2014年12月3日水曜日

[NYへの旅] 29. 旅は終わった

ヒルダガードのホスピタリティを身いっぱいに感じて、旅は終わった。
あれから身辺にハプニングがあって中断し、再開したことはすでに書いたが、旅からなんと1年半以上も過ぎている。いい加減に旅日記をブログに書くことを諦めてもよさそうなのに、旅が楽しかったし充実していた記録を書いておきたい。そんな気持ちが強くて、やっと目的を叶えた。思い出すたびに、未だに余韻を味わう日々だ。

旅日記では、彼女の子どものことに触れたけれども、元夫のピーターについては、触れる機会がなかった。
ヒルダガードとピーターが元夫婦だったことは旅には関係ないから、紹介する必要はないとは思う。だが、私たち夫婦は二人を知っているし、現在までのヒルダガードとの交流が続いている部分に、ピーターの存在は無視できない。個人的ではあるけれど、ある夫婦の話として書こう。
いわゆる「アメリカは・・・」という情報、例えば、結婚・離婚状況や、家族・夫婦・子どもの自立、宗教や政治・経済、その他は、多くはステレオタイプで、「そうかなあ・・・。」と思うことがしばしばある。
100人いれば100通りのアメリカ人の姿があるのだから、自分の見聞にも偏りがあることは承知しているが、アメリカ人の知人・友人や家族を通して、この国の具体的なことを知り、理解することも多い。それが、一般論としてのアメリカ理解にも関係し、納得する機会にもなっている。

そんな気持ちから、旅の実現に至ったヒルダガードとの関わりを過去に遡って、補足し、アメリカの家族の姿、人間関係の背景を書いて、締めくくりたい。
すでに触れて重複する部分は、読み飛ばしていただければと思う。

ヒルダガードの夫のピーターは、高校生のときに交換留学生としてアメリカに来た。彼はドイツの大学卒業後に、アメリカで働きたいと考えていたという。
ヒルダガードと結婚直後に、アメリカに職が決まったので渡米し、その後アメリカ市民権をとった。だから、彼ら夫婦ドイツ系アメリカ人1世だ。

1974年初冬、ピーターは国立研究所(BNL)に転職した。
ちょうどその頃、私の夫が同じ国立研究所に招聘され、家族揃って渡米し、研究所の一角にある外国人用の家族住宅に住んだ。

到着後まもなく、初めて住宅付設のコインランドリーへ出かけた私が、その利用に手間取っていたときに、親切に声をかけてくれた女性がヒルダガードだった。
研究所の住宅には、アメリカ人は半年間の短期居住が認められ、その間に研究所外に住居を探すことになっていたから、ヒルダガードの家族は、偶々住んでいたのだ。コインランドリーが、私たちの運命的なと言ってもいい、出会いの場所となった。縁は異なもの、味なものだ”と、つくづく思う。
その後、ロングアイランドとドイツのヒルダガードの家、日本のわが家を、お互いに訪問したり、旅行を一緒にしたり、家族ぐるみでずっと交流が続いているのだから。

ヒルダガードが、最近になって話した言葉が忘れられない。
「新しい土地に住み始めるって、大変なことなのね。私たちは結婚間もなく、ドイツからアメリカへ来て、そのときに親切にしてもらったことは、よーく覚えている。その家族とは、今も大事なお友だちよ。うれしかった。だから私も、新参者(new  commer)には同じようにしたいと思ったの・・・」と、ポツリと話したのだ。

ヒルダガードの娘アレキサンドラと息子トーマスは、わが家の息子たちと同世代だから、よく戯れ、遊んだ。子どもたちが林の探検に出かけ、ポイズン・アイビーに触れてひどくかぶれ、揃って病院へ駆けつけたこともある。

わが家の次男は、フィラデルフィアにある大学院に留学したが、感謝祭やクリスマスには、ロングアイランドのヒルダガードの家で過ごした。彼女はアメリカのお母さんだった。

1986年夏、旅の途中にニューヨークへ立ち寄った私は、ロングアイランドまで行く時間がなかった。ヒルダガードはわざわざニューヨークへ来てくれ、ロックフェラー・センターのカフェで会った。
ブランチをとりながら、彼女は子どもの教育を巡ってピーターと対立した顛末と、別居して自立する決意を語った。思いがけず私は、「どうして結婚したの?」と聞いた。
ヒルダガードは、遠くを見やる眼差しで話した。
「若い頃の私は、物事を決断するのに自信がなかった。ピーターは、そんな私を励ましてくれ、頼りになった。とても魅力的だったの。アレキサンドラの進学問題さえなければ、別れなかったと思う・・・」と。
その日の光景が鮮やかに蘇ってくる。大きいパラソルが影を広げ、テーブルの足元に雀が群がり、にぎやかに囀りながらパン屑をついばんでいた。

ピーターの家族は、第二次世界大戦が終わった頃、ダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)近郊に住んでいたという。父親は戦地から戻らず、ソ連占領を避けた一家が難民として西へ逃がれ、ハンブルクに辿り着いた。10代半ばのピーターが中心となって、母親と妹を励ましながらの脱出だった。

ヒルダガードとピーターが離婚した後も、ヒルダガードは義妹だったウーゾラと仲の良い友人であり、お互いに訪問し、旅をしている。
2007年春、ヒルダガードと私たち夫婦は北ドイツ方面(ドレスデンやライプティッヒなど)へ旅をしたが、そのときにハンブルクに住んでいるウーゾラが合流した。
私たちはピーターを知っているから、彼が話題になることに気遣いしたが、全くの杞憂だった。

そのとき、ウーゾラがピーターについて語ったのだ。
「西への脱出で、ピーターの責任と行動は、その後の彼の人生にとって、重要な体験だったの。ドイツ人男性の取るべき責任を知ったのね。でも、時代が変わる。それを深く考えていなかったの・・・」と。
ヒルダガードとウーゾラの睦まじい姿を眺めながら、お互いに立場の違いを理解して、個人としての関係を大事にしている素晴らしさに、共感した。

さて前後するが、ヒルダガードの子どものことも少々触れたい。
聡明な娘のアレキサンドラは、高校生の頃、全米の高校生科学コンテストで2位になった。有力な大学から奨学金を出すのでぜひ入学をと誘いがあり、アレキサンドラも希望した。けれども、ドイツ人の父親は、女の子は地元の大学で十分だと主張し、アレキサンドラと決定的に対立、娘が家を出た。

アメリカ生まれの子ども、親子の世代間ギャップに加え、仕事中心で周囲の動きに無頓着なピーターと、時代の変化に対して柔軟性のあるヒルダガード。
結局、家族とは何かということで意見が合わずに、ヒルダガードは娘の希望を叶えさせたいと、ピーターとの別居を決意した。
ピーターは最後まで、「26年の結婚生活を解消して、どうして別居するのかわからない・・・」と言いながら、家を出た。彼は研究所を退職した後にフロリダに住み、ヨットを楽しむ日々だという。

ヒルダガードは子どもたちを引き取り、ピーターからの経済的な援助を一切受けずに、子どもを育てた。彼女はドイツから住宅資材を仕入れ、アメリカで建設して販売する新しい事業を始めた。住宅産業が盛んな頃だったので、うまくいったらしい。それでも、奨学金を得て医学部に進学した娘の教育費のために、ドイツで遺産相続した土地の一部を売っている。
こうしてヒルダガードは親の責任を果たした。その様子を眺めながら、私たち夫婦は彼女の逞しさに共感し、特に女性の立場の大きな変化に、声援を送った。

現在、アレキサンドラはアイオワ大学医学部の教授で、夫のカールも同僚の医者だ。彼らには3人の子どもがいる。ヒルダガードが「アレキサンドラは幸せよ。理解のある子煩悩な夫だから・・・」と言う表情に、彼女の子育ての苦労が報われたと感じた。

息子のトーマスは、母親の苦労を見ていたから、高校卒業後に海兵隊に入り、奨学金を得て大学に進学した。卒業後はシリコンバレーのIT関係の仕事に付き、現在は核関連の国立研究所で働いている。

ヒルダガードと私たち夫婦は同世代だから、国は違っても同じ時代を生きてきた親近感がある。話し出せば切りがないほど、時代の体験には共通するものがある。
日本もドイツも戦争に負け、そこから復興して現在の姿になった。それゆえに、また昔の姿に戻るのは最悪だという意識を共有している。

さらに、ヒルダガードは人の繋がりを大切にする。
ドイツに出かけたときにも、ロングアイランドでも、「紹介したい人がいるのよ」と言い、古くからの彼女の仲間の集まりに誘ってくれた。私たちが単なる旅行者ではなく、訪れた土地に友人ができ、さらに類を呼ぶ交流が続いているのは、彼女のお陰だ。

また、お互いに好奇心旺盛で、文学・美術・音楽・演劇に興味があるから、メールで情報交換をし、会えば延々と話が弾む。
今回の旅にも、「オー・ド・ビーを飲みながら話すことを、メモしてくること」と、メールで注文が届いた。彼女流の冗談だけれど・・・。

彼女と出会ったときから不思議にウマがあった。こうして続いている縁がわが家の生活を彩り、豊かにしていることの不思議さ。今回のニューヨークへの旅で、改めて感じている。

夫のHP本館の「こんな旅をしてきた」の項目で、(2007年4月〜5月  ドイツ)と、(2008年4月 ラインクルーズ)には、ヒルダガードの関わりを書いている。
合わせてご覧いただければ、嬉しい。

以上(完)

[NYへの旅] 28. 無事に帰国

 3月28日(木)〜29日(金)〜30日(土)

ニューヨーク時間の18時頃、JFKを離陸。
19時40分頃、ドリンク・サービスの後食事。
21時。食べている最中から眠気に襲われ、本格的におやすみなさい。
全ての日程が終わって気分が緩み、流石に疲れた。途中で1度目覚めたが、翌朝の5時半頃まで熟睡した。なんと8時間以上もスヤスヤ!

パネル上の飛行ルートを眺めると、紋別上空辺りだ。
ここで、日本時間に変更すると夕刻18時半頃。日本では夜を迎えたばかり。
もう1晩寝ることになる!

窓から眼下を見下ろすと雲海が広がっている。パネルの地図と睨めっこしながら窓の外を眺めると、高度が低くなっているのか、ときどき、電灯がきらめき始めている。それからの時間の経過は早かった。
石巻(19時50分)、相馬(19時55分)、いわき(20時)、日立(20時5分)、水戸(20時10分)。やがて、九十九里海岸から大回りするようにして、成田空港に真っ直ぐ向かっている。
3月29日(金)20時30分頃成田空港着。春休みだからか、旅行する人が多い。
入国審査に手間取り、荷物の引き取りに時間がかかり、帰国の電話で長くなり、後泊する空港近くのヴュー・ホテルへチェック・インしたのは10時近く。

3月30日(土)
早々と目覚めたので、PCで朝日新聞を読み、8時には、NHK朝ドラ「ごちそうさん」の最終回を観た。朝食は久しぶりの日本食で、味噌汁、海苔、浅漬け、蒲鉾、アジの干物など、日本の馴染んだ味に、「帰った・・・」と落ち着いた気分になった。「美味しいね。やっぱり日本人だ」と。

10時過ぎにホテルをチェック・アウトし、夫の運転で水戸の自宅へ。
何時の間にか霧雨が降りだしている。「春雨じゃ。濡れて行こう」の風情で、悪くない。
黄金色の菜の花が遠くまで広がっている。「菜の花畑に入りし月よ。見渡す限り・・・」のメロディを思い出す。日本には、昔かららこんな風景があったのだ。春ならではの風景が嬉しい。
道沿いの神社や集落にある巨木の桜が、満開の花で覆われている。農家の庭にも桜が咲き誇っている。「ギリギリセーフでお花見に間に合って、よかったわ」と、季節の幸運を感じ、日本の春を堪能する。

ところが、何回見ても呆れる風景が出てくる。辺りの田園や小さな丘陵を見下ろして、広大な墓地の所在を示す「巨大な観音像」が立っている。いただけない。「どんな気持ちなんだろう」と、造営した当事者の無神経さに呆れ、こんなものに護られる墓地そのものまでが疎ましくなる。いつだったか、夜のドライブをしたとき、暗闇に浮かぶ巨像が恐怖心を煽り、不気味だった。成田空港と水戸の自宅を結ぶ路線で、嫌いな部分だ。

自宅近くのスーパーマーケットに寄って魚や豆腐を買うと、非日常から現実の日常生活へ戻った。

[NYへの旅] 27. さようなら、ニューヨーク

13日目  3月28日(木)
一夜明けた午後、全ての滞在の日程を終えて、日本への帰国の途についた。
家族揃って初めての外国体験をしたロングアイランドを訪れ、ヒルダガードとの再会を果たした。さまざまな追憶を胸に、想い出の地を懐かしみ、友人知人と語り、さらに新しい事物にも触れて、充実した毎日だった。もう思い残すことはない。

ホテルからJFKまではリムジンを利用したが、他の乗客はいなかった。
運転手は人懐っこくて、まるで個人ガイドよろしく、空港までの観光スポットを説明してくれた。
それに、彼はセブンスデイ・アドベンティスト(アメリカの新興キリスト教のひとつ)の信者で、飲酒や喫煙はしない、コーヒーも飲まない、豚肉は食べない、土曜日は働かないなど、信仰のあれこれを話した。

搭乗までの時間の余裕をみていたので、空港では荷物を預けて身軽になった後、観光客をウオッチング。
面白かったのは、地方からの中高生の団体だ。
集合時間になったのか、三々五々集まってくる。先生が何やら指示しているが、賑やかで、言うことをまともに聞いていない。徹底できない指示にも問題ありだなあ・・・。
そのうちに、次々に名前を呼び出すアナウンスが響く。
傍にいる年配の男性教師が、興味津々で様子を眺めている私たちに気づいて、「これからスペインのバロセロナへの修学旅行に出かけるんです・・・」と話しかけてくる。
何度も同じ名前の呼び出しが繰り返されている。まだ飛行機に乗っていないのに、引率はさぞ大変だろう。「無事に修学旅行が終わりますように・・・」と、元高校教師は切実に思う。
かと思えば、仲良しのカップルが抱き合って、周りのことなど眼中にない。

搭乗手続きのチェックは、とてもとてもの二乗の猛烈な厳しさ。X線はもちろん、靴を脱ぎ、念入りなボディタッチなど、ピリピリする空気が漂い、テロ事件の警戒で人間不信を丸出しにしている。そんな警戒をしなくては、国家としての体面と安全が保てないのだと不幸な一面を痛感。現在のアメリカが抱える政治・外交の問題と国家の本音を垣間見る。
アメリカ人の友人・知人は素晴らしい仲間だと親近感を抱いているのに、個人を超えた問題は厳しい。
「アメリカへの旅は、最後になるだろうな・・・」と思いながら、搭乗した。

[NYへの旅] 26. ハイライン・ウオーキング

3月27日(水) その4
ニューヨーク観光の最後はハイライン・ウオーキング。
今度の旅で会った友人の多くが、目を輝かせながら、異口同音に話した。
「ハイライン・ウオーキングは絶対にお勧めよ。十分に楽しめるから、ニューヨークに来たら出かけなくっちゃ・・・」と。アメリカ人の底抜けのホスピタリティを感じながら、「こんなにまでニューヨークっ子を虜にする魅力の場所には、出かけなければなるまい・・・」と、旅の最後に予定に入れた。

地上9メートルの高さだから「ハイライン」、そこを歩くので「ハイライン・ウオーキング」と呼んで、新しい観光名所になっている。

およそ80年前(人間なら傘寿!)の1934年に、ハドソン川に沿って、貨物専用の高架鉄道が開通した。川と陸を結ぶ物流を担って重要な路線だったが、車の普及で物資輸送の役割が終わり、廃止された。
アメリカの発展を担った地域を走り、ニューヨークの歴史を体現した鉄道だったから、消滅を惜しんだ有志が、高架鉄道の保存を呼びかけた。
こうして、2009年に、12丁目から30丁目の間に、人が利用するハイライン(観光ガイドブックには、”空中庭園”と書いているものもある)が出現した。

歩き始めてから間もなく、知恵を出しあって様々なアイディアを出し、考え抜かれてつくられた遊歩道に感心した。「素晴らしい!」と、何度も呟きながら・・・。
セントラル・パークの緑や空間とは、規模からして比較できないけれど、都会の自然がもたらすゆとりやあたたかさは同じだと感じた。

列車のための地上9メートルの高架をそのまま利用した道は、標準的なビルの3階の高さになる。街路を歩くのとは異なって、視界が拡がって面白い。ところどころ、目の前に立ちはだかるビルが途切れ、碁盤の目のように区画された南北の通りが、ずーっと見渡せる。期せずして、ニューヨークの市街が俯瞰できて、うれしくなる。
かと思えば、柵から身を乗り出して真下を見ると、かなり大きな木造の廃屋がある。貨物鉄道の衰退とともに、時代の進展についていけず、打ち捨てられていった暮らしがあったのだろう。

軌道を保護するための植樹が、遊歩道の趣を演出している。場所によって異なった樹木が植えられ、樹高もさまざまだから、限られた軌道跡の変化は豊かだ。

ハドソン川を見下ろす地点に佇むと、河畔のベンチに、肩を抱き合うアベックが座っている。タイミングよく、観光客を乗せたフェリーが通り過ぎていく。

おや、おや。ちょっと広い場所で、地面に寝そべって昼寝をしている若者たち。
枕にしている荷物から推測すると、バックパッカーらしい。
その近くでは、日向ぼっこをしながらアイスクリームを舐めている少女グループ。

ヴァイオリンを弾く女性とアコーディオンを奏でる男性は知り合い同士か。聴衆の反応を確かめながら、サービス精神たっぷりで、ご本人たちも楽しんでいる風情だ。

ジャグリングの技を披露し、子供たちの歓声を浴びているピエロ姿の若い男性。

芝生の上に売り物らしい絵画を置いた傍らで、読書をしている人たち。

快晴だった空にときおり雲が拡がって寒くなった。タンクトップ姿でジョギングをしながら駆け抜けて行く男女の二人連れ。

ハイラインができる前は列車が走っていたから、沿線の建物を覗く者は、ほとんどいなかったに違いない。今は、すぐ前に窓が並んでいるから、覗かれたり、覗いたり。
「どうぞご覧ください」とばかり、窓を開け放して、部屋の内部の装飾を見せている家。どんな人がいるのかと立ち止まって覗くと、笑顔の老人が座っている。「退屈を紛らせるこんな遊び!をしている」と思いながら、手を振り返す。
しばらく歩くと、人が窓にぶら下がっている。「危ない!」とドキリとしたが、巧妙に作られた人間と同じ大きさの人形だった。驚かせるのを面白がっている感じだ。また、「Welcome」のプレートを掲げた人形が、窓枠に座っている。手をのばせば、窓に届くような距離だが、まさか、ここから訪問する者はいる? いない? 
 
カーテンをしっかりおろし、閉鎖している家。住人には、有難迷惑のハイラインなのだろうか。

考え抜かれたアイディアでいろいろな表情を見せる遊歩道は、古い歴史を活かし、それを利用する人間を大事にしている。ニューヨークが生み出した斬新な施設としての印象が新鮮だったし、楽しめたし、得難い経験だった。

[NYへの旅] 25. MPDとチェルシー・マーケット

3月27日(水) その3
午前中のグラウンド・ゼロの観光は重かった。
「気分転換をしたいね」と、地下鉄のEラインに乗り、4つ目の14ストリートまで行く。この辺りで昼食を済ませ、午後はハイライン・ウオーキングをする計画だ。

ニューヨークの精肉加工場が集まっていた一画は、その名もずばり「Meat Packing District=MPD」と呼ばれている。今はすっかり変わって、新進気鋭のデザイナーがブティックを開き、ファッションの最先端を牽引しているらしい。ニューヨークに住む人はじめ、観光客も集まっている地区だという。お洒落な店を覗きながらブラブラ歩きもよかろう。
なるほど、以前は工場だったことを思い出させる大きなコンクリートの建物が改装され、衣類、バッグ、靴などの、人目をひく綺麗な店が並んでいる。
でもね。それが一番の問題なのだが、スタイルといい、色彩といい、それにサイズにしても、およそわがお年頃とは無縁のものばかり。
初めは好奇心を満たす何かを期待して歩き始めたが、まもなく「残念だけど、面白くない・・・」と諦めると、夫もホッとした。

「そろそろ食事を考えよう」と、レストランを探しながら、近くにある「チェルシー・マーケット」に入った。
天井が高くて、明るい。旅先のどこの国でも、必ず行きたいバザールに共通している。都会の市場だからごちゃごちゃしていないが、人が群がって、人間臭い雰囲気だ。
生鮮野菜と果物、肉・魚・チーズやハム類の加工食品、花卉や民族固有の香辛料や雑貨類もある。住民の胃袋を満たす品々を眺め、人々の食生活について想像する。
「どうやって食べるの?」と聞くと、丁寧に教えてくれる店のおばさん。
興味のある店を見て回りながら、お土産になる食品を物色したり。
さっきまでのもやもやしていた気分が和んでくる。日常生活に直結している品々、特に食料品は、何を食べているか、どんな料理をするのかと、人々の暮らしを想像させ、生きることを考えさせる。
「これ、いいねえ・・・」と立ち止まっては、好奇心を募らせた。

マーケットの周囲に食べ物屋が並んでいて、観光客が群れている。「ここで昼食にしよう」と覗き込み、久しぶりに中華料理にした。
一皿の量が多いし、少々油っぽく感じられて、食欲がない。こんな時、夫は元気おじさんの面目躍如で、「味は美味しいよ。油っこいなんてことない」と言う。
ニューヨークに移動してから欲張った観光をし、今日は旅の最終日だ。身体は疲れを感じているから、「胃袋もお疲れ・・・」だったのだろう。

グラウンド.ゼロを訪れて感じたこと


[NYへの旅] 24. 3月27日(水)その2
「サバイバー・ツリー=生還の木(マメナシの木)」が1本。サウス・プールの西側に枝を広げている。
1970年代に旧世界貿易センターの広場に植えられ、9.11後に、グラウンド・ゼロの瓦礫の中から焼け焦げた切り株となって発見された。ニューヨーク市の公園に移され、奇跡的に芽を吹き、新しい枝が伸び、花が咲くまでになった。ところが、2010年3月の暴風雨で根元から倒れてしまい、それでもしぶとく生き延びて、その年の12月にグラウンド・ゼロの敷地に戻された。
こうして、テロにも負けず、嵐にも倒れず、9・11事件の歴史を記憶する「生存と復活」のシンボルの木となった。

グラウンド・ゼロにあるサバイバー・ツリー以外の樹木は、「スワンプ・ホワイトオーク(ブナ科)」で、まだ若い。同時テロの標的になった3ヵ所(注)の攻撃地点から半径800キロメートル圏内にある苗床から選ばれて、グラウンド・ゼロの全施設が完成するまでに、400本以上が植えられる予定だという。

(注)攻撃の標的になった3カ所・・・①ニューヨークの世界貿易センターのツインタワー、②ヴァージニア州アーリントンにあるペンタゴン=国防総省本庁舎、③ペンシルバニア州のシャンクスヴィル

ニューヨークの新しい観光地となっているグラウンド・ゼロ。
刻々とタワーが崩壊し、粉塵を上げていたテレビ中継を、再び思い出した。
テレビに釘付けになったあの日。この世の現実ではないと思いたかったあの日。
テロから10年余の時間が過ぎ、ここを訪れる人々にさまざまな感慨をもたらす空間に変わっている。

ユニフォーム姿のボーイ・スカウトやガール・スカウト、あるいは在郷軍人のグループ。遠くの州からやってきた観光客の男女は、お揃いの真っ赤なジャンパーを着ている。中には星条旗を手にする人たちもいる。この日、団体が目立ったのは偶々だったのだろうか。世界中のさまざまな民族衣装を着た観光客も多い。

ここを訪れた人々は、男女を問わず、老いも若きも、なにかを感じているに違いない。9.11テロ事件を境にして、ブッシュのアメリカ政府は、イスラム勢力の中東地域への強行姿勢をあらわにした。未だに、空爆やテロの応酬が続き、混沌とした争いに解決はみえない。

グラウンド・ゼロの記念碑は犠牲者への追悼の気持ちをあらわす施設として建造されたが、確かにそうだけれど、土台には反アルカイダ、反イスラムの立場で、断固として闘うことを宣言しているのではないか。団体の観光客の姿を眺めながら、アメリカの世論の一端を垣間見た気がした。愛国心を高揚する観光地の出現だと、そんな深読みが必要ないことを思いながら・・・。
これから、世界はどうなって行くのだろうかという虚しさが、胸に残った。
「テロは許さない」と言う一方で、軍事的な動きが活発になっている。報復の連鎖がますますひどくなっている。

[NYへの旅] 23.国立9.11記念公園ん(グラウンド.ゼロ=爆心地)を訪ねる

3月27日(水)その1

何人もの人から、アドヴァイスがあった。「グラウンド・ゼロに行くつもりなら、電話で予約した方がいいよ。とても待たされるから・・・」と。
滞在中の予定は、友人・知人が絡むのなら予め時間や場所を決めるが、場所が目当てなら逃げるわけでもなし。何とかなるさ精神で臨機応変に行動する夫は「混んだって大丈夫だよ」と言う。「MoMAのような混雑だったらどうするの?」と気にする妻に、「心配性のオクさんを持つと、大変だよ」と笑い、妥協して早めにホテルを出ることにした。
今までの経験で予約が有効だったのは、まあ半々と言ったところだろうか。

地下鉄のレキシントン駅でダウンタウン方面のE線に乗ると、黒人やアジア系の乗客が目立つ。アメリカ人の住居の住み分けとコミュニティが、路線の利用者に反映している。

朝が早かったので、拍子抜けするほどグラウンド・ゼロ入場の列は空いていた
もっとも、リュック・サックやバック類の検査は、空港のセキュリティ・チェックと同じ厳重体制で行われ、そこで時間がかかった。後から来て、待たされることなくチェックを終えたグループは、予約していたのだろう。これが友人たちの親切な助言だったのだとわかった。

検査を終えると、多くの言語のパンフレットが並ぶ棚から、資料を取り上げた。それを読んで、グラウンド・ゼロ建設の趣旨を理解した。
要約すると、以下になる。
「国立9.11記念碑」は、2001年9月11日の同時多発テロと、1993年2月26日の爆破事件で亡くなった2983人を追悼するために建設された。犠牲者のうち400人以上は初動レスキュー隊員だった。
犠牲者の出た地を神聖な場所として、尊厳を保つために計画された。
③他人を救うために、自らの命を捧げた人々の勇気と他人への思いやりの心を称え、9. 11直後にうまれた絆と団結心を共有できる場所にする。

テロ事件から10年の2011年9月、「9.11記念碑」の一部が完成し、ふたつのプールと博物館の部分だけ公開された。その周辺ではヘルメット姿のたくさんの労働者が働いていて、大規模な建設工事が進行中。公園としてのグラウンド・ゼロの完成は、ずっと先になるのだろう。

ツイン・タワーが聳えたっていた世界貿易センターの跡地を見回すと、テロ事件前に林立していたビルの敷地は、意外に広い。太陽がいっぱい降り注いでいる。
帰国後に調べると、1966から77年にかけて、6・5ヘクタールの敷地に6棟のビルが建設されている。ニューヨークにある建造物の中では、比較的歴史が浅いことを知った。周囲には、年期が入った古いビルが並んでいる。中にはツイン・タワー崩壊のあおりで破損の激しい建物が、当時の姿をとどめたままで建っている。

東西ふたつのプールは、ツイン・タワーが建っていた場所に造られ、段差(9メートル)を利用した滝からは、陽の光を受けてキラキラ輝やく水が流れ落ち、間もなくプール中央の空洞に注ぎ込んでいく。まるで奈落に吸い込まれるように見える水の流れが、地獄を想起させる。ビルが崩壊していった姿を現しているのだろうか。

四角いプールの周辺は青銅の壁で造られ、やや斜めになっている上面に、犠牲者の名前が刻まれている。漢字の名前を所々に見つけ、富士銀行ニューヨーク支店勤務の24人だと気づいた。

その頃、大学時代の友人の娘さんが、富士銀行勤務の人と結婚してニューヨークに住んでいたが、テロ事件で未亡人になった。まだ30歳代の若さだった。悲嘆にくれる母親の姿に、言葉を失った。
ここに名前を連ねている人々と彼らの家族・縁者は、普通の暮らしをしていたのに・・・。そう。テロは傍若無人で人の命を抹殺したのだ。

さらに思い出す。同時中継された映像は、衝撃だった。
黒い煙が立ち上り、粉塵をあげながらビルの倒壊がどんどん進んでいく。
快晴の空を背景に、バラバラと降っているビルの資材、勢いよく落ちて行く人。
頭から血を流しながら、口を覆いながら、非常階段を降りてくる人々。
地上では、警察官が必死になって逃げる人をガイドしている。
ホースを抱えて階段を上っていく消防士たち。
無線機の飛び交う雑音が聞こえる。
「ア、ア・・・」「アレーッ・・・」「ウワーッ・・・」。言葉にならない声をあげていた。

その日、夫は体調が振るわず、ベッドで休息していた。
「大変よ!。起きて!。ニューヨークの貿易センターのツイン・タワーに、アルカイダのテロリストが飛行機で突っ込んだのよ。見て!、早く!・・・。」と、大声をあげる私。
「映画のシーンじゃないのかい」と、寝ぼけている夫。
「現実に起こっているのよ。リアルタイムで中継されている映像・・・」という声に、「本当かい?」と、夫は起き出したのだった。

2014年11月16日日曜日

[NYへの旅] 22 . ミュージカル鑑賞

11日目  3月26日(火)その2 

ロングアイランドに滞在中、ヒルダガードが「人気のミュージカルだし、出演している俳優は演技の質が高いし・・・」と、いくつか候補を挙げたので、インターネットで検索した。滞在日程を考慮するといずれも満席で、なかなか決まらない。1時間以上かかって、やっと「Nice Work if You Can Get It」のチケットを入手。ミュージカルは、言葉がわからなくても、喜怒哀楽の感情表現は万国共通で、演技の流れを想像しながら理解できるし、歌あり、踊りありで楽しめるからいい。

ミュージカルの舞台は、1920年代の禁酒法が盛んだった時代。
主人公のジミーは、いい加減な性格の金持ちのボンボン。結婚を控え、独身最後の夜を楽しもうとキャバレーへ出かけて酔っ払った。そこで元気な女性に会い、帰り際に意気投合してさらに大いに盛り上がり、夜が更けた。ところが、彼女は酒の密輸入と密売をするギャング・グループの1員だった・・・。
ということから、てんやわんやの騒ぎが展開する。

ジミーは女性から頼まれて、父親の屋敷の一角にある倉庫に密売酒を隠す羽目になる。やがて、ジミーは密売ギャング・グループの1員と間違われて、警察に踏み込まれる。

意気投合した女性と浮気をしている現場は凄まじい色気の世界だし(役者ながらよくやるよ)、そこに許嫁が現れ、浮気を否定するため辻褄合わせに苦労したり。
気が弱くいい加減な男ジミーが、家族・親戚・ご近所さん・ギャング・警察官を巻き込んで、受難が途切れることなく続いていく。

軽快な舞台展開に笑い転げながら、大いに盛り上がった。あっという間に時間が過ぎ、眠くなる暇なんてなく、楽しかった。

このミュージカルは、2012年、トニー賞の10部門にノミネートされたコメディの人気作品で、ジミー役はベテラン俳優のマシュー・プロティック。「さすが」と唸ったのだが、この役には話題が付け加わった。

というのは、間もなく退任する予定のニューヨーク市長ミシェル・R、ブルームバーグ氏が、途中ジミー役で登場して喝采を浴びたのだ。キャバレーの女性陣に囲まれて気持ちよく演技し、歌を披露している様子が、新聞の文化面に写真と共に出た。市長として市民に人気があるのも、頷ける。東京都知事がミュージカルの主役になるなんて到底考えられないし、その気にもならないだろうから、驚き、感心した。
余談だが、ブルームバーグ市長の月給は、月額1ドル也。IT関係の仕事で成功している億万長者で、市民の税金から給料をもらわなくてもいいんだとか。どこかの政治家が、いい加減な名目で政治活動費を我がものにしているのとは、大違いだ!。

それともうひとつ。
舞台いっぱいに新鮮な美声を響かせ、キビキビした演技で拍手喝采を浴びた少年(実際は女性ソプラノ)が目立った。このミュージカルで6人のコーラス・ガールの1人として出演していたキャメロン・アダムスで、その日急病で休んだベテラン女優の代役として登場したのだ。彼女はすでにいくつかの演劇で注目を集め、注目されていたらしい。ブロードウェイの役者が様々なチャンスを狙い、経験を重ねながらベテランに育っていく。いつ出演できるかわからないのに、ぶっつけで役をこなす普段の努力の一端を垣間見たし、彼女が歌い終わった後にいつまでも拍手が止まない観客の暖かい声援が心地よかった。「こうして役者が育っていく。観客が役者を育てるのだ」と、ミュージカルの本場の空気を感じた。満足の一夜だった。

[NYへの旅] 21. 気ままなニューヨークの街歩き

11日目  3月26日(火)その1

今夜、ミュージカル鑑賞を控えているが、日中は街歩きをしようと相談。
特別に訪れたい場所があるわけではない。かつて訪れた場所へ行き、あるいは人々の動きを感じ、ニューヨークの空気を味わいたいからだ。ホテルから五番街に出て北へ歩き、セントラルパークを目指すことにする。

トランプ・タワーに入り、ピンクの大理石の壁面に流れる滝を見上げながら、贅沢な空間を確かめた。トランプ・タワーは30年ほど前に建設されたが、その頃すでにソニー・プラザが新しいニューヨークの名所になっていた。建築設計の段階で地上権を設定し、公共のためのゆとり空間を整えていたのだ。こうした息抜きの空間を確保すると、税制上の優遇措置があると聞いて感心したのだったが、すでにソニー・プラザの影はなく、プラザ・ホテルになっていた。地下のプラザ・フードホールの賑わいを眺めながら「昔の光、今いずこ・・・」のメロディを思わず呟いた。電気業界の熾烈な競争の中で針路を誤り、かつてのソニーの勢いがなくなったことを実感。「日本を代表する企業だったのに・・・」と、複雑な気持ちが去来した。

セントラルパークに入った。
木々は冬枯れていたが、わずかに芽がふくらみ始めている。まだ寒い時期だから、観光客はほとんどいない。
ときどき犬の散歩をしている人と行き交う。意外に若い人が多く、犬連れの顔馴染みと出会うと、散歩そっち抜けでおしゃべりに興じている。犬同志は飼主を見上げ、おとなしい。「忠犬ハチ公だわ」といじらしい。「ひょっとしたら、犬が取り持つ男女の出会いの場かも・・・」などと想像し、われながらおばさん的発想だと苦笑する。

枯葉を咥えたリスが目の前を横切り、大急ぎで木の上に駆け上って行く。迷うことなく慣れた動きで登る木がわかるのだから、エライ!
手元にある器械を手動操作する小型のヨットが、池に漂っている。誰が操作しているのかと辺りを探すが、姿はない。ヨットの近くで、アヒルが「グワッ、グワッ・・・」と鳴きわめいている。縄張り侵害だと抗議しているのだろうか。
岸辺のベンチで、男性の老人が新聞を広げている。時折り前を歩いて行く人を、眼鏡越しの上目遣いで眺めている。日向ぼっこをしながら、朝の日課だろう。

歩き疲れ、「ボート・ハウス・レストラン」で、カプチーノとフルーツ盛り合わせを頼んで小休息した後、セントラルパークからマジソン街を南へ歩く。

軒を連ねている高級店、ラルフローレン、ランバン、グッチ、シャネルなどのウインドウを覗く。売値の桁が違うし、店の入り口にはドア・ボーイが控えていてものものしい。懐を気にする者には所詮は縁のない店だし、シュウカツ(終活)とやらで身辺整理の必要があるお年頃だから、グッと欲望を抑え込む。夫は、首を振る妻を見ながら「欲しい物があったら、買うことは必要さ」と笑い、「安上がりのオクさん」と宣う。因みに、 旅先では夫の方が買い物の度胸がいいのが、わが家流だ。

ホテル近くのデリカテッセンでビーフ・サンドイッチを買い、部屋で寛ぎながら昼食。食欲がないけれど、3度の食事をきちんと食べないと落ち着かない夫に付き合う。
しばしの休息後、予約した夕食のレストランはブロードウェイの48wにあるので、「その前にブロードウェイ界隈を歩こう」と、再び外出することにした

家族でアメリカ生活を始めたとき、必要な品々を買い求めた百貨店Macy'sへ入り、ぐるっと一回り。「このコーナーでアイロン台を買った。毛布を買ったのもこの店だった・・」と懐かしい。

大勢の観光客が土産物店に群れている。安物の土産店が多く、「こんなの貰ったって、どうしようもないないわ」と思う。街の空気を斜に感ずるのは、自分の年齢を認識することだ。若い頃は何にでも興味を持った街歩きだったっけ。エネルギーが溢れる雰囲気に圧倒されながら、タイムズ・スクエアの雑踏を歩く。

大きなスクリーンの前で、手を振ったり、笑ったり、ジャンプしたり。「何をしているのだろう・・・」と近づくと、スクリーンに好奇心丸出しの自分の姿があった。「あれ、まあ・・・」と言いながら、夫が構えるスクリーンのスナップ写真に収まる。旅先では知っている人がいないのは有難い・・・。

予約したレストラン「La  Masseria」に、少々早く着いた。プレシアターの食事が供されるので知られ、すでに大半のテーブルに客が座って、アペリティフを楽しんでいる。彼らもブロードウェイのいずれかの劇場に出かける人たちだろう。

メニューを眺めていると、ウエイターは「いずれも大皿で、二人分になります」とアドバイスしてくれた。舌平目、パスタ(ラビオリ)、サラダを一皿づつと赤ワインを注文。
「アルコールが入ると、観劇中に眠くなるおそれありだけど、”料理に対して失礼だから・・・”(夫の常套句!)」と。何が理由であれ、夫が飲まない方が心配になる!
魚料理がお薦めのレストランで、舌平目の切り身が香草入りバターでソティーされ、あっさりとした味付けが美味しかった。たっぷりの量で堪能し、飲まなくても満腹で眠気を誘う感じになった。

入るときには気づかなかったが、レストランの隣りの広場には、9、11テロ事件(2001年)の犠牲者記念碑があった。ツイン・タワーの崩壊で、この地区の消防士が救出作業中に犠牲になったのだ。刻まれている犠牲者の名前を確かめながら、この事件以降の世界のテロの数々を思い出した。軍事的攻撃と報復を繰り返している世界状況は、かえって深刻になっている・・・。

2014年11月15日土曜日

[NYへの旅] 20.MoMA(近代美術館)へ

10日目  3月25日(月)

ロングアイランドでは多彩な出来事の連続で、自覚していなかったがいささか緊張したらしい。2人だけになったら気が抜けてしまった。
今朝、目覚めると8時過ぎ。「こ〜れは寝過ぎた、しくじったあ〜」と鼻歌交じりで起き出すが、何も慌てることはない。熟睡して、気分はすこぶる爽快だ。

ゆっくりと朝食をし、ホテルのインターネット環境がよいので、午前中は、昨日までに溜まってしまったメールや、ブログを書く。
朝から雨が降ったり止んだりで、夜には雪になるとの予報は、観光には有り難くない。天気の影響のなさそうなMoMAを訪れることにする。

12時半頃、ホテルの受付に鍵を預けると、熟年男性の受付が「昨日のあなた(夫)の抗議を横で眺めていましたよ」とにこやかに言う。だいぶ粘ったからなあ。
滞在中は、他のホテルマンにも顔を覚えられて、何かと話しかけられる。夫は理不尽だと一歩も引かず自己主張をするし、次第に声が大きくなる。これじゃ目立つわけだ。

MoMAの入口には長い行列ができ、混雑している。行列の最後まで辿ると、3人縦列で2ブロックもの長蛇だ。明日は休館日だし、春休み中だし、天気が悪いから美術館にしようと考える観光客が押しかけているらしい。
夫は「これじゃ時間の無駄になるね。日本の美術館と同じ混雑はごめんだよ。昼食を先にしよう。ロックフェラー・センターが近いから、そこのカフェにしよう」と諦めが早い。

ロックフェラー・センター広場は、春から秋にかけては日除けのパラソルが並ぶオープンカフェに、寒い季節にはアイス・スケート・リンクになる。
クリスマスの頃、巨大な樅の木が飾られるのを家族で眺めた・・・。
ずっと以前(40年になる!)、ここでヒルダガードと待ち合わせ、食事をしながら深刻な話もした。
季節毎の数々の追憶が不意に甦り「また訪れることができたなんて・・・」と、感慨深い。

屋内からスケート・リンクが眺められる「ロック・センター・カフェ」に落ち着く。今日のスープ、フィッシュ&チップス、野菜サラダを注文し、ビール(サムエル・アダムス)で乾杯。温かいスープが美味しい。

目の前で、たくさんの人が滑っている。小学生くらいの子どもが半分、10代の若者と熟年・老人があとの半分といったところだろうか。
外側では、バーを掴みながら倒れない努力をしている子どもとコツを教える親たち。その内側には、スイスイと気持ちよく滑ったり、スピードを競っているグループがいる。中央では、格好をつけて得意気にフィギュアを演じているそう若くはない人たちがチラホラ。動きが滑らかでないので「おや、おや・・・」と笑いを誘う。30分単位に入れ替わり、しばしの休憩中に、リンクのコンディションを整えている。

食事を終え、諦めきれないのでもう1度、MoMAに出かけることにした。
行列は短くなっていた。それでも30分待って2時45分に入場し、5時半の閉館まで、お目当ての画家の部屋を大急ぎで辿った。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」が見当たらない。アメリカの原風景や心象を思わせる静かな絵を描いて好きな画家だ。諦めたときに、エスカレーター脇の目立たない場所に移されているのを発見し、その前にぼんやりと座り込んでいる若者を見ながら、「冷遇されているなあ」とがっかり。

閉館時の混雑には驚いた。日本のラッシュアワーの電車の混みようと同じで、館内から一斉に出てくる人々の流れは、自分の意思とは異なる動きになっている。転んだら事故に繋がるだろうとこわい。おまけに、絵の前からなかなか動かない人々を、館員が必死になって追い出している。混雑に巻き込まれ、もがくようにして、やっと外に出た。
 
ホテルに戻ってすぐ、ヒルダガードお薦めのレストラン「La Masseria」に、予約の電話をする。明晩ミュージカルを観るので、プレシアターの夕食を5時にしたいからだ。

7時半、今晩の食事は「SPARKS STEAK HOUSE」に出かけた。
室内に入ると、コロニアル・スタイルのマホガニー色のテーブルと椅子が、目に飛び込む。植民時代を偲ばせる装飾の数々。カジュアルな雰囲気だが格式があるらしく、ネクタイを締め、着飾った婦人が多い。アメリカらしい夜の社交が健在だと感じた。
私たちは、フィレステーキ、ポテトのオーブン焼き、野菜サラダとシンプルな料理を注文。量がたっぷりして持て余したが、久しぶりに美味しい肉を味わった。因みに私は疲れると、無性にビフテキが恋しくなる!

ホテルに戻ったのは10時頃。インターネットをチェックし、1日が終わった。

[NYへの旅] 19. ニューヨークへの移動はバスで

9日目  3月24日(日)
ヒルダガードの車で、リバーヘッドにあるニューヨーク市行のバス停留所へ向かう。およそ15分。移動には絶好の日和で、風がなく暖かい。ロングアイランド滞在中の寒さを置いて行く感じだ。

バス停留所前の道路を挟んだ向かい側に、「テンガー・モール」というショッピング・センターができている。「まとめての買い物ができるので便利よ。クリスマスの準備に、わざわざニューヨークへ出かけなくてもいいし、変化の少ない地域でもこうした施設ができて、暮らしには助かるわ」とヒルダガードが言う。

定刻10時45分ぴったりに、高速バスが来た。最近日本でも普及している目的地別の高速バスと同じだ。ほとんど席はふさがっていたので、夫とは通路を挟んで斜めの席に別々に座った。
乗車後すぐに、車掌(黒人女性)が来て運賃の支払いをした。1人22ドル也。ほとんどの乗客がクレジットカードを利用するから時間がかかる。
車掌は見事な巨体で、やっと通路をすり抜けている。圧倒されて、思わずお尻を見上げてしまった。
集金が終わると車掌の次の仕事は、「マッフィン、チョコレート・バーの他に、水とオレンジジュースを希望者に配ります。無料です」と言う。大きな箱を肩から下げてやって来る。「いる?」と聞く声が可愛い!
オレンジジュースを取り、早速飲むとじつに美味しい。説明を読むと、USA、ブラジル、メキシコ、コスタリカ、ベルゼー産のオレンジを原料にした100%ピュアジュースとある。
隣りに座っている若い女性が、窮屈そうに脚をあげ、踝に絆創膏を貼って手当てを始める。アメリカ人には、若い頃から脚のトラブルを抱えている人が多い気がする。細い脚に対して体重の割合が多いのだろうか。彼女はその予備軍だと想像する。

マンハッタンまで数カ所停車し、乗客が次々と降りて行く。
私たちは51丁目で下車し、ワンブロック先のホテルへ。タクシーを利用するにはあまりにも近いので、勝手に向きを変えるスーツケースと格闘しながら歩く。いずこの都会の通りは、段差が多いのが難点だ。

さて、ホテルは、街の中心部にある「パレスホテル」で、日本から予約した。「目の前のセント・パトリック寺院裏が見える部屋」と注文もつけた。寺院そのものが観光名所で、滞在中、部屋から眺める楽しさを考えたからだ。もちろんホテルがニューヨーク市内の観光にとても便利ということもある。
チェック・インには早いので、とりあえずスーツケースを預けることにし、念のため、「希望の部屋になるでしょうね」とたずねる。宿泊台帳を確かめた若い男性の受付は、「予約はありますが、部屋の注文はありません」とつれない。夫はインターネットでの予約のコピーを取り出し、次第に大声になって一悶着
受付が「チェック・インまでに、調べておきます」と言うので、身軽になって、昼食と街の探検に出かけた。

今日は棕櫚の聖日。セント・パトリック寺院(注)のミサを終えた信者が、棕櫚の葉を捧げ持って、正面の出入口から出てくる。その群れに逆らうようにして、寺院内に入り一巡すると、次のミサが始まった。しばらく様子をみたが場違いの雰囲気で、ステンド・グラスなどをゆっくり見ることができない。「今日は無理だ。いずれにしよう」と外へ出た。陽の光が降り注いで眩しいが、太陽の周りには虹がかかっている。雨が降っていないのに不思議・・・。

(注)セント・パトリック寺院・・・カトリックのアイルランドの守護聖人パトリックをまつった寺院で、1858年に着工し、1878年に一応できた。現在の高さ100メートルの尖塔とマリア聖堂の荘厳な姿は、1908年に完成。アメリカ最大のゴシック建築で、直径が8メートルのステンド・グラスのバラ窓は、何度眺めても素晴らしい。祭壇を設計したのはアメリカのガラス工芸家L.C.ティファニー(1848〜1933)。蛇足だが、彼の父親は貴金属会社”ティファニー”を設立した人。
毎年3月17日は「セント・パトリック・デイ」で、五番街で大パレードが行われる。以前、「この日はみんなアイルランド人よ・・・」とミドリ色の物を身につけて、パレードの華やぎに加わり、家族で楽しんだ思い出がある。

近くの軽食店「HEAVEN」に入り、遅い昼食。チキンカツとスープを頼み、ニューヨーク市観光第一歩をビールで乾杯。そう若くはないウエイトレスが、鳥のさえずりのようなハイオクターブの声で注文をとった。バスの車掌もそうだったが、サービス業に携わる女性には、ソプラノで話す人が多いのか・・・。

その後、グランド・セントラル駅の高い天井を見上げ、近辺を歩く。

3時15分頃、ホテルにチェックイン。受付の男性は、セント・パトリック寺院裏に面した部屋(1518号室)に変更し、「1ランク上の部屋ですが、料金は申し込みのときと同じです」と勿体をつける。夫の抗議が役に立った。

部屋に落ち着き、シャワーを浴び、洗濯を少々。
バスの移動があったし、草臥れて再び外出する気力がない。「明日からの余力を残さなくっちゃ・・・」と持参の日本食を食べ、休息の夜を迎える。
こんなとき「年齢には争えないな」と、しみじみ思う。

2014年11月12日水曜日

[NYへの旅] 18.マルゴーの100歳誕生パーティー

8日目  3月23日(土)

昨夜は遅くなって、「朝食は9時にしましょう」と言いながら寝たのに、5時前に目覚めた。「2時間ちょっとしか寝ていない。二度寝は危ないし・・・」とブツブツ言いながら、起きだす。シャワーを浴び、メールをチェックし、大まかに荷物のパッキングも済ませた。マルゴーの100歳誕生パーティに出席して、明日はニューヨークへ移動する予定だ。「速かった・・・」と、数日の出来事を振り返る。

トーマスとフェイも誕生パーティに参加することになり、彼らをピックアップするために、1時にクラウディア夫妻と落ちあった。
夫のフィリップは、ヒルダガードの家の増改築をした建築家。妻のクラウディアは、私たちがケネディ国際空港に到着したときに迎えてくれ、ヒルダガード宅までドライブしてくれた。そのことは、すでに書いた(NYへの旅  3 参照)。

マルゴーの100歳の誕生パーティを企画・主催し、招待状を出したのは、クリーブランドに住んでいる長女ボニー・ペトラスとその家族だ。マルゴーには2人の娘がいたが、次女は若くして(23歳で)亡くなっている。

会場はポートジェファーソンの高台にあるクラブハウスで、目の前一面に海が広がっている。車を降りると、外には強い風が吹いていた。吹き飛ばされそうになって思わず近くのテラスの柱にしがみつく。白波が高く立ち、対岸のコネチカット州がクッキリと見える。4日前に、マルゴーの家を訪れたときの佇まいを思い出した。
ロングアイランドの北側の海辺は、海の幸と豊かな自然を抱え、人の暮らしに最上の恩恵をもたらして来た。ここに住み着いた人々の苦難の歴史は、同時に贅沢な環境を満喫している人々を育てて来たのだと・・・。

始まりの時間の30分ほど前から、次々に招待客が増えて、マルゴーに挨拶。
彼女は、子どもひとり、孫4人、曽孫6人、お腹に待機中の曽曽孫もひとりに加え、彼らが結婚したパートナーを含めた大勢の家族に囲まれている。上下共に黒いパンツ姿で、大ぶりのネックレース。背筋がピンと伸びているので、とうてい100歳の誕生日を祝う人とは感じさせない。やがて、会場を歩きながら友人・知人と賑やかに談笑し、エネルギッシュな振る舞いが眩しい。

部屋の一隅に、マルゴーの年代を追った写真が展示されている。幼い日々。後に夫になったロスと友人が揃う画学生時代。娘を抱く若い母親の姿。ヨーロッパ各地で華やいでいる壮年時代の姿には、キャリア・ウーマンの自信が見える。
美しく、負けん気のにじみ出る写真に、そのまま現在に続く姿を発見し、「写真は真実を写し出しているのだから、当然だ」と面白がる。

最年長の孫が開会の挨拶をし、続いて孫や曽孫が一言ずつメッセージをご披露。
あらかじめ準備・練習をしていたらしく、必死に話すのが愛らしい。小さい曽孫が、途中で忘れたのか、シドロモドロになって親が助け舟を出し、会場の笑いを誘った。

多彩な人たちがビュッフェ料理を手に、動き回っている。立ち話をしたり、テーブルを囲んだり。
夫と私は丸いテーブルに座り、10人ほどの同席者と歓談。ひとしきり話した後、「あなたは、高校の先生をしていましたね・・・?」と問いかけたのは、ニューヨーク市にある高校の校長先生だった。
「あら、どうしてわかりますの?」と聞き返すと、「あなたの話し方で雰囲気を感じましたよ・・・」とニヤリ。万国共通の職業柄のタイプがあるのかしらん。

「やー、ジャッジマン、お元気ですか?」。
「ジャッジマン、最近はどうしていますか?」。
「ジャッジマン、オペラを楽しんでいますか?」。
「ジャッジマン・・・」と次々に声をかけられている男性が、同じテーブルにいる。ジャッジマンという名前か渾名だろうかと訝っていると、近くに座っている人が「去年までニューヨーク市の判事をしていた人よ」と教えてくれる。ご本人は「21年間市の判事の仕事をしましたよ。現在は弁護士です」と話す。

オペラ好きが揃っていたらしく、個々の歌手の評価や演目の感想を話題にする。
私たちが日本からの旅人だとわかると、「ニューヨークに行ったら、ぜひ出かけたらいい」と、いくつかの観光スポットを紹介してくれたし、地震・津波と原子力施設の問題も話題になった。

食事が終わり、記念写真を撮る頃から、それまで比較的おとなしくしていた曽孫たちが本来の姿を見せ始め、超活動的になった。マルゴーのDNA!だろうか。
ひとりが「倒れて・・・」と声をあげると、揃って床に倒れこむ。倒れるのがビリになると、声かけの順になる。日本の「ダルマさんが転んだ」というゲームと同じだ。
そのうち、会場を運動場にして走り回りはじめ、テーブルの下に潜り込む子もいる。親が写真を撮ろうとしても、全員が揃わず、言うことを聞かない。
パーティー開始から3時間経っているから、子どもにはおとなしくする限界だったのだろう。それにしても、ちょっと羽目の外し過ぎだ。
その様子を眺めながら、ジャッジマン氏は、昨年開催した母親の誕生会の様子を披露する。「こういう何世代もの年齢差をまとめるパーティは、想像以上にたいへんなんですよ。特に、子どもには・・・」。

老齢の婦人から「あなたの息子のシンジを知っていますよ」と言われてびっくり。彼はフィラデルフィアにある大学院に留学中、感謝祭やクリスマスにはヒルダガード宅で過ごした。そのときに会ったと言うから、20年以上も前のことだ
「またお会いできましたね」と声をかけられて、「はて・・・?」と思い出そうと必死になったが、昨日のオペラ鑑賞で一緒だった。顔を覚えていないし、記憶も不確かになっている。
集まっている人々は、付き合う階層が共通している。40年近く前、アメリカで感じたコミュニティの一面を思い出し、「変わらないなあ」と感じた。

個性の強い女性が一世紀を生きてきた。その証を垣間見た誕生日パーティーは、得難い経験だった。

5時半過ぎに帰宅。
休息しながらパッキングし、その後、インターネットでミュージカルのチケットを1時間半も検索。26日夜の「Nice Work if You Can Get It」に決めた。ニューヨークのエンターテイメントはいろいろあるけれど、評判や人気のものはチケットの購入は難しく、代金のディスカウントもない。

9時半頃、「昼間のご馳走で満腹だけれど、少し食べましょうよ」と、やっと落ち着く。アルコール類・チーズ・パン、その他のつまみを居間のテーブルに並べ、ヒルダガード宅最後の夜を過ごす。
日本、ドイツやアメリカの「三つ子の魂百まで」とか「石の上にも百年(3年ではない)」などの諺を披露し合う。それぞれの国で、どんな場合に使われているか、諺が意味する国民性や人間性との関係など、議論が続いた。オードビーは魔物だと感じながら、いつまでも語り尽きない時間となった。