2014年11月16日日曜日

[NYへの旅] 22 . ミュージカル鑑賞

11日目  3月26日(火)その2 

ロングアイランドに滞在中、ヒルダガードが「人気のミュージカルだし、出演している俳優は演技の質が高いし・・・」と、いくつか候補を挙げたので、インターネットで検索した。滞在日程を考慮するといずれも満席で、なかなか決まらない。1時間以上かかって、やっと「Nice Work if You Can Get It」のチケットを入手。ミュージカルは、言葉がわからなくても、喜怒哀楽の感情表現は万国共通で、演技の流れを想像しながら理解できるし、歌あり、踊りありで楽しめるからいい。

ミュージカルの舞台は、1920年代の禁酒法が盛んだった時代。
主人公のジミーは、いい加減な性格の金持ちのボンボン。結婚を控え、独身最後の夜を楽しもうとキャバレーへ出かけて酔っ払った。そこで元気な女性に会い、帰り際に意気投合してさらに大いに盛り上がり、夜が更けた。ところが、彼女は酒の密輸入と密売をするギャング・グループの1員だった・・・。
ということから、てんやわんやの騒ぎが展開する。

ジミーは女性から頼まれて、父親の屋敷の一角にある倉庫に密売酒を隠す羽目になる。やがて、ジミーは密売ギャング・グループの1員と間違われて、警察に踏み込まれる。

意気投合した女性と浮気をしている現場は凄まじい色気の世界だし(役者ながらよくやるよ)、そこに許嫁が現れ、浮気を否定するため辻褄合わせに苦労したり。
気が弱くいい加減な男ジミーが、家族・親戚・ご近所さん・ギャング・警察官を巻き込んで、受難が途切れることなく続いていく。

軽快な舞台展開に笑い転げながら、大いに盛り上がった。あっという間に時間が過ぎ、眠くなる暇なんてなく、楽しかった。

このミュージカルは、2012年、トニー賞の10部門にノミネートされたコメディの人気作品で、ジミー役はベテラン俳優のマシュー・プロティック。「さすが」と唸ったのだが、この役には話題が付け加わった。

というのは、間もなく退任する予定のニューヨーク市長ミシェル・R、ブルームバーグ氏が、途中ジミー役で登場して喝采を浴びたのだ。キャバレーの女性陣に囲まれて気持ちよく演技し、歌を披露している様子が、新聞の文化面に写真と共に出た。市長として市民に人気があるのも、頷ける。東京都知事がミュージカルの主役になるなんて到底考えられないし、その気にもならないだろうから、驚き、感心した。
余談だが、ブルームバーグ市長の月給は、月額1ドル也。IT関係の仕事で成功している億万長者で、市民の税金から給料をもらわなくてもいいんだとか。どこかの政治家が、いい加減な名目で政治活動費を我がものにしているのとは、大違いだ!。

それともうひとつ。
舞台いっぱいに新鮮な美声を響かせ、キビキビした演技で拍手喝采を浴びた少年(実際は女性ソプラノ)が目立った。このミュージカルで6人のコーラス・ガールの1人として出演していたキャメロン・アダムスで、その日急病で休んだベテラン女優の代役として登場したのだ。彼女はすでにいくつかの演劇で注目を集め、注目されていたらしい。ブロードウェイの役者が様々なチャンスを狙い、経験を重ねながらベテランに育っていく。いつ出演できるかわからないのに、ぶっつけで役をこなす普段の努力の一端を垣間見たし、彼女が歌い終わった後にいつまでも拍手が止まない観客の暖かい声援が心地よかった。「こうして役者が育っていく。観客が役者を育てるのだ」と、ミュージカルの本場の空気を感じた。満足の一夜だった。

[NYへの旅] 21. 気ままなニューヨークの街歩き

11日目  3月26日(火)その1

今夜、ミュージカル鑑賞を控えているが、日中は街歩きをしようと相談。
特別に訪れたい場所があるわけではない。かつて訪れた場所へ行き、あるいは人々の動きを感じ、ニューヨークの空気を味わいたいからだ。ホテルから五番街に出て北へ歩き、セントラルパークを目指すことにする。

トランプ・タワーに入り、ピンクの大理石の壁面に流れる滝を見上げながら、贅沢な空間を確かめた。トランプ・タワーは30年ほど前に建設されたが、その頃すでにソニー・プラザが新しいニューヨークの名所になっていた。建築設計の段階で地上権を設定し、公共のためのゆとり空間を整えていたのだ。こうした息抜きの空間を確保すると、税制上の優遇措置があると聞いて感心したのだったが、すでにソニー・プラザの影はなく、プラザ・ホテルになっていた。地下のプラザ・フードホールの賑わいを眺めながら「昔の光、今いずこ・・・」のメロディを思わず呟いた。電気業界の熾烈な競争の中で針路を誤り、かつてのソニーの勢いがなくなったことを実感。「日本を代表する企業だったのに・・・」と、複雑な気持ちが去来した。

セントラルパークに入った。
木々は冬枯れていたが、わずかに芽がふくらみ始めている。まだ寒い時期だから、観光客はほとんどいない。
ときどき犬の散歩をしている人と行き交う。意外に若い人が多く、犬連れの顔馴染みと出会うと、散歩そっち抜けでおしゃべりに興じている。犬同志は飼主を見上げ、おとなしい。「忠犬ハチ公だわ」といじらしい。「ひょっとしたら、犬が取り持つ男女の出会いの場かも・・・」などと想像し、われながらおばさん的発想だと苦笑する。

枯葉を咥えたリスが目の前を横切り、大急ぎで木の上に駆け上って行く。迷うことなく慣れた動きで登る木がわかるのだから、エライ!
手元にある器械を手動操作する小型のヨットが、池に漂っている。誰が操作しているのかと辺りを探すが、姿はない。ヨットの近くで、アヒルが「グワッ、グワッ・・・」と鳴きわめいている。縄張り侵害だと抗議しているのだろうか。
岸辺のベンチで、男性の老人が新聞を広げている。時折り前を歩いて行く人を、眼鏡越しの上目遣いで眺めている。日向ぼっこをしながら、朝の日課だろう。

歩き疲れ、「ボート・ハウス・レストラン」で、カプチーノとフルーツ盛り合わせを頼んで小休息した後、セントラルパークからマジソン街を南へ歩く。

軒を連ねている高級店、ラルフローレン、ランバン、グッチ、シャネルなどのウインドウを覗く。売値の桁が違うし、店の入り口にはドア・ボーイが控えていてものものしい。懐を気にする者には所詮は縁のない店だし、シュウカツ(終活)とやらで身辺整理の必要があるお年頃だから、グッと欲望を抑え込む。夫は、首を振る妻を見ながら「欲しい物があったら、買うことは必要さ」と笑い、「安上がりのオクさん」と宣う。因みに、 旅先では夫の方が買い物の度胸がいいのが、わが家流だ。

ホテル近くのデリカテッセンでビーフ・サンドイッチを買い、部屋で寛ぎながら昼食。食欲がないけれど、3度の食事をきちんと食べないと落ち着かない夫に付き合う。
しばしの休息後、予約した夕食のレストランはブロードウェイの48wにあるので、「その前にブロードウェイ界隈を歩こう」と、再び外出することにした

家族でアメリカ生活を始めたとき、必要な品々を買い求めた百貨店Macy'sへ入り、ぐるっと一回り。「このコーナーでアイロン台を買った。毛布を買ったのもこの店だった・・」と懐かしい。

大勢の観光客が土産物店に群れている。安物の土産店が多く、「こんなの貰ったって、どうしようもないないわ」と思う。街の空気を斜に感ずるのは、自分の年齢を認識することだ。若い頃は何にでも興味を持った街歩きだったっけ。エネルギーが溢れる雰囲気に圧倒されながら、タイムズ・スクエアの雑踏を歩く。

大きなスクリーンの前で、手を振ったり、笑ったり、ジャンプしたり。「何をしているのだろう・・・」と近づくと、スクリーンに好奇心丸出しの自分の姿があった。「あれ、まあ・・・」と言いながら、夫が構えるスクリーンのスナップ写真に収まる。旅先では知っている人がいないのは有難い・・・。

予約したレストラン「La  Masseria」に、少々早く着いた。プレシアターの食事が供されるので知られ、すでに大半のテーブルに客が座って、アペリティフを楽しんでいる。彼らもブロードウェイのいずれかの劇場に出かける人たちだろう。

メニューを眺めていると、ウエイターは「いずれも大皿で、二人分になります」とアドバイスしてくれた。舌平目、パスタ(ラビオリ)、サラダを一皿づつと赤ワインを注文。
「アルコールが入ると、観劇中に眠くなるおそれありだけど、”料理に対して失礼だから・・・”(夫の常套句!)」と。何が理由であれ、夫が飲まない方が心配になる!
魚料理がお薦めのレストランで、舌平目の切り身が香草入りバターでソティーされ、あっさりとした味付けが美味しかった。たっぷりの量で堪能し、飲まなくても満腹で眠気を誘う感じになった。

入るときには気づかなかったが、レストランの隣りの広場には、9、11テロ事件(2001年)の犠牲者記念碑があった。ツイン・タワーの崩壊で、この地区の消防士が救出作業中に犠牲になったのだ。刻まれている犠牲者の名前を確かめながら、この事件以降の世界のテロの数々を思い出した。軍事的攻撃と報復を繰り返している世界状況は、かえって深刻になっている・・・。

2014年11月15日土曜日

[NYへの旅] 20.MoMA(近代美術館)へ

10日目  3月25日(月)

ロングアイランドでは多彩な出来事の連続で、自覚していなかったがいささか緊張したらしい。2人だけになったら気が抜けてしまった。
今朝、目覚めると8時過ぎ。「こ〜れは寝過ぎた、しくじったあ〜」と鼻歌交じりで起き出すが、何も慌てることはない。熟睡して、気分はすこぶる爽快だ。

ゆっくりと朝食をし、ホテルのインターネット環境がよいので、午前中は、昨日までに溜まってしまったメールや、ブログを書く。
朝から雨が降ったり止んだりで、夜には雪になるとの予報は、観光には有り難くない。天気の影響のなさそうなMoMAを訪れることにする。

12時半頃、ホテルの受付に鍵を預けると、熟年男性の受付が「昨日のあなた(夫)の抗議を横で眺めていましたよ」とにこやかに言う。だいぶ粘ったからなあ。
滞在中は、他のホテルマンにも顔を覚えられて、何かと話しかけられる。夫は理不尽だと一歩も引かず自己主張をするし、次第に声が大きくなる。これじゃ目立つわけだ。

MoMAの入口には長い行列ができ、混雑している。行列の最後まで辿ると、3人縦列で2ブロックもの長蛇だ。明日は休館日だし、春休み中だし、天気が悪いから美術館にしようと考える観光客が押しかけているらしい。
夫は「これじゃ時間の無駄になるね。日本の美術館と同じ混雑はごめんだよ。昼食を先にしよう。ロックフェラー・センターが近いから、そこのカフェにしよう」と諦めが早い。

ロックフェラー・センター広場は、春から秋にかけては日除けのパラソルが並ぶオープンカフェに、寒い季節にはアイス・スケート・リンクになる。
クリスマスの頃、巨大な樅の木が飾られるのを家族で眺めた・・・。
ずっと以前(40年になる!)、ここでヒルダガードと待ち合わせ、食事をしながら深刻な話もした。
季節毎の数々の追憶が不意に甦り「また訪れることができたなんて・・・」と、感慨深い。

屋内からスケート・リンクが眺められる「ロック・センター・カフェ」に落ち着く。今日のスープ、フィッシュ&チップス、野菜サラダを注文し、ビール(サムエル・アダムス)で乾杯。温かいスープが美味しい。

目の前で、たくさんの人が滑っている。小学生くらいの子どもが半分、10代の若者と熟年・老人があとの半分といったところだろうか。
外側では、バーを掴みながら倒れない努力をしている子どもとコツを教える親たち。その内側には、スイスイと気持ちよく滑ったり、スピードを競っているグループがいる。中央では、格好をつけて得意気にフィギュアを演じているそう若くはない人たちがチラホラ。動きが滑らかでないので「おや、おや・・・」と笑いを誘う。30分単位に入れ替わり、しばしの休憩中に、リンクのコンディションを整えている。

食事を終え、諦めきれないのでもう1度、MoMAに出かけることにした。
行列は短くなっていた。それでも30分待って2時45分に入場し、5時半の閉館まで、お目当ての画家の部屋を大急ぎで辿った。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」が見当たらない。アメリカの原風景や心象を思わせる静かな絵を描いて好きな画家だ。諦めたときに、エスカレーター脇の目立たない場所に移されているのを発見し、その前にぼんやりと座り込んでいる若者を見ながら、「冷遇されているなあ」とがっかり。

閉館時の混雑には驚いた。日本のラッシュアワーの電車の混みようと同じで、館内から一斉に出てくる人々の流れは、自分の意思とは異なる動きになっている。転んだら事故に繋がるだろうとこわい。おまけに、絵の前からなかなか動かない人々を、館員が必死になって追い出している。混雑に巻き込まれ、もがくようにして、やっと外に出た。
 
ホテルに戻ってすぐ、ヒルダガードお薦めのレストラン「La Masseria」に、予約の電話をする。明晩ミュージカルを観るので、プレシアターの夕食を5時にしたいからだ。

7時半、今晩の食事は「SPARKS STEAK HOUSE」に出かけた。
室内に入ると、コロニアル・スタイルのマホガニー色のテーブルと椅子が、目に飛び込む。植民時代を偲ばせる装飾の数々。カジュアルな雰囲気だが格式があるらしく、ネクタイを締め、着飾った婦人が多い。アメリカらしい夜の社交が健在だと感じた。
私たちは、フィレステーキ、ポテトのオーブン焼き、野菜サラダとシンプルな料理を注文。量がたっぷりして持て余したが、久しぶりに美味しい肉を味わった。因みに私は疲れると、無性にビフテキが恋しくなる!

ホテルに戻ったのは10時頃。インターネットをチェックし、1日が終わった。

[NYへの旅] 19. ニューヨークへの移動はバスで

9日目  3月24日(日)
ヒルダガードの車で、リバーヘッドにあるニューヨーク市行のバス停留所へ向かう。およそ15分。移動には絶好の日和で、風がなく暖かい。ロングアイランド滞在中の寒さを置いて行く感じだ。

バス停留所前の道路を挟んだ向かい側に、「テンガー・モール」というショッピング・センターができている。「まとめての買い物ができるので便利よ。クリスマスの準備に、わざわざニューヨークへ出かけなくてもいいし、変化の少ない地域でもこうした施設ができて、暮らしには助かるわ」とヒルダガードが言う。

定刻10時45分ぴったりに、高速バスが来た。最近日本でも普及している目的地別の高速バスと同じだ。ほとんど席はふさがっていたので、夫とは通路を挟んで斜めの席に別々に座った。
乗車後すぐに、車掌(黒人女性)が来て運賃の支払いをした。1人22ドル也。ほとんどの乗客がクレジットカードを利用するから時間がかかる。
車掌は見事な巨体で、やっと通路をすり抜けている。圧倒されて、思わずお尻を見上げてしまった。
集金が終わると車掌の次の仕事は、「マッフィン、チョコレート・バーの他に、水とオレンジジュースを希望者に配ります。無料です」と言う。大きな箱を肩から下げてやって来る。「いる?」と聞く声が可愛い!
オレンジジュースを取り、早速飲むとじつに美味しい。説明を読むと、USA、ブラジル、メキシコ、コスタリカ、ベルゼー産のオレンジを原料にした100%ピュアジュースとある。
隣りに座っている若い女性が、窮屈そうに脚をあげ、踝に絆創膏を貼って手当てを始める。アメリカ人には、若い頃から脚のトラブルを抱えている人が多い気がする。細い脚に対して体重の割合が多いのだろうか。彼女はその予備軍だと想像する。

マンハッタンまで数カ所停車し、乗客が次々と降りて行く。
私たちは51丁目で下車し、ワンブロック先のホテルへ。タクシーを利用するにはあまりにも近いので、勝手に向きを変えるスーツケースと格闘しながら歩く。いずこの都会の通りは、段差が多いのが難点だ。

さて、ホテルは、街の中心部にある「パレスホテル」で、日本から予約した。「目の前のセント・パトリック寺院裏が見える部屋」と注文もつけた。寺院そのものが観光名所で、滞在中、部屋から眺める楽しさを考えたからだ。もちろんホテルがニューヨーク市内の観光にとても便利ということもある。
チェック・インには早いので、とりあえずスーツケースを預けることにし、念のため、「希望の部屋になるでしょうね」とたずねる。宿泊台帳を確かめた若い男性の受付は、「予約はありますが、部屋の注文はありません」とつれない。夫はインターネットでの予約のコピーを取り出し、次第に大声になって一悶着
受付が「チェック・インまでに、調べておきます」と言うので、身軽になって、昼食と街の探検に出かけた。

今日は棕櫚の聖日。セント・パトリック寺院(注)のミサを終えた信者が、棕櫚の葉を捧げ持って、正面の出入口から出てくる。その群れに逆らうようにして、寺院内に入り一巡すると、次のミサが始まった。しばらく様子をみたが場違いの雰囲気で、ステンド・グラスなどをゆっくり見ることができない。「今日は無理だ。いずれにしよう」と外へ出た。陽の光が降り注いで眩しいが、太陽の周りには虹がかかっている。雨が降っていないのに不思議・・・。

(注)セント・パトリック寺院・・・カトリックのアイルランドの守護聖人パトリックをまつった寺院で、1858年に着工し、1878年に一応できた。現在の高さ100メートルの尖塔とマリア聖堂の荘厳な姿は、1908年に完成。アメリカ最大のゴシック建築で、直径が8メートルのステンド・グラスのバラ窓は、何度眺めても素晴らしい。祭壇を設計したのはアメリカのガラス工芸家L.C.ティファニー(1848〜1933)。蛇足だが、彼の父親は貴金属会社”ティファニー”を設立した人。
毎年3月17日は「セント・パトリック・デイ」で、五番街で大パレードが行われる。以前、「この日はみんなアイルランド人よ・・・」とミドリ色の物を身につけて、パレードの華やぎに加わり、家族で楽しんだ思い出がある。

近くの軽食店「HEAVEN」に入り、遅い昼食。チキンカツとスープを頼み、ニューヨーク市観光第一歩をビールで乾杯。そう若くはないウエイトレスが、鳥のさえずりのようなハイオクターブの声で注文をとった。バスの車掌もそうだったが、サービス業に携わる女性には、ソプラノで話す人が多いのか・・・。

その後、グランド・セントラル駅の高い天井を見上げ、近辺を歩く。

3時15分頃、ホテルにチェックイン。受付の男性は、セント・パトリック寺院裏に面した部屋(1518号室)に変更し、「1ランク上の部屋ですが、料金は申し込みのときと同じです」と勿体をつける。夫の抗議が役に立った。

部屋に落ち着き、シャワーを浴び、洗濯を少々。
バスの移動があったし、草臥れて再び外出する気力がない。「明日からの余力を残さなくっちゃ・・・」と持参の日本食を食べ、休息の夜を迎える。
こんなとき「年齢には争えないな」と、しみじみ思う。

2014年11月12日水曜日

[NYへの旅] 18.マルゴーの100歳誕生パーティー

8日目  3月23日(土)

昨夜は遅くなって、「朝食は9時にしましょう」と言いながら寝たのに、5時前に目覚めた。「2時間ちょっとしか寝ていない。二度寝は危ないし・・・」とブツブツ言いながら、起きだす。シャワーを浴び、メールをチェックし、大まかに荷物のパッキングも済ませた。マルゴーの100歳誕生パーティに出席して、明日はニューヨークへ移動する予定だ。「速かった・・・」と、数日の出来事を振り返る。

トーマスとフェイも誕生パーティに参加することになり、彼らをピックアップするために、1時にクラウディア夫妻と落ちあった。
夫のフィリップは、ヒルダガードの家の増改築をした建築家。妻のクラウディアは、私たちがケネディ国際空港に到着したときに迎えてくれ、ヒルダガード宅までドライブしてくれた。そのことは、すでに書いた(NYへの旅  3 参照)。

マルゴーの100歳の誕生パーティを企画・主催し、招待状を出したのは、クリーブランドに住んでいる長女ボニー・ペトラスとその家族だ。マルゴーには2人の娘がいたが、次女は若くして(23歳で)亡くなっている。

会場はポートジェファーソンの高台にあるクラブハウスで、目の前一面に海が広がっている。車を降りると、外には強い風が吹いていた。吹き飛ばされそうになって思わず近くのテラスの柱にしがみつく。白波が高く立ち、対岸のコネチカット州がクッキリと見える。4日前に、マルゴーの家を訪れたときの佇まいを思い出した。
ロングアイランドの北側の海辺は、海の幸と豊かな自然を抱え、人の暮らしに最上の恩恵をもたらして来た。ここに住み着いた人々の苦難の歴史は、同時に贅沢な環境を満喫している人々を育てて来たのだと・・・。

始まりの時間の30分ほど前から、次々に招待客が増えて、マルゴーに挨拶。
彼女は、子どもひとり、孫4人、曽孫6人、お腹に待機中の曽曽孫もひとりに加え、彼らが結婚したパートナーを含めた大勢の家族に囲まれている。上下共に黒いパンツ姿で、大ぶりのネックレース。背筋がピンと伸びているので、とうてい100歳の誕生日を祝う人とは感じさせない。やがて、会場を歩きながら友人・知人と賑やかに談笑し、エネルギッシュな振る舞いが眩しい。

部屋の一隅に、マルゴーの年代を追った写真が展示されている。幼い日々。後に夫になったロスと友人が揃う画学生時代。娘を抱く若い母親の姿。ヨーロッパ各地で華やいでいる壮年時代の姿には、キャリア・ウーマンの自信が見える。
美しく、負けん気のにじみ出る写真に、そのまま現在に続く姿を発見し、「写真は真実を写し出しているのだから、当然だ」と面白がる。

最年長の孫が開会の挨拶をし、続いて孫や曽孫が一言ずつメッセージをご披露。
あらかじめ準備・練習をしていたらしく、必死に話すのが愛らしい。小さい曽孫が、途中で忘れたのか、シドロモドロになって親が助け舟を出し、会場の笑いを誘った。

多彩な人たちがビュッフェ料理を手に、動き回っている。立ち話をしたり、テーブルを囲んだり。
夫と私は丸いテーブルに座り、10人ほどの同席者と歓談。ひとしきり話した後、「あなたは、高校の先生をしていましたね・・・?」と問いかけたのは、ニューヨーク市にある高校の校長先生だった。
「あら、どうしてわかりますの?」と聞き返すと、「あなたの話し方で雰囲気を感じましたよ・・・」とニヤリ。万国共通の職業柄のタイプがあるのかしらん。

「やー、ジャッジマン、お元気ですか?」。
「ジャッジマン、最近はどうしていますか?」。
「ジャッジマン、オペラを楽しんでいますか?」。
「ジャッジマン・・・」と次々に声をかけられている男性が、同じテーブルにいる。ジャッジマンという名前か渾名だろうかと訝っていると、近くに座っている人が「去年までニューヨーク市の判事をしていた人よ」と教えてくれる。ご本人は「21年間市の判事の仕事をしましたよ。現在は弁護士です」と話す。

オペラ好きが揃っていたらしく、個々の歌手の評価や演目の感想を話題にする。
私たちが日本からの旅人だとわかると、「ニューヨークに行ったら、ぜひ出かけたらいい」と、いくつかの観光スポットを紹介してくれたし、地震・津波と原子力施設の問題も話題になった。

食事が終わり、記念写真を撮る頃から、それまで比較的おとなしくしていた曽孫たちが本来の姿を見せ始め、超活動的になった。マルゴーのDNA!だろうか。
ひとりが「倒れて・・・」と声をあげると、揃って床に倒れこむ。倒れるのがビリになると、声かけの順になる。日本の「ダルマさんが転んだ」というゲームと同じだ。
そのうち、会場を運動場にして走り回りはじめ、テーブルの下に潜り込む子もいる。親が写真を撮ろうとしても、全員が揃わず、言うことを聞かない。
パーティー開始から3時間経っているから、子どもにはおとなしくする限界だったのだろう。それにしても、ちょっと羽目の外し過ぎだ。
その様子を眺めながら、ジャッジマン氏は、昨年開催した母親の誕生会の様子を披露する。「こういう何世代もの年齢差をまとめるパーティは、想像以上にたいへんなんですよ。特に、子どもには・・・」。

老齢の婦人から「あなたの息子のシンジを知っていますよ」と言われてびっくり。彼はフィラデルフィアにある大学院に留学中、感謝祭やクリスマスにはヒルダガード宅で過ごした。そのときに会ったと言うから、20年以上も前のことだ
「またお会いできましたね」と声をかけられて、「はて・・・?」と思い出そうと必死になったが、昨日のオペラ鑑賞で一緒だった。顔を覚えていないし、記憶も不確かになっている。
集まっている人々は、付き合う階層が共通している。40年近く前、アメリカで感じたコミュニティの一面を思い出し、「変わらないなあ」と感じた。

個性の強い女性が一世紀を生きてきた。その証を垣間見た誕生日パーティーは、得難い経験だった。

5時半過ぎに帰宅。
休息しながらパッキングし、その後、インターネットでミュージカルのチケットを1時間半も検索。26日夜の「Nice Work if You Can Get It」に決めた。ニューヨークのエンターテイメントはいろいろあるけれど、評判や人気のものはチケットの購入は難しく、代金のディスカウントもない。

9時半頃、「昼間のご馳走で満腹だけれど、少し食べましょうよ」と、やっと落ち着く。アルコール類・チーズ・パン、その他のつまみを居間のテーブルに並べ、ヒルダガード宅最後の夜を過ごす。
日本、ドイツやアメリカの「三つ子の魂百まで」とか「石の上にも百年(3年ではない)」などの諺を披露し合う。それぞれの国で、どんな場合に使われているか、諺が意味する国民性や人間性との関係など、議論が続いた。オードビーは魔物だと感じながら、いつまでも語り尽きない時間となった。

2014年11月11日火曜日

[NYへの旅] 17.田中さん宅のお茶、ヒルダガードへの感謝の夕食

7日目  3月22日(金)その2  

午後、昨日のオペラ企画の始末をするために、ヒルダガードと一緒に図書館へ寄り、そのまま、お茶に招かれている田中さん宅へ。
滞在中の時間が足りないので「お気持ちだけ・・・」とお断りしたが、アメリカ人の付き合いには、招いたり招かれたりが大事だ。やっぱり失礼になるからと、お茶を希望した。

出かけてよかった。
昨年秋のハリケーン襲来で、樹木が車上に倒れ、住宅にも甚大な被害があったという。倒木は片付けられ、林に囲まれた静かな素敵な佇まいだった。林にいる鹿を眺めながら、厄介者だけれど自然に恵まれた環境を感じた。
亡くなられた夫君やふたりの子どもの写真を眺めながら、「これからどうなるかしら・・・」と、一人で住んでいる家の維持がたいへんになったことを聞いた。どこの国でも老齢化に伴う生活には、先が見通せない問題をはらんでいる。
昨夜のオペラの感想やエコを心がける暮らし、子どもたちの近況など、話が弾んだ。

さて今日の夕食には、滞在の感謝の気持ちをこめてヒルダガードを、再会を記念してトーマスとフェイを招待し、ウエディングリバーの海辺にある「La Plage Restaurant」へ出かけた

このレストランは、シェフ自ら、午前中にロングアイランドの北の海へ漁に出かけ、その日獲れた新鮮な魚介類を料理している。金曜日にはワインの持ち込みが自由だし、この辺りではお薦め人気レストランだとか。カヌーを楽しむヒルダガードが借りているボート小屋の近くにあるし、それに今日は金曜日だから、好都合だ。シェフとヒルダガードは旧知の間柄というのもいい。

「カジュアルだけど美味しいから、いつも混雑しているのよ。予約なしでは断られることが多い・・・」と言われ、昨日電話をしてある。
次々にやって来る客で賑わっている。中には満席だからと断られて、立ち去って行く人もいる。「ほら、予約していてよかったわねえ・・」と、ヒルダガードと顔を見合わせた。

何を注文したか記憶は定かではない。地中海料理に通ずる味付けで、とても美味しかったし、ボリュームたっぷりで、堪能したことは思い出すのだが・・・。
そうだ。前菜は大皿でいろいろ注文して取り分けた。生牡蠣、たくさんの魚介類をマリネしたもの、白身魚のフリッターなど。
メインは、各人がブイヤベース、ロブスターのオーブン焼、パエリアなどを注文。
持参の2本のワインでは足りず、シェフがお薦めの白ワインを追加。
「誰が帰りの運転をするの?」「その頃には酔いはさめる・・・」と、乾杯を重ねた。

トーマスと夫は科学者として仕事の共通点があるので、福島の原発事故の深刻な問題が話題になった。フェイは放射能の人体への影響や薬害の話をした。高齢者である3人は、これからの世代の暮らしのあり方を懸念した。
楽しいひとときではあったけれど、世界中で、手放しでは希望を持てない時代になっている共通の認識があり、時代の空気も味わって、話は尽きなかった。

帰宅後、習慣のオードビーを飲みながら、話は続き、夜は更けていった。

[NYへの旅] 16.トーマスと再開

7日目  3月22日(金)その1 

アメリカで知りあった友人は、家族のいろいろな記念日をとても大事にしている。
集まって、ときにサプライズを用意して、人の繋がりを確かめている。人間関係がどんどん変化する社会では、こんな機会と場所をつくることが大事なのだろう。「アメリカ人になる」ために世界中からやってきた人々は、社会の最小単位である「家族」で支え合った。そんな伝統が生きていることを、家族が集まる記念日に感ずる。

19日のヒルダガードの誕生日に、息子トーマスから電話があった。
「週末にはロングアイランドに行くよ」とのサプライズで、ヒルダガードは大喜びした。そして今朝、朝食を終えると間もなく、トーマスが彼女(フェイ)を伴ってカリフォルニアから遥々やって来たのだ。

トーマス(47歳)は玄関に入ってくるやいなや、母親とハグを交わし、両手をとって挨拶。クリクリした目を輝かせる表情は、悪戯好きだった子どもの頃とちっとも変わっていない。
トーマスは、中東の湾岸戦争が起こった頃に高校を卒業し、まもなく海兵隊を志願した。「母親の負担を考えての彼の決断だったのよ。軍隊経験があると大学進学の奨学金を得られるので・・・」と、後にヒルダガードから聞いた。大学ではコンピューター関連のコースを学び、卒業するとカリフォルニア・シリコンバレーにある会社に就職。レーガン大統領時代、起業を決断して独立し、宇宙空間の軍事開発を構想する仕事を始めた。目下は、リバーモア研究所内にあるサンディア国立研究所に勤務している。「僕の仕事内容は、家族にも秘密だよ。もちろんヒルダガードも知らない。違反したら刑務所行きだ・・・」と、厳しい現実の一面を話してくれた。激務ではあるけれど、一方ではヨットを趣味にしているし、人生を楽しんでいる様子だ。

トーマスが30歳を迎えて以来、ヒルダガードからの手紙やメールでは、数人の女性が話題になった。「トーマスが選ぶのだから・・・」と言いながら、ときには、人間的な面で賛成しかねる複雑な心境のニュアンスもあった。
同世代のわが家の次男も結婚の兆しがなく、いずこも母親の心配と願望は同じだったから、半ば冗談まじりに「息子たちがそれぞれ結婚したら、お祝いしましょう。アメリカと日本の中間にあるハワイで・・・」と、約束していた。

ところで、同伴者のフェイは有力なパートナー候補らしい。
彼女が16歳のとき(世界が冷戦時代だった30年余り前)、両親、4人姉妹(フェイは上から2番目)と2人の弟の8人家族でフィリピンからアメリカに移住し、アメリカ国籍を得た。彼女によると、フィリピンの将来に両親が危惧して国を離れたという。
大学で薬学を専攻したフェイは、現在は病院専属の薬剤師をしている。到着早々に、掃除機を使って掃除を始めた綺麗好きの印象が強い。
「フェイは礼儀正しいし、気遣いのできる人・・・」と、ヒルダガードは言う。
ともあれ、若いふたりの登場は、刺激的な時間となった。

2014年11月9日日曜日

[NYへの旅] 15.オペラ、グノー作曲「ファウスト」を観る

6日目  3月21日(木)その3  

オペラ「ファウスト」は、ゲーテの小説が原作で、グノーが作曲した。
フランス語のオペラの特色として、今回はバレーが挿入される内容であり、いくつかのアリアは、単独の曲として馴染みがある。グノーの曲に惹かれて、観賞することを決めたのだった。

ファウストとマルグリートの恋と悲劇の物語の内容はわかりやすい。
老学者ファウストが、晩年になって人生をかけた学問に失望している。そこへメフィストフェレス=悪魔が現れて、若さと引き換えに魂を渡すことをそそのかす。ファウストは、美しい娘のマルグリートの姿を追って若返りの薬を飲み、青春に戻る・・・。そして・・・。

7時半。膨らんだ袖のブラウスとベスト、ロングスカートに帽子をかぶったコロニアル・スタイル姿の女性が、開演を知らせる木琴を叩きながら通り過ぎた。
各階のロビーで開演を待っていた人たちは、客席に急ぐ。
間もなく、天井から下げられていたクリスタルの電灯がスルスルと上がり、その動きに交差するように、天井からふたつの爆弾が降りて来た。
夫が「原子爆弾だよ。右が広島に投下されたリトルボーイ、もうひとつが 長崎に投下されたファットマン ・・・」と囁く。

原子爆弾が置かれた舞台中央後方のスクリーンに、フイルムの映像がクローズアップされていく。白衣姿の研究者たちが話し合う場面、活気に溢れた実験室の様子。ヒットラーの演説、出征していく兵士の姿もある。やがて戦争の激化による悲惨な状況になり、原子爆弾の投下で灰燼に帰した広島の街となった。
静かに映像が消えると同時に、爆弾は天井に吸い込まれていった。20世紀前半の世界の動きをあっという間に紹介した導入部は、意表を突くものだった。

なるほど。今日のファウストは、ウラン利用を実用化した原子力研究の科学者で、それが原子爆弾製造につながった。彼の本意とは違って、第二次世界大戦末期に破壊的な威力を示した。原子爆弾投下には抵抗し、研究開発を後悔したが後の祭り。戦争指導者=メフィストフェレスに魂を売り渡した結果になったのだ。

終演近く、廃墟となった街の姿が映し出され、ふたつの爆弾が再びあらわれた。想像を絶する戦渦は、原子爆弾が悪魔の兵器となったことを示した。
「こんなはずではなかった」と、志とは異なる結果を悔やむ科学者の姿に、「ファウスト」の根源的な問題が描かれて、興味深かった。

演出はフランスのAlain Altinoglu、科学者ファウスト役はポーランド人Piotr Beczala(テノール)、メフィストフェレス役はカナダ人John Relyea(バス・バリトン)、マルグリート役はロシア人Marina Poplavskaya(ソプラノ)

特にマルグリートとメフィストフェレス役の歌唱は素晴らしく、歌い終わってからの拍手が長く続いた。中には、スタンドオベーションをする者もいて、舞台の演技途中、長い中断になった。

メトロポリタン・オペラは、登場人物といい、解釈といい、国境を超えた国際的な舞台だ。今も、シリアやアフガニスタンに手を焼くアメリカへの皮肉も感じた。

また、初演からの年月が重なっても、現代の社会問題を巧みに取り入れているオペラは、歌舞伎にも共通し、古めかしい印象はない。伝統に裏打ちされながら、観客に現在の時事問題を知らせているのだから、面白い。

私たちの席の前に、ドナルド・キーン氏とふたりの日本人が座っていた。
2度の中休みには、軽く会釈しお互いに意識したが、ニューヨークに来てまで追っかけ?をするのではと遠慮した。いつもなら、ミーハー的好奇心があるのだが。

11時半にバスに乗り、ロングアイランドに帰って来たのは夜半1時10分。
天気予報通りに夕方から雪になった。気温が氷点下5〜6度Cだから、駐車した車の屋根に積もった10センチほどの雪がコチコチに固まっている。スクレーパーでゴリゴリと掻き落とし、フロントガラスにお湯をかけた。
ヘッドライトに照らし出される林の中に、数頭の鹿がキョトンと車を見ている。「悪戯をする連中・・・」と、異口同音に呟やく。

自宅に帰り着いても、観劇の興奮納まらず。ヒルダガードは「眠り薬が必要ね」とウインクしながら、リキュールのグラスを並べた。
彼女は言う。「普通のアメリカ人には、原子爆弾が出てきた意味がわかっていたかしら。私も最初はわからなかった・・・」。
脚本・演出に込められた意図の理解は、観客次第ということだろう。
とりわけ第二次世界大戦を経験した人々は、人間が創り出した兵器の悪魔性を骨身に沁みて知っている。戦後が長くなるにつれ、それが次第に忘れられていくのが怖ろしい。

[NYへの旅] 14.ペトロポリタンオペラの企画

6日目  3月21日(木)その2 

40年近く前、BNL研究所の福利厚生部門では、メトロポリタン・オペラやコンサートのチケットを斡旋していた。観劇当日は仕事が終わってから各人が1時間ほど車で走り出かけていた。それでも開演時刻には十分間に合ったので、楽しみにして利用し、オペラ愛好者?になるきっかけになった。

17年前、ヒルダガードが地区の図書館の学芸員になると、月に1回の割合で、メトロポリタン・オペラやニューヨーク交響楽団のコンサートを年間企画から選び、チケットの斡旋ばかりではなく、足の便も含めた企画を始めた。バスをチャーターすれば駐車場の心配をしなくて済むし、運転の疲れもない。企画は好評で、現在も毎回バス1台が満杯になるという。
ときどき彼女からはオペラの演目や催行月日の情報が届き、「是非一緒に観たい」との誘いが続いたが、日本からは遠かった。「そのうちに実現したい」と言いながら時間がどんどん過ぎ、お互いに年齢を重ねた。そして、そろそろ最後の機会になるかもしれないと、賭けをしたのだ。それについては、はじめに書いた。

午前中は時折り小雪がチラついたが、集合時刻の30分前頃から晴れ間がのぞいた。
今回の参加者は総勢47名。ほとんどが常連らしく、「私、来ているわよ」とヒルダガードに挨拶。チケットを受け取る人、座席の交換など、遠足へ出かけるような賑やかさだ。
それに今季最後の企画だから、例年通りオペラ鑑賞の前に、プレ・ディナーもあり、「どのメニューを申し込んでいるかしら?」と尋ねる人も。

3時きっかりにバス出発。
早速、ヒルダガードが次のオペラ・シーズンの演目を紹介し「みなさんの参加を期待します」と宣伝。観劇後の集合時間と場所などを、いつもとは違う気取った声音で話す。普段は茶目っ気たっぷりの彼女だから、その落差に目を見張った。
「ヒルダガードの意外な一面を見た感じ・・・」。
「そうだなあ、威厳を持って喋っているんだろうね。約束の徹底をしているのさ」。
夫と顔を見合わせながら、ヒソヒソ話。

今日のオペラ「ファウスト」のパンフレットが配られ、4時過ぎにはニューヨーク市へ。前にも書いたが、交通法規で複数人を乗せているバスは、速度が出せるレーンを走る。乗用車よりも時間が短縮される。

「Cafe Centro Restaurant」(ヴァンダービルト通り45番街)でプレ・ディナー。
メニュー    トマト・アボカド・レタスの野菜サラダに蟹の身を盛り付けたもの
                  フィレミニヨン・ステーキの赤ワインソース味、ポテト添え
                  デザートは、ピーカンとアーモンドのケーキ、洋ナシの甘煮
観劇中に眠くなるかと心配しながら、夫の常套句「料理に対して失礼になるから」と赤ワインを注文。

食事後、夕方の陽差しを浴びるビルを仰ぎ見たとき、レストランの場所が昔のパンナムビルの1階だとわかった。

[NYへの旅] 13.垣間見るアメリカ社会の変化

6日目  3月21日(木)その1  

昨日から春らしい明るい陽射しになった。庭のクロッカスが一斉に開き、眩しく輝いている。午後からの天気は、下り坂の予報だ。
午前中、液体(アルコールとガソリン)補給をしたり、溜まった雑用を片付けたり。

寒くても、暑くても、電気をふんだんに使っていたアメリカのエネルギー消費が様変わりしている。無駄をしないという意識の変化が、公共でも個人でも見られ、堅実になっている。
ヒルダガードの場合、家の温度設定は人がいる場所は22度C、廊下は17度C。使わない部屋のスティームのバブルは閉めて、こまめにチェックしている。

他の地域は知らないけれど、以前のニューヨーク郊外のロングアイランドでは、1年中、家庭の普段着はシャツやTシャツにパンツ姿が多かった。寒い季節になると、その上に分厚いダウンジャケットを羽織った。時折りの改まった場所で、例えば観劇やコンサートとかパーティなどで、見慣れた服装とお洒落着との落差に目を見張ることがあった。「”馬子にも衣装”の変身だわ」と、感心したのだが・・・。
ところが今回は、室内でのカーディガンやセーター姿が目に付き、脱いだり着たりして調節している。
「厚着が一般的になったし、その分、お洒落も楽しめるのよ」とヒルダガードは言う。ふむふむ、寒暖の季節感があると、お洒落の条件にもなるらしい。会話をしながら理解するその人の感性が、服装のセンスにも伺えるのだから、面白い。

今日は、メトロポリタン・オペラの「ファウスト」鑑賞の日。
午後3時に地区の図書館を出発し、ニューヨークまで貸し切りバスで出かけることになっている。
オペラの企画を担当しているヒルダガードは、昨日から、少々緊張気味だ。バスの運転手との打ち合わせ、出席できない人とのキャンセルの連絡、レストランからのメニュー変更の知らせ、チケットの座席の確認など、ひっきりなしの電話のやり取りが続く。

集合時刻より1時間ほど早く家を出た。
図書館に隣接する高校が、ちょうど下校時刻で、校庭にスクール・バスがズラリと並んでいる。
授業を終えた生徒たちが、次々と校舎から出てくる。
手を繋いだカップルが、別方向のバスに乗るのだろう。何度も何度もキスをして別れを惜しんでいる。目を見つめあっている風景は、まるで映画の1シーン。
辺りを頓着せずに指を舐めながらピザを頬張った女生徒が、無心に歩いていく。こちらは色気より食い気の虜の風情だ。
中年のおっさんといった雰囲気を醸しだしている男生徒がいる。顔中に髭を伸ばし、体格も大きいが、他の生徒と他愛なく話している声は意外に幼くて、「アレレレ・・・」と目を見張ってしまう。声と風貌のミスマッチがすごい。
じゃれるようにして走って行くグループ。解放感いっぱいのエネルギーが溢れている。

黄色のスクール・バスは、アメリカの公民権運動の原点だった。現在は、アメリカのティーン・エイジャーの日常を知る舞台だ。期せずして、目の前の光景は実に興味津々だった。アメリカの高校生の姿を眺めながら、体力・知力の発達がかなりの幅を持っているし、違いがあることを知り、とても楽しかった。バスが出発するまでの時間が短かく感じられた。

2014年11月7日金曜日

[NYへの旅] 12.魚屋で

5日目  3月20日(水)
魚屋で

滞在中に招かれることが多くて、朝・昼食はともかく、夕食を準備する機会がない。ヒルダガードがオペラ企画のために外出が続くので、「今晩は任せといて・・・」と約束。メニューは魚介類中心に決めた。「だったら、新鮮ないい魚屋があるから私も行くわ」と、結局、仕事を終えたヒルダガードに案内されて、夕方、魚介・鮮魚専門店へ出かけた。

店頭には、調理されたものと新鮮な魚介類が並んでいる。
野菜と一緒にオーブンで焼いたもの、ギリシャ風にニンニクたっぷりでビネガーとオリーブオイルに漬けたもの、茹でてサラダにしたものなど。調理されたものは、テイクアウトするのだが、あんまり食欲は湧かない。

その奥に、魚介類が芸術的!に並べられている。
せっかく腕を振るうのだもの。「あれ食べたいなあ」「これもいいなあ」と物色し、2枚におろされた大きいアトランティック・サーモンが魅力的で「美味しそう・・・」と、購入した。

若い店主とのやり取りは、切り身の厚さを決める理解不足で、愉快だった!。
私:「ソテーできるように、三切れ欲しいわ」。
店主: 人差指を突き出しながら「厚さは、どの位?」。
私: 親指と人差し指を重ねるように開いて「これ位に切って。1、5センチ位かなあ・・・」。
店主: 太い人差指と中指を重ねて2本突き出す「Two fingers?」。
(重ねて突き出された太っとい指は、片方でも私の2倍以上の太さだ。指1本を重ねながら厚さを決めるのだと理解する! )
私:「いや、いや、1本でも厚すぎるわ。もっと薄くして・・・」。

こんなやり取りで求めた切り身は、三切れで1、5ポンドたっぷり。一切れが半ポンドということは、450gはある。ヒルダガードは、ニヤニヤしながら一部始終を眺めている。
「大き過ぎるなあ」と嘆く私に、彼女も「私は半分でいい」と同調する。
夫は「僕なら食べるよ。カットしてもらったんだし、余ったら明日の昼ご飯にすればいいさ」と言う。

後でわかったのだが、店主の指を単位に厚さを決めたり、総重量で計ってもらったりとのこと。なまじ日本風に厚さを指示したのが、誤解された。

夕食は、巨大なアトランティック・サーモンのソテーに、バジルで味付けしたポテトとミックスナッツ入りの野菜サラダ。フランス産のチーズ数種類を並べ、パンはカットしただけ。いたって簡単だった。
それでも、久しぶりに料理をして、クッキング大好きの気持ちが叶えられた。
女性はサーモンを半分取り分けて残したが、夫はペロリと平らげ、「大きい胃袋ねえ」と冷やかされた。

余談になるが、今回の旅には、アメリカを訪れる度に何時の間にか溜まってしまったコインを持参している。魚屋での支払いには、切りよくコインを使いたいと並べると、ヒルダガードは、「これは価値があるから、使わないで持っていなさいよ」と囁く。25ドルは紙幣にし、後の3ドル54セントはコインで支払った。
ところが、店主は「このコインは知らないね。見たことないよ」と興味を示した。建国200年(1976年)記念に発行されたコインは、初めてのアメリカ滞在時に、使っていたものだ。

帰宅後、改めてコイン談義になった。アメリカでは州ごとにコインが作られているそうで、鋳造年と合わせて種類が多い。コイン・コレクターに人気のあるものは、売買の対象になるという。

ヒルダガードは、表にバッファロー、裏にインディアンの絵が描かれたコインを取り上げながら、早速検索した。
「これは高額で取引されている。年代が分かれば、2500ドルで売りに出されている貴重なものよ。とっておきなさい」。
ざっと日本円で25万円位。でもね。持っていたってそれだけでは意味はなし。売れればのお話。