2014年12月3日水曜日

[NYへの旅] 29. 旅は終わった

ヒルダガードのホスピタリティを身いっぱいに感じて、旅は終わった。
あれから身辺にハプニングがあって中断し、再開したことはすでに書いたが、旅からなんと1年半以上も過ぎている。いい加減に旅日記をブログに書くことを諦めてもよさそうなのに、旅が楽しかったし充実していた記録を書いておきたい。そんな気持ちが強くて、やっと目的を叶えた。思い出すたびに、未だに余韻を味わう日々だ。

旅日記では、彼女の子どものことに触れたけれども、元夫のピーターについては、触れる機会がなかった。
ヒルダガードとピーターが元夫婦だったことは旅には関係ないから、紹介する必要はないとは思う。だが、私たち夫婦は二人を知っているし、現在までのヒルダガードとの交流が続いている部分に、ピーターの存在は無視できない。個人的ではあるけれど、ある夫婦の話として書こう。
いわゆる「アメリカは・・・」という情報、例えば、結婚・離婚状況や、家族・夫婦・子どもの自立、宗教や政治・経済、その他は、多くはステレオタイプで、「そうかなあ・・・。」と思うことがしばしばある。
100人いれば100通りのアメリカ人の姿があるのだから、自分の見聞にも偏りがあることは承知しているが、アメリカ人の知人・友人や家族を通して、この国の具体的なことを知り、理解することも多い。それが、一般論としてのアメリカ理解にも関係し、納得する機会にもなっている。

そんな気持ちから、旅の実現に至ったヒルダガードとの関わりを過去に遡って、補足し、アメリカの家族の姿、人間関係の背景を書いて、締めくくりたい。
すでに触れて重複する部分は、読み飛ばしていただければと思う。

ヒルダガードの夫のピーターは、高校生のときに交換留学生としてアメリカに来た。彼はドイツの大学卒業後に、アメリカで働きたいと考えていたという。
ヒルダガードと結婚直後に、アメリカに職が決まったので渡米し、その後アメリカ市民権をとった。だから、彼ら夫婦ドイツ系アメリカ人1世だ。

1974年初冬、ピーターは国立研究所(BNL)に転職した。
ちょうどその頃、私の夫が同じ国立研究所に招聘され、家族揃って渡米し、研究所の一角にある外国人用の家族住宅に住んだ。

到着後まもなく、初めて住宅付設のコインランドリーへ出かけた私が、その利用に手間取っていたときに、親切に声をかけてくれた女性がヒルダガードだった。
研究所の住宅には、アメリカ人は半年間の短期居住が認められ、その間に研究所外に住居を探すことになっていたから、ヒルダガードの家族は、偶々住んでいたのだ。コインランドリーが、私たちの運命的なと言ってもいい、出会いの場所となった。縁は異なもの、味なものだ”と、つくづく思う。
その後、ロングアイランドとドイツのヒルダガードの家、日本のわが家を、お互いに訪問したり、旅行を一緒にしたり、家族ぐるみでずっと交流が続いているのだから。

ヒルダガードが、最近になって話した言葉が忘れられない。
「新しい土地に住み始めるって、大変なことなのね。私たちは結婚間もなく、ドイツからアメリカへ来て、そのときに親切にしてもらったことは、よーく覚えている。その家族とは、今も大事なお友だちよ。うれしかった。だから私も、新参者(new  commer)には同じようにしたいと思ったの・・・」と、ポツリと話したのだ。

ヒルダガードの娘アレキサンドラと息子トーマスは、わが家の息子たちと同世代だから、よく戯れ、遊んだ。子どもたちが林の探検に出かけ、ポイズン・アイビーに触れてひどくかぶれ、揃って病院へ駆けつけたこともある。

わが家の次男は、フィラデルフィアにある大学院に留学したが、感謝祭やクリスマスには、ロングアイランドのヒルダガードの家で過ごした。彼女はアメリカのお母さんだった。

1986年夏、旅の途中にニューヨークへ立ち寄った私は、ロングアイランドまで行く時間がなかった。ヒルダガードはわざわざニューヨークへ来てくれ、ロックフェラー・センターのカフェで会った。
ブランチをとりながら、彼女は子どもの教育を巡ってピーターと対立した顛末と、別居して自立する決意を語った。思いがけず私は、「どうして結婚したの?」と聞いた。
ヒルダガードは、遠くを見やる眼差しで話した。
「若い頃の私は、物事を決断するのに自信がなかった。ピーターは、そんな私を励ましてくれ、頼りになった。とても魅力的だったの。アレキサンドラの進学問題さえなければ、別れなかったと思う・・・」と。
その日の光景が鮮やかに蘇ってくる。大きいパラソルが影を広げ、テーブルの足元に雀が群がり、にぎやかに囀りながらパン屑をついばんでいた。

ピーターの家族は、第二次世界大戦が終わった頃、ダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)近郊に住んでいたという。父親は戦地から戻らず、ソ連占領を避けた一家が難民として西へ逃がれ、ハンブルクに辿り着いた。10代半ばのピーターが中心となって、母親と妹を励ましながらの脱出だった。

ヒルダガードとピーターが離婚した後も、ヒルダガードは義妹だったウーゾラと仲の良い友人であり、お互いに訪問し、旅をしている。
2007年春、ヒルダガードと私たち夫婦は北ドイツ方面(ドレスデンやライプティッヒなど)へ旅をしたが、そのときにハンブルクに住んでいるウーゾラが合流した。
私たちはピーターを知っているから、彼が話題になることに気遣いしたが、全くの杞憂だった。

そのとき、ウーゾラがピーターについて語ったのだ。
「西への脱出で、ピーターの責任と行動は、その後の彼の人生にとって、重要な体験だったの。ドイツ人男性の取るべき責任を知ったのね。でも、時代が変わる。それを深く考えていなかったの・・・」と。
ヒルダガードとウーゾラの睦まじい姿を眺めながら、お互いに立場の違いを理解して、個人としての関係を大事にしている素晴らしさに、共感した。

さて前後するが、ヒルダガードの子どものことも少々触れたい。
聡明な娘のアレキサンドラは、高校生の頃、全米の高校生科学コンテストで2位になった。有力な大学から奨学金を出すのでぜひ入学をと誘いがあり、アレキサンドラも希望した。けれども、ドイツ人の父親は、女の子は地元の大学で十分だと主張し、アレキサンドラと決定的に対立、娘が家を出た。

アメリカ生まれの子ども、親子の世代間ギャップに加え、仕事中心で周囲の動きに無頓着なピーターと、時代の変化に対して柔軟性のあるヒルダガード。
結局、家族とは何かということで意見が合わずに、ヒルダガードは娘の希望を叶えさせたいと、ピーターとの別居を決意した。
ピーターは最後まで、「26年の結婚生活を解消して、どうして別居するのかわからない・・・」と言いながら、家を出た。彼は研究所を退職した後にフロリダに住み、ヨットを楽しむ日々だという。

ヒルダガードは子どもたちを引き取り、ピーターからの経済的な援助を一切受けずに、子どもを育てた。彼女はドイツから住宅資材を仕入れ、アメリカで建設して販売する新しい事業を始めた。住宅産業が盛んな頃だったので、うまくいったらしい。それでも、奨学金を得て医学部に進学した娘の教育費のために、ドイツで遺産相続した土地の一部を売っている。
こうしてヒルダガードは親の責任を果たした。その様子を眺めながら、私たち夫婦は彼女の逞しさに共感し、特に女性の立場の大きな変化に、声援を送った。

現在、アレキサンドラはアイオワ大学医学部の教授で、夫のカールも同僚の医者だ。彼らには3人の子どもがいる。ヒルダガードが「アレキサンドラは幸せよ。理解のある子煩悩な夫だから・・・」と言う表情に、彼女の子育ての苦労が報われたと感じた。

息子のトーマスは、母親の苦労を見ていたから、高校卒業後に海兵隊に入り、奨学金を得て大学に進学した。卒業後はシリコンバレーのIT関係の仕事に付き、現在は核関連の国立研究所で働いている。

ヒルダガードと私たち夫婦は同世代だから、国は違っても同じ時代を生きてきた親近感がある。話し出せば切りがないほど、時代の体験には共通するものがある。
日本もドイツも戦争に負け、そこから復興して現在の姿になった。それゆえに、また昔の姿に戻るのは最悪だという意識を共有している。

さらに、ヒルダガードは人の繋がりを大切にする。
ドイツに出かけたときにも、ロングアイランドでも、「紹介したい人がいるのよ」と言い、古くからの彼女の仲間の集まりに誘ってくれた。私たちが単なる旅行者ではなく、訪れた土地に友人ができ、さらに類を呼ぶ交流が続いているのは、彼女のお陰だ。

また、お互いに好奇心旺盛で、文学・美術・音楽・演劇に興味があるから、メールで情報交換をし、会えば延々と話が弾む。
今回の旅にも、「オー・ド・ビーを飲みながら話すことを、メモしてくること」と、メールで注文が届いた。彼女流の冗談だけれど・・・。

彼女と出会ったときから不思議にウマがあった。こうして続いている縁がわが家の生活を彩り、豊かにしていることの不思議さ。今回のニューヨークへの旅で、改めて感じている。

夫のHP本館の「こんな旅をしてきた」の項目で、(2007年4月〜5月  ドイツ)と、(2008年4月 ラインクルーズ)には、ヒルダガードの関わりを書いている。
合わせてご覧いただければ、嬉しい。

以上(完)

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