2014年12月3日水曜日

[NYへの旅] 29. 旅は終わった

ヒルダガードのホスピタリティを身いっぱいに感じて、旅は終わった。
あれから身辺にハプニングがあって中断し、再開したことはすでに書いたが、旅からなんと1年半以上も過ぎている。いい加減に旅日記をブログに書くことを諦めてもよさそうなのに、旅が楽しかったし充実していた記録を書いておきたい。そんな気持ちが強くて、やっと目的を叶えた。思い出すたびに、未だに余韻を味わう日々だ。

旅日記では、彼女の子どものことに触れたけれども、元夫のピーターについては、触れる機会がなかった。
ヒルダガードとピーターが元夫婦だったことは旅には関係ないから、紹介する必要はないとは思う。だが、私たち夫婦は二人を知っているし、現在までのヒルダガードとの交流が続いている部分に、ピーターの存在は無視できない。個人的ではあるけれど、ある夫婦の話として書こう。
いわゆる「アメリカは・・・」という情報、例えば、結婚・離婚状況や、家族・夫婦・子どもの自立、宗教や政治・経済、その他は、多くはステレオタイプで、「そうかなあ・・・。」と思うことがしばしばある。
100人いれば100通りのアメリカ人の姿があるのだから、自分の見聞にも偏りがあることは承知しているが、アメリカ人の知人・友人や家族を通して、この国の具体的なことを知り、理解することも多い。それが、一般論としてのアメリカ理解にも関係し、納得する機会にもなっている。

そんな気持ちから、旅の実現に至ったヒルダガードとの関わりを過去に遡って、補足し、アメリカの家族の姿、人間関係の背景を書いて、締めくくりたい。
すでに触れて重複する部分は、読み飛ばしていただければと思う。

ヒルダガードの夫のピーターは、高校生のときに交換留学生としてアメリカに来た。彼はドイツの大学卒業後に、アメリカで働きたいと考えていたという。
ヒルダガードと結婚直後に、アメリカに職が決まったので渡米し、その後アメリカ市民権をとった。だから、彼ら夫婦ドイツ系アメリカ人1世だ。

1974年初冬、ピーターは国立研究所(BNL)に転職した。
ちょうどその頃、私の夫が同じ国立研究所に招聘され、家族揃って渡米し、研究所の一角にある外国人用の家族住宅に住んだ。

到着後まもなく、初めて住宅付設のコインランドリーへ出かけた私が、その利用に手間取っていたときに、親切に声をかけてくれた女性がヒルダガードだった。
研究所の住宅には、アメリカ人は半年間の短期居住が認められ、その間に研究所外に住居を探すことになっていたから、ヒルダガードの家族は、偶々住んでいたのだ。コインランドリーが、私たちの運命的なと言ってもいい、出会いの場所となった。縁は異なもの、味なものだ”と、つくづく思う。
その後、ロングアイランドとドイツのヒルダガードの家、日本のわが家を、お互いに訪問したり、旅行を一緒にしたり、家族ぐるみでずっと交流が続いているのだから。

ヒルダガードが、最近になって話した言葉が忘れられない。
「新しい土地に住み始めるって、大変なことなのね。私たちは結婚間もなく、ドイツからアメリカへ来て、そのときに親切にしてもらったことは、よーく覚えている。その家族とは、今も大事なお友だちよ。うれしかった。だから私も、新参者(new  commer)には同じようにしたいと思ったの・・・」と、ポツリと話したのだ。

ヒルダガードの娘アレキサンドラと息子トーマスは、わが家の息子たちと同世代だから、よく戯れ、遊んだ。子どもたちが林の探検に出かけ、ポイズン・アイビーに触れてひどくかぶれ、揃って病院へ駆けつけたこともある。

わが家の次男は、フィラデルフィアにある大学院に留学したが、感謝祭やクリスマスには、ロングアイランドのヒルダガードの家で過ごした。彼女はアメリカのお母さんだった。

1986年夏、旅の途中にニューヨークへ立ち寄った私は、ロングアイランドまで行く時間がなかった。ヒルダガードはわざわざニューヨークへ来てくれ、ロックフェラー・センターのカフェで会った。
ブランチをとりながら、彼女は子どもの教育を巡ってピーターと対立した顛末と、別居して自立する決意を語った。思いがけず私は、「どうして結婚したの?」と聞いた。
ヒルダガードは、遠くを見やる眼差しで話した。
「若い頃の私は、物事を決断するのに自信がなかった。ピーターは、そんな私を励ましてくれ、頼りになった。とても魅力的だったの。アレキサンドラの進学問題さえなければ、別れなかったと思う・・・」と。
その日の光景が鮮やかに蘇ってくる。大きいパラソルが影を広げ、テーブルの足元に雀が群がり、にぎやかに囀りながらパン屑をついばんでいた。

ピーターの家族は、第二次世界大戦が終わった頃、ダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)近郊に住んでいたという。父親は戦地から戻らず、ソ連占領を避けた一家が難民として西へ逃がれ、ハンブルクに辿り着いた。10代半ばのピーターが中心となって、母親と妹を励ましながらの脱出だった。

ヒルダガードとピーターが離婚した後も、ヒルダガードは義妹だったウーゾラと仲の良い友人であり、お互いに訪問し、旅をしている。
2007年春、ヒルダガードと私たち夫婦は北ドイツ方面(ドレスデンやライプティッヒなど)へ旅をしたが、そのときにハンブルクに住んでいるウーゾラが合流した。
私たちはピーターを知っているから、彼が話題になることに気遣いしたが、全くの杞憂だった。

そのとき、ウーゾラがピーターについて語ったのだ。
「西への脱出で、ピーターの責任と行動は、その後の彼の人生にとって、重要な体験だったの。ドイツ人男性の取るべき責任を知ったのね。でも、時代が変わる。それを深く考えていなかったの・・・」と。
ヒルダガードとウーゾラの睦まじい姿を眺めながら、お互いに立場の違いを理解して、個人としての関係を大事にしている素晴らしさに、共感した。

さて前後するが、ヒルダガードの子どものことも少々触れたい。
聡明な娘のアレキサンドラは、高校生の頃、全米の高校生科学コンテストで2位になった。有力な大学から奨学金を出すのでぜひ入学をと誘いがあり、アレキサンドラも希望した。けれども、ドイツ人の父親は、女の子は地元の大学で十分だと主張し、アレキサンドラと決定的に対立、娘が家を出た。

アメリカ生まれの子ども、親子の世代間ギャップに加え、仕事中心で周囲の動きに無頓着なピーターと、時代の変化に対して柔軟性のあるヒルダガード。
結局、家族とは何かということで意見が合わずに、ヒルダガードは娘の希望を叶えさせたいと、ピーターとの別居を決意した。
ピーターは最後まで、「26年の結婚生活を解消して、どうして別居するのかわからない・・・」と言いながら、家を出た。彼は研究所を退職した後にフロリダに住み、ヨットを楽しむ日々だという。

ヒルダガードは子どもたちを引き取り、ピーターからの経済的な援助を一切受けずに、子どもを育てた。彼女はドイツから住宅資材を仕入れ、アメリカで建設して販売する新しい事業を始めた。住宅産業が盛んな頃だったので、うまくいったらしい。それでも、奨学金を得て医学部に進学した娘の教育費のために、ドイツで遺産相続した土地の一部を売っている。
こうしてヒルダガードは親の責任を果たした。その様子を眺めながら、私たち夫婦は彼女の逞しさに共感し、特に女性の立場の大きな変化に、声援を送った。

現在、アレキサンドラはアイオワ大学医学部の教授で、夫のカールも同僚の医者だ。彼らには3人の子どもがいる。ヒルダガードが「アレキサンドラは幸せよ。理解のある子煩悩な夫だから・・・」と言う表情に、彼女の子育ての苦労が報われたと感じた。

息子のトーマスは、母親の苦労を見ていたから、高校卒業後に海兵隊に入り、奨学金を得て大学に進学した。卒業後はシリコンバレーのIT関係の仕事に付き、現在は核関連の国立研究所で働いている。

ヒルダガードと私たち夫婦は同世代だから、国は違っても同じ時代を生きてきた親近感がある。話し出せば切りがないほど、時代の体験には共通するものがある。
日本もドイツも戦争に負け、そこから復興して現在の姿になった。それゆえに、また昔の姿に戻るのは最悪だという意識を共有している。

さらに、ヒルダガードは人の繋がりを大切にする。
ドイツに出かけたときにも、ロングアイランドでも、「紹介したい人がいるのよ」と言い、古くからの彼女の仲間の集まりに誘ってくれた。私たちが単なる旅行者ではなく、訪れた土地に友人ができ、さらに類を呼ぶ交流が続いているのは、彼女のお陰だ。

また、お互いに好奇心旺盛で、文学・美術・音楽・演劇に興味があるから、メールで情報交換をし、会えば延々と話が弾む。
今回の旅にも、「オー・ド・ビーを飲みながら話すことを、メモしてくること」と、メールで注文が届いた。彼女流の冗談だけれど・・・。

彼女と出会ったときから不思議にウマがあった。こうして続いている縁がわが家の生活を彩り、豊かにしていることの不思議さ。今回のニューヨークへの旅で、改めて感じている。

夫のHP本館の「こんな旅をしてきた」の項目で、(2007年4月〜5月  ドイツ)と、(2008年4月 ラインクルーズ)には、ヒルダガードの関わりを書いている。
合わせてご覧いただければ、嬉しい。

以上(完)

[NYへの旅] 28. 無事に帰国

 3月28日(木)〜29日(金)〜30日(土)

ニューヨーク時間の18時頃、JFKを離陸。
19時40分頃、ドリンク・サービスの後食事。
21時。食べている最中から眠気に襲われ、本格的におやすみなさい。
全ての日程が終わって気分が緩み、流石に疲れた。途中で1度目覚めたが、翌朝の5時半頃まで熟睡した。なんと8時間以上もスヤスヤ!

パネル上の飛行ルートを眺めると、紋別上空辺りだ。
ここで、日本時間に変更すると夕刻18時半頃。日本では夜を迎えたばかり。
もう1晩寝ることになる!

窓から眼下を見下ろすと雲海が広がっている。パネルの地図と睨めっこしながら窓の外を眺めると、高度が低くなっているのか、ときどき、電灯がきらめき始めている。それからの時間の経過は早かった。
石巻(19時50分)、相馬(19時55分)、いわき(20時)、日立(20時5分)、水戸(20時10分)。やがて、九十九里海岸から大回りするようにして、成田空港に真っ直ぐ向かっている。
3月29日(金)20時30分頃成田空港着。春休みだからか、旅行する人が多い。
入国審査に手間取り、荷物の引き取りに時間がかかり、帰国の電話で長くなり、後泊する空港近くのヴュー・ホテルへチェック・インしたのは10時近く。

3月30日(土)
早々と目覚めたので、PCで朝日新聞を読み、8時には、NHK朝ドラ「ごちそうさん」の最終回を観た。朝食は久しぶりの日本食で、味噌汁、海苔、浅漬け、蒲鉾、アジの干物など、日本の馴染んだ味に、「帰った・・・」と落ち着いた気分になった。「美味しいね。やっぱり日本人だ」と。

10時過ぎにホテルをチェック・アウトし、夫の運転で水戸の自宅へ。
何時の間にか霧雨が降りだしている。「春雨じゃ。濡れて行こう」の風情で、悪くない。
黄金色の菜の花が遠くまで広がっている。「菜の花畑に入りし月よ。見渡す限り・・・」のメロディを思い出す。日本には、昔かららこんな風景があったのだ。春ならではの風景が嬉しい。
道沿いの神社や集落にある巨木の桜が、満開の花で覆われている。農家の庭にも桜が咲き誇っている。「ギリギリセーフでお花見に間に合って、よかったわ」と、季節の幸運を感じ、日本の春を堪能する。

ところが、何回見ても呆れる風景が出てくる。辺りの田園や小さな丘陵を見下ろして、広大な墓地の所在を示す「巨大な観音像」が立っている。いただけない。「どんな気持ちなんだろう」と、造営した当事者の無神経さに呆れ、こんなものに護られる墓地そのものまでが疎ましくなる。いつだったか、夜のドライブをしたとき、暗闇に浮かぶ巨像が恐怖心を煽り、不気味だった。成田空港と水戸の自宅を結ぶ路線で、嫌いな部分だ。

自宅近くのスーパーマーケットに寄って魚や豆腐を買うと、非日常から現実の日常生活へ戻った。

[NYへの旅] 27. さようなら、ニューヨーク

13日目  3月28日(木)
一夜明けた午後、全ての滞在の日程を終えて、日本への帰国の途についた。
家族揃って初めての外国体験をしたロングアイランドを訪れ、ヒルダガードとの再会を果たした。さまざまな追憶を胸に、想い出の地を懐かしみ、友人知人と語り、さらに新しい事物にも触れて、充実した毎日だった。もう思い残すことはない。

ホテルからJFKまではリムジンを利用したが、他の乗客はいなかった。
運転手は人懐っこくて、まるで個人ガイドよろしく、空港までの観光スポットを説明してくれた。
それに、彼はセブンスデイ・アドベンティスト(アメリカの新興キリスト教のひとつ)の信者で、飲酒や喫煙はしない、コーヒーも飲まない、豚肉は食べない、土曜日は働かないなど、信仰のあれこれを話した。

搭乗までの時間の余裕をみていたので、空港では荷物を預けて身軽になった後、観光客をウオッチング。
面白かったのは、地方からの中高生の団体だ。
集合時間になったのか、三々五々集まってくる。先生が何やら指示しているが、賑やかで、言うことをまともに聞いていない。徹底できない指示にも問題ありだなあ・・・。
そのうちに、次々に名前を呼び出すアナウンスが響く。
傍にいる年配の男性教師が、興味津々で様子を眺めている私たちに気づいて、「これからスペインのバロセロナへの修学旅行に出かけるんです・・・」と話しかけてくる。
何度も同じ名前の呼び出しが繰り返されている。まだ飛行機に乗っていないのに、引率はさぞ大変だろう。「無事に修学旅行が終わりますように・・・」と、元高校教師は切実に思う。
かと思えば、仲良しのカップルが抱き合って、周りのことなど眼中にない。

搭乗手続きのチェックは、とてもとてもの二乗の猛烈な厳しさ。X線はもちろん、靴を脱ぎ、念入りなボディタッチなど、ピリピリする空気が漂い、テロ事件の警戒で人間不信を丸出しにしている。そんな警戒をしなくては、国家としての体面と安全が保てないのだと不幸な一面を痛感。現在のアメリカが抱える政治・外交の問題と国家の本音を垣間見る。
アメリカ人の友人・知人は素晴らしい仲間だと親近感を抱いているのに、個人を超えた問題は厳しい。
「アメリカへの旅は、最後になるだろうな・・・」と思いながら、搭乗した。

[NYへの旅] 26. ハイライン・ウオーキング

3月27日(水) その4
ニューヨーク観光の最後はハイライン・ウオーキング。
今度の旅で会った友人の多くが、目を輝かせながら、異口同音に話した。
「ハイライン・ウオーキングは絶対にお勧めよ。十分に楽しめるから、ニューヨークに来たら出かけなくっちゃ・・・」と。アメリカ人の底抜けのホスピタリティを感じながら、「こんなにまでニューヨークっ子を虜にする魅力の場所には、出かけなければなるまい・・・」と、旅の最後に予定に入れた。

地上9メートルの高さだから「ハイライン」、そこを歩くので「ハイライン・ウオーキング」と呼んで、新しい観光名所になっている。

およそ80年前(人間なら傘寿!)の1934年に、ハドソン川に沿って、貨物専用の高架鉄道が開通した。川と陸を結ぶ物流を担って重要な路線だったが、車の普及で物資輸送の役割が終わり、廃止された。
アメリカの発展を担った地域を走り、ニューヨークの歴史を体現した鉄道だったから、消滅を惜しんだ有志が、高架鉄道の保存を呼びかけた。
こうして、2009年に、12丁目から30丁目の間に、人が利用するハイライン(観光ガイドブックには、”空中庭園”と書いているものもある)が出現した。

歩き始めてから間もなく、知恵を出しあって様々なアイディアを出し、考え抜かれてつくられた遊歩道に感心した。「素晴らしい!」と、何度も呟きながら・・・。
セントラル・パークの緑や空間とは、規模からして比較できないけれど、都会の自然がもたらすゆとりやあたたかさは同じだと感じた。

列車のための地上9メートルの高架をそのまま利用した道は、標準的なビルの3階の高さになる。街路を歩くのとは異なって、視界が拡がって面白い。ところどころ、目の前に立ちはだかるビルが途切れ、碁盤の目のように区画された南北の通りが、ずーっと見渡せる。期せずして、ニューヨークの市街が俯瞰できて、うれしくなる。
かと思えば、柵から身を乗り出して真下を見ると、かなり大きな木造の廃屋がある。貨物鉄道の衰退とともに、時代の進展についていけず、打ち捨てられていった暮らしがあったのだろう。

軌道を保護するための植樹が、遊歩道の趣を演出している。場所によって異なった樹木が植えられ、樹高もさまざまだから、限られた軌道跡の変化は豊かだ。

ハドソン川を見下ろす地点に佇むと、河畔のベンチに、肩を抱き合うアベックが座っている。タイミングよく、観光客を乗せたフェリーが通り過ぎていく。

おや、おや。ちょっと広い場所で、地面に寝そべって昼寝をしている若者たち。
枕にしている荷物から推測すると、バックパッカーらしい。
その近くでは、日向ぼっこをしながらアイスクリームを舐めている少女グループ。

ヴァイオリンを弾く女性とアコーディオンを奏でる男性は知り合い同士か。聴衆の反応を確かめながら、サービス精神たっぷりで、ご本人たちも楽しんでいる風情だ。

ジャグリングの技を披露し、子供たちの歓声を浴びているピエロ姿の若い男性。

芝生の上に売り物らしい絵画を置いた傍らで、読書をしている人たち。

快晴だった空にときおり雲が拡がって寒くなった。タンクトップ姿でジョギングをしながら駆け抜けて行く男女の二人連れ。

ハイラインができる前は列車が走っていたから、沿線の建物を覗く者は、ほとんどいなかったに違いない。今は、すぐ前に窓が並んでいるから、覗かれたり、覗いたり。
「どうぞご覧ください」とばかり、窓を開け放して、部屋の内部の装飾を見せている家。どんな人がいるのかと立ち止まって覗くと、笑顔の老人が座っている。「退屈を紛らせるこんな遊び!をしている」と思いながら、手を振り返す。
しばらく歩くと、人が窓にぶら下がっている。「危ない!」とドキリとしたが、巧妙に作られた人間と同じ大きさの人形だった。驚かせるのを面白がっている感じだ。また、「Welcome」のプレートを掲げた人形が、窓枠に座っている。手をのばせば、窓に届くような距離だが、まさか、ここから訪問する者はいる? いない? 
 
カーテンをしっかりおろし、閉鎖している家。住人には、有難迷惑のハイラインなのだろうか。

考え抜かれたアイディアでいろいろな表情を見せる遊歩道は、古い歴史を活かし、それを利用する人間を大事にしている。ニューヨークが生み出した斬新な施設としての印象が新鮮だったし、楽しめたし、得難い経験だった。

[NYへの旅] 25. MPDとチェルシー・マーケット

3月27日(水) その3
午前中のグラウンド・ゼロの観光は重かった。
「気分転換をしたいね」と、地下鉄のEラインに乗り、4つ目の14ストリートまで行く。この辺りで昼食を済ませ、午後はハイライン・ウオーキングをする計画だ。

ニューヨークの精肉加工場が集まっていた一画は、その名もずばり「Meat Packing District=MPD」と呼ばれている。今はすっかり変わって、新進気鋭のデザイナーがブティックを開き、ファッションの最先端を牽引しているらしい。ニューヨークに住む人はじめ、観光客も集まっている地区だという。お洒落な店を覗きながらブラブラ歩きもよかろう。
なるほど、以前は工場だったことを思い出させる大きなコンクリートの建物が改装され、衣類、バッグ、靴などの、人目をひく綺麗な店が並んでいる。
でもね。それが一番の問題なのだが、スタイルといい、色彩といい、それにサイズにしても、およそわがお年頃とは無縁のものばかり。
初めは好奇心を満たす何かを期待して歩き始めたが、まもなく「残念だけど、面白くない・・・」と諦めると、夫もホッとした。

「そろそろ食事を考えよう」と、レストランを探しながら、近くにある「チェルシー・マーケット」に入った。
天井が高くて、明るい。旅先のどこの国でも、必ず行きたいバザールに共通している。都会の市場だからごちゃごちゃしていないが、人が群がって、人間臭い雰囲気だ。
生鮮野菜と果物、肉・魚・チーズやハム類の加工食品、花卉や民族固有の香辛料や雑貨類もある。住民の胃袋を満たす品々を眺め、人々の食生活について想像する。
「どうやって食べるの?」と聞くと、丁寧に教えてくれる店のおばさん。
興味のある店を見て回りながら、お土産になる食品を物色したり。
さっきまでのもやもやしていた気分が和んでくる。日常生活に直結している品々、特に食料品は、何を食べているか、どんな料理をするのかと、人々の暮らしを想像させ、生きることを考えさせる。
「これ、いいねえ・・・」と立ち止まっては、好奇心を募らせた。

マーケットの周囲に食べ物屋が並んでいて、観光客が群れている。「ここで昼食にしよう」と覗き込み、久しぶりに中華料理にした。
一皿の量が多いし、少々油っぽく感じられて、食欲がない。こんな時、夫は元気おじさんの面目躍如で、「味は美味しいよ。油っこいなんてことない」と言う。
ニューヨークに移動してから欲張った観光をし、今日は旅の最終日だ。身体は疲れを感じているから、「胃袋もお疲れ・・・」だったのだろう。

グラウンド.ゼロを訪れて感じたこと


[NYへの旅] 24. 3月27日(水)その2
「サバイバー・ツリー=生還の木(マメナシの木)」が1本。サウス・プールの西側に枝を広げている。
1970年代に旧世界貿易センターの広場に植えられ、9.11後に、グラウンド・ゼロの瓦礫の中から焼け焦げた切り株となって発見された。ニューヨーク市の公園に移され、奇跡的に芽を吹き、新しい枝が伸び、花が咲くまでになった。ところが、2010年3月の暴風雨で根元から倒れてしまい、それでもしぶとく生き延びて、その年の12月にグラウンド・ゼロの敷地に戻された。
こうして、テロにも負けず、嵐にも倒れず、9・11事件の歴史を記憶する「生存と復活」のシンボルの木となった。

グラウンド・ゼロにあるサバイバー・ツリー以外の樹木は、「スワンプ・ホワイトオーク(ブナ科)」で、まだ若い。同時テロの標的になった3ヵ所(注)の攻撃地点から半径800キロメートル圏内にある苗床から選ばれて、グラウンド・ゼロの全施設が完成するまでに、400本以上が植えられる予定だという。

(注)攻撃の標的になった3カ所・・・①ニューヨークの世界貿易センターのツインタワー、②ヴァージニア州アーリントンにあるペンタゴン=国防総省本庁舎、③ペンシルバニア州のシャンクスヴィル

ニューヨークの新しい観光地となっているグラウンド・ゼロ。
刻々とタワーが崩壊し、粉塵を上げていたテレビ中継を、再び思い出した。
テレビに釘付けになったあの日。この世の現実ではないと思いたかったあの日。
テロから10年余の時間が過ぎ、ここを訪れる人々にさまざまな感慨をもたらす空間に変わっている。

ユニフォーム姿のボーイ・スカウトやガール・スカウト、あるいは在郷軍人のグループ。遠くの州からやってきた観光客の男女は、お揃いの真っ赤なジャンパーを着ている。中には星条旗を手にする人たちもいる。この日、団体が目立ったのは偶々だったのだろうか。世界中のさまざまな民族衣装を着た観光客も多い。

ここを訪れた人々は、男女を問わず、老いも若きも、なにかを感じているに違いない。9.11テロ事件を境にして、ブッシュのアメリカ政府は、イスラム勢力の中東地域への強行姿勢をあらわにした。未だに、空爆やテロの応酬が続き、混沌とした争いに解決はみえない。

グラウンド・ゼロの記念碑は犠牲者への追悼の気持ちをあらわす施設として建造されたが、確かにそうだけれど、土台には反アルカイダ、反イスラムの立場で、断固として闘うことを宣言しているのではないか。団体の観光客の姿を眺めながら、アメリカの世論の一端を垣間見た気がした。愛国心を高揚する観光地の出現だと、そんな深読みが必要ないことを思いながら・・・。
これから、世界はどうなって行くのだろうかという虚しさが、胸に残った。
「テロは許さない」と言う一方で、軍事的な動きが活発になっている。報復の連鎖がますますひどくなっている。

[NYへの旅] 23.国立9.11記念公園ん(グラウンド.ゼロ=爆心地)を訪ねる

3月27日(水)その1

何人もの人から、アドヴァイスがあった。「グラウンド・ゼロに行くつもりなら、電話で予約した方がいいよ。とても待たされるから・・・」と。
滞在中の予定は、友人・知人が絡むのなら予め時間や場所を決めるが、場所が目当てなら逃げるわけでもなし。何とかなるさ精神で臨機応変に行動する夫は「混んだって大丈夫だよ」と言う。「MoMAのような混雑だったらどうするの?」と気にする妻に、「心配性のオクさんを持つと、大変だよ」と笑い、妥協して早めにホテルを出ることにした。
今までの経験で予約が有効だったのは、まあ半々と言ったところだろうか。

地下鉄のレキシントン駅でダウンタウン方面のE線に乗ると、黒人やアジア系の乗客が目立つ。アメリカ人の住居の住み分けとコミュニティが、路線の利用者に反映している。

朝が早かったので、拍子抜けするほどグラウンド・ゼロ入場の列は空いていた
もっとも、リュック・サックやバック類の検査は、空港のセキュリティ・チェックと同じ厳重体制で行われ、そこで時間がかかった。後から来て、待たされることなくチェックを終えたグループは、予約していたのだろう。これが友人たちの親切な助言だったのだとわかった。

検査を終えると、多くの言語のパンフレットが並ぶ棚から、資料を取り上げた。それを読んで、グラウンド・ゼロ建設の趣旨を理解した。
要約すると、以下になる。
「国立9.11記念碑」は、2001年9月11日の同時多発テロと、1993年2月26日の爆破事件で亡くなった2983人を追悼するために建設された。犠牲者のうち400人以上は初動レスキュー隊員だった。
犠牲者の出た地を神聖な場所として、尊厳を保つために計画された。
③他人を救うために、自らの命を捧げた人々の勇気と他人への思いやりの心を称え、9. 11直後にうまれた絆と団結心を共有できる場所にする。

テロ事件から10年の2011年9月、「9.11記念碑」の一部が完成し、ふたつのプールと博物館の部分だけ公開された。その周辺ではヘルメット姿のたくさんの労働者が働いていて、大規模な建設工事が進行中。公園としてのグラウンド・ゼロの完成は、ずっと先になるのだろう。

ツイン・タワーが聳えたっていた世界貿易センターの跡地を見回すと、テロ事件前に林立していたビルの敷地は、意外に広い。太陽がいっぱい降り注いでいる。
帰国後に調べると、1966から77年にかけて、6・5ヘクタールの敷地に6棟のビルが建設されている。ニューヨークにある建造物の中では、比較的歴史が浅いことを知った。周囲には、年期が入った古いビルが並んでいる。中にはツイン・タワー崩壊のあおりで破損の激しい建物が、当時の姿をとどめたままで建っている。

東西ふたつのプールは、ツイン・タワーが建っていた場所に造られ、段差(9メートル)を利用した滝からは、陽の光を受けてキラキラ輝やく水が流れ落ち、間もなくプール中央の空洞に注ぎ込んでいく。まるで奈落に吸い込まれるように見える水の流れが、地獄を想起させる。ビルが崩壊していった姿を現しているのだろうか。

四角いプールの周辺は青銅の壁で造られ、やや斜めになっている上面に、犠牲者の名前が刻まれている。漢字の名前を所々に見つけ、富士銀行ニューヨーク支店勤務の24人だと気づいた。

その頃、大学時代の友人の娘さんが、富士銀行勤務の人と結婚してニューヨークに住んでいたが、テロ事件で未亡人になった。まだ30歳代の若さだった。悲嘆にくれる母親の姿に、言葉を失った。
ここに名前を連ねている人々と彼らの家族・縁者は、普通の暮らしをしていたのに・・・。そう。テロは傍若無人で人の命を抹殺したのだ。

さらに思い出す。同時中継された映像は、衝撃だった。
黒い煙が立ち上り、粉塵をあげながらビルの倒壊がどんどん進んでいく。
快晴の空を背景に、バラバラと降っているビルの資材、勢いよく落ちて行く人。
頭から血を流しながら、口を覆いながら、非常階段を降りてくる人々。
地上では、警察官が必死になって逃げる人をガイドしている。
ホースを抱えて階段を上っていく消防士たち。
無線機の飛び交う雑音が聞こえる。
「ア、ア・・・」「アレーッ・・・」「ウワーッ・・・」。言葉にならない声をあげていた。

その日、夫は体調が振るわず、ベッドで休息していた。
「大変よ!。起きて!。ニューヨークの貿易センターのツイン・タワーに、アルカイダのテロリストが飛行機で突っ込んだのよ。見て!、早く!・・・。」と、大声をあげる私。
「映画のシーンじゃないのかい」と、寝ぼけている夫。
「現実に起こっているのよ。リアルタイムで中継されている映像・・・」という声に、「本当かい?」と、夫は起き出したのだった。