ほとんどぶつかる直前の勢いに、「危ない!」と叫んだ。数メートル先に、老夫婦が呆然と立ち尽くしている。言葉にならない声をあげ、腕を振り上げて、少年の走り去る方向を指している。
「ひったくりだ!」と直感。一瞬の出来事で、少年の姿はたちまちに見えなくなった。通行人も気がつき、「泥棒だ!」とざわめいたが、追いかける者はいない。
少年が走り去った道のところどころに、下着・靴下・シャツなどの衣類が落ちている。
おそらく、老夫婦はホテルに滞在中の観光客で、コインランドリーで洗濯を終え、大きな袋に納めていたのを狙われたのだろう。

「インスブルックの観光は、治安のよさを強調しているのに・・・。最近はそうもいかなくなったのだろうなあ・・・」と話しながらホテルを目指した。
途中に衣類が点々と落ちているのに気づき、少年はこの道を走り続けたと理解した。

ホテル滞在が長くなるにつれて、気になっていた。ホテルはインスブルック中央駅前にあり、正面玄関の角を曲がったレストラン出入口付近に、若者がたむろしているのだ。彼らはなにをするでもなく、通行人を眺めている。何度か、警察官が若者に話しかけているのを見かけていたが、相変わらず、仲間内でふざけたり、歩道に座っている。その前を歩くのはちょっと不気味だったが、日本人には「ニーハオ」と笑顔で挨拶するから、ときには「こんにちは」と返して来た。

今日の事件を見て、確信に変わった。仕事がない若者が、観光シーズンを目当てに、よからぬ目的で出稼ぎに来たのではないか。
旅行社は「ひったくり・スリ・泥棒などを正業にする者が多いから注意するように」と、観光客に警戒を呼びかけているし・・・。

明るい陽射しが溢れている帰路だったが、それまでに抱いていたインスブルックの印象に陰りを感じた。EU圏では、シェンゲン協定で国境を越える移動が自由になっている。最近は、ヨーロッパの経済問題が深刻だし、失業に伴う出稼ぎが増え、治安問題が日常生活に影響している。そんなことを考えさせる出来事だった。

7月26日(木)台所でクヌーデル作り

マルチンさんが「ようこそ、いらっしゃいました」と挨拶して乾杯。その後、クヌーデル作りをした。
マルチンさんは、夏はハイキング・ガイドを、冬はスキー・インストラクターをしながら、農牧畜業、林業などの力仕事を担当し、今日はクッキングの先生だ。

「都市化した町はともかく、チロルに住んでいる人々は、生きていくための労働はなんでもします」と、マルチンさんは言う。

玉ねぎを刻んで炒め、茹でたジャガイモを潰し、ヨーグルトやバター・塩・コショウで味付けし、全部を捏ねてお団子にする。泥遊びのお団子を連想して、なんと無邪気な楽しい作業だったことか。マルチンさんの手際のよさに、一同感嘆した。

驚いたのは、一見、ごく普通の調理台なのに、薪を使っていることだ。
調理台のいちばん下の引出しは、短く切った丸太の貯蔵庫兼乾燥庫。
その上の段は、空気を取り入れて薪の火力調節をし、燃えかすが溜まる場所。
3段目で、薪を燃やす。
その上の調理台の表面で、湯を沸かしたり、鍋で調理したり、場所によっては温度の違いを利用して、鍋やヤカンを置いて保温している。
ガスや電気は一切使わないけれど、なんの問題もなく、調理ができる。
高齢世代の多い仲間は、「薪の調節は大変だったけれど、竈の仕組みと同じねえ」と、数十年前の日本の台所を懐かしんだ。

味付けされたクヌーデルのスープ、オーブンで焼き上げた牛肉、サラダ。
持ち寄ったワインを傾け、素晴らしいディナー・パーティーだった。

食後の片付けでびっくりしたのは、皿やグラスを食器用洗剤に漬け、そのまま洗わずにふきんに伏せたこと。口に入れても問題ない洗剤を使っているのだろう。
「日本人は、食器をゆすがないなんてことできない・・・」とお互いに呟いた。
うん。エコの奨励や、衛生・清潔などの感覚には、国民性・思想が色濃く現れる。日本人は、なんでも「水に流す」のがお得意な民族だし・・・。

夏時間で8時を過ぎても、まだ明るい太陽が頑張っている。別れを惜しみながら、駅までマルチンさんが見送ってくれた。
下車した時には気づかなかったけれど、ライフェンは無人駅で、私たちのグループ以外の人影はない。

汽車が来るまで、夫はマルチンさんから駅周辺の様子を聞いた。
ホームの目の前の林は国有地だが、マルチン家が管理する権利を先祖代々、世襲で受け継いでいる。

ただ、鉄道沿線に沿う幅10メートルほどは、安全な列車運行をする鉄道会社の責任で、樹木が風や雪で倒れると、本当は鉄道会社が片付けなくてはならない。実際はそれが難しいので、代わりにマルチンさんが人を雇って伐採し、それに必要な人件費を鉄道会社に要求して支払ってもらう。
管理している林の木を伐ると、同じ本数の木を補充して植えることになっている。マルチンさんの裁量で伐採した木材は、出荷したり、自家用にしたりして、マルチンさんの収入になる。

下草が刈られ、手入れされた森林の管理が、こうした林業の仕組みで行われていることを知り、興味深かった。古くからの伝統を守る生活が維持され、過疎化とは無縁だからこそ、こうした林業も健在なのだと感じた。

2013年4月3日水曜日

7月26日(木)マルチンさん宅訪問

添乗員の鈴木さんは、昨年のインスブルック滞在でも添乗員をし、ハイキング・ガイドのマルチンさんを知った。その関わりから、鈴木さんのアイディアで稀有な体験をした。

鈴木「もうすぐ滞在を終えるグループに、特別な思い出になるプログラムがないかしら・・・」。
マルチン「12名の小さなグループなら、夕食にお招きしましょう」。
鈴木「でも、招かれるだけでは申し訳ないし・・・」。
マルチン「だったら、オーストリアの伝統料理クヌーデル(ジャガイモの団子)を一緒につくって、食べましょう」。
こんなやり取りがあったという。
その結果、思いがけず、典型的なチロル地方の暮らしに触れる機会ができた。

ドイツ語通訳の柳瀬さん(モラス夫人)を加えた総勢14名が、夕方4時過ぎ出発。
インスブルック中央駅から30分のLeifhen駅で降りると、マルチンさんと息子ユリア(もうすぐ3歳)に歓迎され、すぐに彼らの家までの道が興味津々の舞台となった。

道路沿にある木材の集積所からは、霜降り松の香りが漂よっている。
マルチンさんが「この木材は最近、弟が伐ったものですよ」と、指差す。
古い小さな教会がある。毎日曜日、住民がミサに集まってくる共同体の拠点だ。
朝、放牧され、夕方には小屋に導かれている牛の群が、従順に歩いている。
この地方の伝説だというの巨人の家がある。
見慣れない日本人グループに笑顔いっぱいの挨拶をしながら、仕事を終えて家路を急ぐ村人たち。

「僕の両親の家、弟の家族の家、お祖母さんが住んでいる家、妻の両親が住んでいる家はこちら、あちらはおじさんの家・・・」。
次々に指差すマルチンさん宅の向こう3軒両隣は、みんな親類縁者だ。
マルチンさん宅の入口に、集落の責任者の印が掲げられている。隣接して、共同で使っているパン焼き小屋、燻製小屋がある。

池では、番いのアヒルや鴨がノンビリと泳いでいたが、人の姿を見ると、猛烈なスピードで岸辺を目指し、餌をねだっている。

緩やかなスロープの下のトランポリンでは、ユリアが早速飛び跳ねて、得意な演技を披露する。

夕方の柔らかい光を浴びながら、1時間ばかり周辺の牧場へ歩いたり、農家の佇まいを観察したり。
生まれたばかりのエマニエルを抱いて、夫人が現れて挨拶し、母親も姿を見せる。

遠い昔、日本の田舎にも、穏やかな暮らしがあった。そんな雰囲気に通じるものを感じて、懐かしい。



7月26日(木)チロル独立の古戦場ベルクイーゼルへ

午前中、バスを利用して10分ほどのベルクイーゼルへ出かける。
インスブルックの街の背後に広がるノルテケッテ、シュトゥーバイタール、パッチャーコーフェルを望む絶好のスポット展望台があり、観光客が群がって順番待ちをしている。その先に、ホーファー(1767〜1810)の墓地と銅像があって、特別な場所になっている。

ホーファーにまつわる歴史は・・・。
およそ200年前、ナポレオン1世はヨーロッパ支配を目論み、フランス軍を率いてオーストリアへ侵入。チロルに隣接するバイエルンは早々とナポレオン1世に協力し、その功績で、チロル地方統治を任せられた。

それに対してチロル人は反抗し、ホーファーの指導で、1809年に蜂起。多勢に無勢ながらチロルはベルクイーゼルでの2回の戦いに勝ったのだ。
シェーンブルンの和解後もバイエルンの支配は続き、戦いが再燃。ホーファーは捕虜となった。手を焼かせるチロル人憎しから、ナポレオン1世はホーファーの処刑を命じ、1810年2月20日に銃殺された。チロルの農民は、闇夜を利用して葬られた遺体を掘りおこし、ベルクイーゼルに運び、手厚く埋葬した。
ナポレオン1世が失脚すると、ベルクイーゼルにフランス軍が残した大砲を利用してホーファーの銅像が造られて、墓地に立てられた。

登り下りのある小さな山を望み、茂みを歩きながら、ホーファーはチロル独立の英雄であり、ベルクイーゼルの丘は独立の古戦場である謂われを知った。
最上階の喫茶室で360度のパノラマを眺めながら、メレンゲコーヒーで一休み。

古戦場のベルクイーゼルには、スキージャンプ台がつくられて、各種の国際的なスキー競技が開催されている。インスブルックで開催された冬季オリンピック(1954年と1972年の2回)の舞台にもなっている。ジャンプ台の銘板に優勝した選手の名前が刻まれ、1972年のオリンピックで活躍した日本の笠井選手の名前を見つけた。

ジャンプ台斜面の草原で、グラスファイバー・スキーをしている数人は、スキー愛好者か、冬に備えての選手のトレーニングなのか。観客席に座って、興味深く眺めた。

余談。ベルクイーゼルの丘を歩いている途中で、メモをとる紙がないのに気づいた。旅の習慣で、説明や感想を書きつける大切な紙切れだ。周囲を見渡したがない。
一回り観光した後も諦めきれず、未練がましく、途中にあるゴミ箱の全てを、ときにはゴミを動かして確かめながら下った。そして、出口近くのゴミ箱を覗いたとき、あった!
大事な紙切れは無事に戻ったが、ゴミ箱を覗き漁る姿は奇異なものだったろうと赤面し、同時に、紙切れを拾ってゴミ箱に収める人がいることに感心した。